終章
あけましておめでとうございます!
本作はこれで最終回ですが、他の作品はまだ連載中のものもありますし、今年もまたどこかで新連載をはじめたいなと思っております。
今年もどうぞよろしくお願いいたします(*^^*)
廂の柱に背中を預けて座って、綾女は届いたばかりの文を読んでいた。
三月にもなれば、日中の日差しはぽかぽかと心地がいい。
「ふふ……」
つたない文字につい笑みをこぼしていると、衣を日差しに当てると言って衣架を並べていた命婦が作業を終えてやってきた。
「まあ姫様、楽しそうでございますね。姫宮様のお手紙にはなんと?」
「内裏の桜が咲いたから、兄様とお花見を楽しんだそうよ。久しぶりに弟宮とも会えて嬉しかったと書いてあるわ」
手紙は脩子内親王からだった。
将門公を無事に封印し終わって数日後、綾女は内裏を去ることになった。
そのときに、行かないでほしいと縋る脩子内親王と文通の約束をしたのである。その文がこれだ。
帝も左大臣も、内裏の部屋は空いているのだからこのまま住めばいいと言ってくれたけれど、内裏には紫苑がいない。
それに、すでに一度去った身だ。いつまでも綾女が内裏に居座っていては嫌な顔をする者も必ず出てくる。
「そういえば、明日の準備はすんでいるかしら?」
「もう整っていますよ。楽しみでございますね」
「ええ、とっても!」
明日は、高野に向けて旅立つ日だった。紫苑が約束を守ってくれたのだ。
女人禁制なので行けるところは限られるけれど、ようやく、父の眠る高野山を見ることができる。
距離があるので、しばらく留守にすることになるだろう。帰って来るのは来月になるだろうと思われる。
命婦も一緒にと言ってくれたが、彼女の年齢になると長旅は堪える。ゆえに、今回は留守番をしてもらうことにしていた。
「明日から旅に出ることを文に書いておかなくちゃね」
支度は命婦がしてくれたから綾女はすることがないが、方々に連絡は入れておかねばならないだろう。とはいえ、綾女が連絡する相手は脩子内親王以外に帝や左大臣くらいしかいないのだが。
帝たちに事前に伝えなかったのは、長旅に難色を示されそうな気がしたからだ。なんだかんだと、帝も左大臣も心配性なのである。
ゆえに、出発を邪魔されないよう、文は明日の朝にでも届けてもらうように手配しておけばいいだろう。
帰ってきたら小言の一つか二つ言われるかしらと、綾女はおかしくなる。小言を想像しても楽しくなるなんて、自分は相当浮かれているらしい。
読み終わった文をたたんで、綾女は大きく伸びをした。
「いいお天気ねえ。お昼寝したくなるわ」
「いけませんよ、姫様。こんなところでお昼寝など」
「あったかいわよ?」
「そういう問題ではございません。誰かに見られたらどうします」
誰かに見られるというが、土御門大路の邸は結界が張られているので、外から覗き見ようとしたところで無理なのだ。
だけど、命婦の感覚では廂で文を読むのはよくてもお昼寝はだめなのだろう。顔をさらしているのは同じなのに、そこの線引きがよくわからない。
命婦に禁止されたのでお昼寝は諦めて、脩子内親王への返事を書こうかと立ち上がった綾女は、鬼神の一人が新たな文箱を持ってくるのが見えた。
今更だが二人の鬼神は「星」と「虎」という名なのだそうだ。ちょっと言いにくいので、綾女は「お星」と「お虎」と呼ぶことにした。本人たちもそれで構わないというので問題ないだろう。
「お虎、新しい文?」
「ええ。左大臣殿からでございますよ」
口端を持ち上げて虎が微笑む。命婦が文箱を受け取ると、優雅に一礼してしずしずと去っていった。二人はどこかの誰かさんと違ってとても静かである。
と、余計な誰かさんを思い出したからだろうか。
「よ~め~さ~ま~!」
うるさいのがやって来てしまった。
空中を走ってきた綿星は綾女の前で急停止すると、首に括り付けていた小さな風呂敷を差し出した。
「宮中で先ほどまで蹴鞠が興じられておりましてな! 椿餅がふるまわれていたので、こっそりいくつか持ってまいりました!」
「盗んできたってこと?」
