おとり 4
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二月十三日、子の刻(十一時)――
もうじき、夜の九つの鐘(深夜十二時の鐘)が鳴ろうかという時間だった。
鐘が鳴れば、十四日。つまり、将門公が六十一年のときを経て蘇る日だ。
綾女がこもっている帳台の周りには、ぺたぺたと綾女が作った護符が貼られている。それ以外の場所には一切貼られておらず、将門公をおびき寄せる準備はおおかた整っていた。
帳台のすぐ前には、綿星が後ろ足二本で立ち上がって、腰に前足をかけるという狐にあるまじき仁王立ちをしている。珍妙だ。
「大事な嫁様は私が絶対にお守りいたしますので」
と、先ほど鼻息荒く宣言していたが、その様子は可愛らしい置物にしか見えなかった。
(ふう、緊張してきたわ)
命婦は内裏に残してきている。というより、綾女がおとりになると知ったら卒倒しかねないので、紫苑に術で眠らせてもらっておいた。紫苑によれば朝までぐっすりだろうとのことである。
日が沈む前に右京のあばら屋ともいえるぼろぼろの邸にやって来た綾女は、灯りを灯した中で軽食を取った。
その後、帳台の中で仮眠を取るように言われたが、緊張のせいでちっとも眠れなかったため結局起きておくことにした。
紫苑と彼の配下の二人の鬼神は、邸や庭にあれやこれやと仕掛けをするためにずっと忙しそうだ。
紫苑とて、何の準備もなく将門公と対峙するのは分が悪いらしい。
万が一のためにと、綾女の側にも、晴明が作ったという封印の符が数枚置かれていた。
もし将門公がこちらまで入ってきた場合、綿星が応戦することになっている。そのときに必要ならば使えと置いていったのだ。
寒さをしのぐために帳台の中に置かれた火桶が、ぱちぱちと音を立てている。
万が一のときに走れるようにと、袴の裾は紐で縛っておいた。
念のために懐刀も持っている。これは父が生前お守りにとくれたものだ。
心を落ち着けるために何度か深呼吸をしていると、ぼーん、と鐘の音が聞こえてきた。
ぼーん、ぼーん、と一定の間隔で九つ。
ついに、二月十四日――将門復活の日を迎えたようだ。
「綾女」
紫苑が呼びにきて、綾女はこくりと頷いた。
懐刀を握り締めて帳台から出れば、紫苑が「勇ましいな」と苦笑する。
「指示を出したらすぐに帳台の中に入れ。いいな?」
「うん」
強張った顔で頷けば、ふっと笑った紫苑が綾女の頬を両手で包み込む。
ふにっと軽く押されて、おちょぼ口になった口元にちゅっと口づけが落ちる。
綾女が真っ赤になったのと、「きゃっ」と声を上げて綿星が前足で目元を覆ったのは同時だった。爺狐のくせに初心である。
緊張が少しほぐれて、綾女は思わず笑った。
「大丈夫だ、綾女は俺が守る」
「……うん」
「綿星、後は頼む」
紫苑はそう言って、桜重の狩衣の袖をひるがえして部屋を出ていく。帽子はかぶっておらず、銀色の髪は首の後ろで一つにまとめられていた。
紫苑の背中を見送って、綾女は紫苑が触れた頬に手を当てる。
紫苑のおかげかちょっとだけ緊張が和らいだが、気を抜いてはいけない。綾女はただ将門公をおびき寄せるだけの役割だが、綾女が危険にさらされれば紫苑の計画が狂うだろう。綾女は、将門をおびき寄せたら、あとは自分の身の安全を考えなければならないのだ。
紫苑たちが心配でないと言えば嘘だが、余計なことをして彼らをより危険にさらすのは本末転倒である。
(お父様、わたしを守ってね)
懐刀を胸に抱き、綾女はこくんと喉を鳴らした。
そのときだった――
がしゃん、と金属のこすれ合うような重たい音がした。
「入れ‼」
やや焦ったような紫苑の怒号が響き、綾女は身をひるがえして帳台の中に飛び込む。帳の合わせに綿星が立った。
がしゃん、がしゃん、と音がする。
いったいこれはなんの音なのだろうと耳をそばだてた綾女の目の前で、突如、轟音が鳴り響いた。
