紫苑 3
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「やや、晴明様! 本日は参内日でございますか!」
朱雀門をくぐり、のんびりと陰陽寮に向かって歩いていた老人は、背後から元気に話しかけられて、好々爺然と笑いながら振り返った。
「藤の大夫殿、ご無沙汰しておりますな」
薄く雪が積もる地面を駆けてきたのは、三十手前ほどの男だった。
老人が白髪を冠に押し込み、濃い緋色の直衣姿であるのに対し、男は黒の束帯に冠姿。
着ている衣の色から男のほうが老人よりも位が上であると推しはかれるが、ぺこぺこと頭を下げるのは、衣冠が下の老人ではなく藤の大夫と呼ばれた男のほうである。
というのもこの老人。
海を渡った先にある唐の都の伝説を借りて「仙人」などとも呼ばれる、稀代の天才陰陽師である。
年を取ったと、数年前に陰陽寮を辞してはいるものの、天文博士の地位はそのままに、今もなお陰陽寮の頭の相談役も務めている。
この老人が今もなお、都の――いや、この国の陰陽師の実質頂点に君臨する男であることは、帝をも認めるところであった。
そして、時には帝も大臣たちも頭が上がらない、与えられた衣冠を超越した地位に君臨するこの男の名を、安倍晴明という。
土御門大路に邸を構え、普段は滅多にその邸から出てこない。
それがどうして雪の積もる朝に参内しているのかと言えば、もうじき内裏で節分の行事があるから――というのは建前。
昨年の終わりに愛する皇后を亡くし気落ちしている帝が、何かにつけて晴明を呼びつけているのは、参内する者たちの多くが知っていることである。
しかしながら、気落ちし、臥せってしまった帝の御前で、晴明が何をしているのかは誰も知らない。
噂では、安倍晴明の操る術で、浄土へと旅立った皇后の面影と対面しているのではないかとも言われていた。
皇后を忌々しく思っていた左の大臣――現藤原北家の頂点にして、この国の貴族の頂点とも言える藤原道長も、中宮 である娘の彰子が御子を産む前に帝に儚くなられてはかなわないのだろう。ゆえに皇后の面影を求める帝を好きにさせている、という話である。
本当かどうかはわからないが。
「晴明様、ここのところずいぶんと冷えます。お体にはお気を付け下さいますよう」
「これはどうもお気遣いをありがとうございます。大夫殿も、三人目のお子が生まれたばかりと聞きますれば、どうぞご自愛なさいませ……っと」
すっと晴明が大夫の肩に手を伸ばした。
ほこりを払うように軽く動かし、少し考え込んでから微笑む。
「お子の五十日の祝いには箸を贈りましょう。少々よくない気がありますからな。それをお使いなさいませ」
大夫はさっと表情を強張らせて、晴明の手をぎゅうっと握り締めると、「ありがとうございます」と何度も頭を下げる。
晴明は朗らかに笑って軽く頭を下げると、内裏のほうへ向かってまたのんびりと歩き出した。
だが、内裏の手前ですっと脇にそれ、塀の影に隠れる。
「どうした?」
小さく問うその声は、先ほどまでのしわがれた老人のものとは違った。
晴明の問いかけに、何もないところから声がする。
「主様、嫁様が拗ねておいでです! 文をお贈りなさいせ!」
晴明はぱちぱちと目をしばたたき、「嫁」が綿星と名付けた妖の声に笑った。
安倍晴明――
綿星の主である鬼、紫苑が、姿を偽りこの名を名乗りはじめて二年が経つ。
もともと既知の仲だった安倍晴明が、己の死期を悟り、しばらくの間、紫苑に代役を頼んだのがきっかけだった。
あの老人が稀代の陰陽師だったのは間違いなく、己の死期と共に、都の吉凶を占っていたところ、晴明が死んだ後、都に暗雲が立ち込めると出たらしい。
二年前はそれが何かまではわからなかったが、昨年末より都に蔓延しはじめた疫病を考えれば、どうやらこれが晴明の言っていた「暗雲」の正体で間違いなさそうである。
昨年末から都を襲いはじめた疫病は、ただの病ではないのだろう。
その原因まではまだ突き止められていないが、晴明は、自分が亡きあと疫病を鎮静化する役を紫苑に託したのだ。
(まったくもって面倒くさいが、嫁に何かあっては困るからな)
人である嫁、綾女は、なかなか結婚を承諾しない。
紫苑も彼女の気持ちがこちらに傾くのをのんびりと待つつもりでいたのだが、疫病が発生したことにより少々事情が変わった。
綾女が暮らしているあばら家は、悪しきものを防ぐには立地が悪い。
安倍晴明のふりをする代わりに受け継いだ晴明の邸は、その点、非常にいい立地と言えた。
ゆえに早いところ土御門大路の邸に綾女を連れていきたいのだが、あの頑固者は、綿星を何度使いにやっても「否」の一択。
そろそろ強硬手段に出ようかと考えていたところへ、綿星が「文を贈れ」と言って来た。
(そういえば、食べ物や衣服などの貢ぎ物はさんざんしてきたが、文を贈ったことはなかったな)
綿星は少々頓珍漢なので、本当に綾女がそれを望んでいるのかどうかはわからないが、求婚するにはまず文を贈るというのが人の常識だ。失念していた。
「ああ、あとそれから、次の貢ぎ物は茶葉がいいとおっしゃっていましたぞ」
「手配してくれ」
まったく、あの娘はこちらの求婚を突っぱね続けるくせにちゃっかりしている。
(まあ、そこが可愛いんだが)
くつくつと喉の奥で笑って、紫苑は再び内裏に向けて歩き出した。