「人聞きの悪い! ちゃんと、いただきますとお声がけは致しましたぞ」
「誰にも聞こえてなかったら同じことでしょう!」
あきれつつも、持ってきてしまったものは仕方がない。ありがたく頂戴することにしよう。
命婦が「お茶を入れましょうね」と言って去っていく。命婦に綿星の姿は見えないが、綾女の様子で感じ取ったのだろう。微苦笑を浮かべていた。
お茶が来る間、先ほどお虎が持って来てくれた文を開く。
「あら、伯父様からじゃないの」
珍しいこともあるものだと読み進めた綾女は、次第に顔を曇らせた。
「ちょっと綿星、大変よ! 今日の未の刻の頃に伯父様が来るって書いてあるわ!」
「なんですと!」
「紫苑はまだ帰らない?」
「今日は、明日から長期間留守にするために雑事を片付けておくとおっしゃっていましたからなあ……。早くとも申の刻の帰宅になるのではございませんか?」
綾女はがっくりと肩を落とした。紫苑が帰ってきていたら晴明の姿でかわりに相手をしてもらおうと思ったのに、いないのなら綾女が相手をするしかない。
前回内裏に戻れと言ったことといい、伯父がわざわざ訪ねてくるなんて、また面倒なことを言い出す可能性があった。
というのも、文ですむ内容なら文に書くからだ。わざわざ来るということは、文には書けないことを話しに来るということである。
(伯父様ってばどうしてこうせっかちなのかしら!)
せめて昨日あたりに来訪を伝えてくれれば準備もできたのに。
高坏にお茶を載せて戻ってきた命婦に伯父が来ると伝えると、命婦も慌てだす。
ここでは表向きは晴明と暮らしていることになっているので、綾女は東の対に移動してそこで相手をせねばならない。綾女が北の対――主人の妻が住まう部屋で暮らしているとわかればひと騒動どころの騒ぎではないからだ。伯父には絶対に知られてはならない。
そして、伯父が来るのなら服を着替えなくては。これはのんびり椿餅を食べている暇はなさそうだ。
綾女は椿餅を一つ急いで口の中に押し込むと、お茶で胃に流し込んで、命婦に急かされて立ち上がった。
「綿星、美味しかったわ! 硬くならないうちに残りは食べちゃって」
「やや、よろしいのですか?」
「ええ」
綿星が団子や餅を好んでいることはわかっている。きらきらと青い瞳を輝かせる綿星にくすりと笑って、綾女は急いで着替えをすませることにした。
御簾を降ろし、その中で待っていると、昼八つの鐘が鳴る少し前に道長伯父がやってきた。
内裏を去るときに会ったが、そのときよりもだいぶ顔色がいい。心労がなくなったからだろうか。
「主上のご様子はいかがですか?」
命婦にかわりに訊ねてもらうと、伯父は目じりに皺を寄せて笑った。
「ずいぶんよくなられたようだ。今日は蹴鞠をご覧じて、そのあとで姫宮様と鞠を転がして遊んでいらっしゃった」
「それはようございました」
答えると、伯父は数拍ほど沈黙した後で、真面目な顔をして言った。
「命婦を下がらせてくれ。二人きりで話がしたい」
伯父にこんなことを言われたのははじめてだった。
命婦が不安そうな顔をしたが、綾女が頷けば、奥の障子から去っていく。
「命婦は退出いたしましたわ、伯父様」
「すまないな、綾女」
「構いませんけど、どうしたんですか、改まって」
おそらく命婦にも聞かせたくない話なのだろうとは思うけれど、それがいったいなんなのか想像もつかない。
御簾の奥で首をひねっていると、伯父は姿勢を正して、それから深々と頭を下げた。
「すまぬ、綾女。……すまなかった」
「え? 伯父様、本当にどうなさったんですか?」
伯父に謝ってもらうようなことはあっただろうか。記憶にない。
しかし伯父は頭を上げず、顔を伏せたまま続ける。
「お前のお父君……宮様のことだ。今更かもしれぬが、謝らせてほしい」
綾女は小さく息を呑み、そして視線を下に落とす。
「伯父様が謝ることではないでしょう?」
「だが、賢いそなたのことだ、薄々気が付いているだろう? ……あれは、私の兄がしでかしたことだ」
今は亡き、中関白――道隆伯父。