大きな音を立てて外れた格子戸が、勢いよく部屋の中に飛んできて壁に激突する。
ぱらぱらと天井から土壁の残骸が降ってくる。
部屋の中の古びた几帳が吹っ飛び、壁代に大穴があいていた。
振動で帳がはためき、綿星が上体を低くして唸り声を上げる。
飛んで行った格子戸に気を取られていた綾女は、がしゃん、と音がした庭のあたりを見て、ひゅっと息を呑んだ。
そこには、二十人はいるだろうか。甲冑を纏った武士が――いや、違う。
(人じゃ、ない)
どす黒く変色した肌。
落ちくぼんだ眼窩。
黒く変色した甲冑と兜に――太刀を持つ手は、まるで骨のよう。
「ひぅっ」
悲鳴が、喉の奥で凍った。
てっきり、将門公一人だけを迎え撃つと思っていた。こんなに大勢の死霊が現れるなんて想像もしていなかったのだ。
「嫁様、そこから決して出てはなりませぬ!」
この部屋に将門公はいないようだ。
この部屋だけに死霊が集まったとは考えにくいので、おそらく他の部屋も庭も、死霊で溢れかえっているのだと思われる。
ぐわっと大きな咆哮を上げて、綿星が床を蹴った。
綿星のそのふわふわで小さな体躯が、宙に飛び上がった途端に大きな、一丈(三メートル)近くはあろうかという巨大な獣の姿に変わった。
額の五芒星が赤く輝き、大きな青い目が赤く染まる。
ふわふわだった毛並みがずいぶん短くなって、白ではなく銀色に輝いていた。
(……これが、本当の綿星?)
稲荷狐。
神であり、紫苑をして強いと言わしめる、綿星の本来の姿なのだろうか。
「こんな雑魚ども、すぐに蹴散らしてさしあげますれば」
いつもは少し甲高い声で喋る綿星は、姿が変わったからだろうか。低い声でそう言ってちらりと綾女を振り返って目を細めた。おそらく笑ったのだと思うが、かなり険しい顔をしているのでわかりにくい。
どん、と重たい音を立てて、綿星が目の前の数体の死霊に体当たりを食らわせた。
綿星が体当たりをした死霊は、甲冑もろとも、まるで瓦礫のように崩れ去っていく。
グアァアアアアアア――……
まるで哄笑のような咆哮を上げて、綿星が前足で、口で、後ろ足で、その胴で、次々に死霊を屠っていく様は、恐ろしくはあるけれど圧巻だった。力の差が歴然としすぎている。
部屋になだれ込んできた二十体ほどの死霊をあっというまに屠った綿星は、その赤い目を庭に向けた。
綿星の視線を追えば、庭ではいつも女房として側に仕えてくれていた二人の鬼神が、しなやかな双剣を手に、まるで舞でも舞うかのように軽やかに動き回りながら、ばったばったと死霊を切り伏せている。
助太刀は不要と判断したのか、綿星が大きな姿のまま帳台の前に戻ってきた。
(すごい……)
綿星も鬼神たちも、将門公以外は眼中にないと言わんばかりの無双さだった。
「綿星、将門公は……」
「主様が相手をなさっておいでですな」
つ、と赤く輝く目を東の方角へ向けて綿星が答えた。そちらに紫苑と将門公がいるのだろう。
「大丈夫そう?」
「……ちと、厄介かもしれませぬ」
綿星が低く唸った。
「どういうこと?」
どくりと心臓が嫌な音を立てて、綾女は胸の上を押さえながら訊ねる。
「晴明殿の用意した符が効かぬようです」
「なんですって?」
「いえ、まったく効いていないわけではないのでしょうが、封印するには至らぬようで……、今、嫁様がお造りになった破魔の矢で応戦しておいでですな」
「どうして……!」
綿星はすっと目をすがめて、細く息を吐き出した。
「おそらく、晩年の晴明殿より、蘇った将門公のほうが強いのでございましょう」
さらりと言うが、綿星の表情から想定外の事態であるのは理解できた。
ごくりと喉を鳴らし、綾女は祈るように手を握る。
(紫苑――)
綾女は、彼が置いていった残りの封印の符に視線を向けて、きゅっと唇をかみしめた。
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