昨年末に亡くなった定子皇后の父であり、綾女の外祖父、兼家の長男である。
黙り込んだ綾女に、伯父は気づいていると判断したようだった。顔を上げ、沈痛な面持ちで続ける。
「兄が宮様を邪魔に思っていたことは知っていた。知っていたのに、止められなかった。兄の罪を表に出すこともできず、そなたを内裏に戻してやることもできなかった。どう謝罪していいのかわからぬ」
道隆伯父が亡くなっても、後を継いだ息子も、帝の寵愛を受ける皇后もいた。
道隆伯父の子である伊周が、道長伯父を呪詛したという証拠からはじまり、一時はその権威が失墜し、罪に問われることもあったが、皇后に子が生まれたこともあり持ち直し、結果として不問にされている。
道隆伯父が権力を持ち、皇后が帝の寵を集める中、綾女が内裏に住み続けることは不可能だった。
いくら道長伯父でも、どうすることもできなかったのは理解している。
時に冷酷な顔を見せる道長伯父は、一度懐に入れたものにはひどく甘い。
彼の異母妹である綾女の母を可愛がっていたように、その子である綾女にも、昔から道長伯父は目をかけてくれていた。
それでも、不可能なことはあるのだ。
「すぎたことですよ、伯父様。だからいいの」
蹴落とし蹴落とされる。それが権力の中枢にいるものの定めだ。
父は権力を欲さなかったが、それでも相応の身分があった。権力が集中する場所に身を置く以上、注意をしておかなければならなかったのは父や綾女の方なのだ。
もちろん、それで納得できない部分も大きい。
だが、守ろうとしてくれていた道長伯父を責めるつもりは毛頭ない。彼は悪くないのだから。
「だが、あの件がなければ、そなたは今も内裏で穏やかに暮らせていただろう。帝の女御となってもおかしくはなかった。主上とそなたは仲がよかったから」
「兄様と? 冗談言わないでくださいませ。そんなことを言えば兄様も困りますよ。兄様はわたしのことを妹としか思っていないのですから」
「だが、それでも珍しいことではないだろう?」
「ですけど、わたしは嫌です」
内親王が帝に嫁ぐ例は数多くある。だけど、綾女は帝と夫婦になりたいなんて思ったことはないのだ。実の兄妹でなくとも、綾女にとって帝はやはり兄なのだから。
道長伯父が今になってこの話をしにきたのは、皇后が亡くなったことが大きいだろう。
今であれば綾女を内裏に戻し、帝の妃の一人に据えることができると考えたのかもしれないが、それは困る。綾女にはもう紫苑がいるのだ。
「伯父様、わたしはこれからはここでお世話になることに決めました。わたし、これでもお役に立つみたいです。ここで符でも作りながらのんびり暮らしますわ」
「……そなたの力については、晴明からも説明を受けておる。だがな、それではそなたの女としての幸せが――」
「兄様の側で気苦労を抱えながら過ごすより、ここでのんびり暮らしたほうが幸せです」
「お前は本当に、欲のないところが宮様によく似ているよ」
「あら、欲はありますのよ。美味しいものには目がありませんもの」
わざと笑って答えると、伯父が肩をすくめる。
「珍しいものが手に入ったら運ばせよう」
「まあ嬉しい」
道長伯父の表情も穏やかになった。これでいいのだ。道長伯父がいつまでも罪悪感を抱く必要はない。
このあとも予定があるのだろう、道長伯父がゆっくりと立ち上がる。
「何かあれば連絡をよこしなさい。私でできることならなんでもしよう」
「あら、天下の左大臣殿がそんなことを言っていいのかしら? この世に不可能なことなど存在しないのではなくて?」
「買いかぶりすぎだ」
ふっと笑って、道長伯父が去っていく。
その後ろ姿が見えなくなるまで御簾の奥から見送って、綾女は天井を仰いでそっと息を吐き出した。
この六年、ずっと胸の中にわだかまっていた何かが、すっと溶けて消えていったような不思議な気分になる。
(わたしも伯父様も……みんなずっと、あの時のことに囚われていたのね)
父は、そんな綾女たちを見ているだろうか。
まったく困ったものたちだと、朗らかに笑う父の姿が、ふと、見えたような気がした。








