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【書籍化】鬼と姫君~平安異形絵巻~  作者: 狭山ひびき


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おとり 1

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 紫苑に自分をおとりに使ってほしいと頼んだ翌日、綾女は文机に向かって、せっせと書き物をしていた。

 今日はよく晴れて、廂にはぽかぽかとした陽気が差し込んでいる。

 その前に文机を置いて、綾女が書いているのは護符である。

 短冊状の紙に、見本を見ながらせっせと、文字なのか記号なのかよくわからないものを書き写しているのだ。一か所でも間違っていたら使えなくなるため慎重に。


 実はこれ、昨日紫苑に頼まれたのだ。

 というのも、紫苑は安倍晴明より彼の術を受け継いだが、一つだけ不可能なものがあった。それが護符や破魔矢などを作ることである。

 それは彼が鬼である影響なのかどうなのか。晴明と同じように作ってもきちんと機能しなかったという。


 晴明もそれを見て紫苑に護符や破魔矢を作るのは不可能と判断し、死ぬまでに大量の護符や破魔矢を作っておいてくれたというが……実は、紫苑、綾女を守るために、すでにこれらの護符を大量に使用してしまっていた。綾女が暮らしていた右京のあばら家のあちこちに貼り付けていたらしい。

 まだ在庫は残っているそうだが、将門公を相手にするのなら在庫数に不安が残るそうで、試しに作ってみてほしいと頼まれたのだ。

 破邪の力がある綾女ならば、特別な修行をしていなくても案外あっさり作ってしまうのではないかと言うのである。


 陰陽寮で何年も修業してようやく作れるようになるという護符が、素人の綾女にそう簡単に作れるとは思っていなかったが、これらの護符が必要なのはもとはと言えば自分のせいでもある。

 綾女がおとりになりたいと言ったから、綾女の身の安全のために紫苑が想定していた以上に必要になったのだ。

 だから、もし自分で作ることができるなら、当然、その労力は惜しまない。


「う~ん、こんなものかしら? どう思う、命婦」

「わたくしに訊かれましても符のよし悪しを判断できるような学はございませんが……そうですね、見たところ、見本と同じに見えます」


 命婦と一緒に見比べてみたが、見本と比べて違うところはなさそうだった。あとはこれが護符として使えるかどうかである。

 今日、紫苑が晴明の姿で護符の出来を確認しに来るそうだから、その時に見せるつもりだ。


「とりあえず、ここにある紙の分だけ作ってしまいましょうか。もし護符として役に立たなそうなら、申し訳ないけど紙屋院で薄墨紙にでも漉きなおしてもらいましょう」


 紙はとても貴重品なので、書き損じであっても捨てたりなどはしない。紙屋院できちんと漉きなおして使用するのだ。

 紙屋院は大内裏にある図書寮(ずしょりょう)に属し、朝廷で使う紙の製造をしている場所である。

陰陽寮で使う紙ももちろんここで漉かれたもので、綾女の前に積まれている紙は紫苑が陰陽寮から分けてもらったそうだ。

 書き損じて漉きなおした紙のうち、墨の色が消えなかった灰色の薄墨紙も、綸旨(りんじ)――蔵人などが帝のお言葉を書き記したもの――として使用される。安易に火種になんてしようものならお叱りを受けるのだ。


 ちなみに紙には(まゆみ)の繊維で作る檀紙や、麻や穀物の皮などで作る穀紙、雁皮の繊維で作られる斐紙などがあるが、薄墨紙に漉直されるのは穀紙である。綾女が紫苑から受け取ったのもこれだ。

 紫苑から預かっている数十枚の穀紙の短冊が漆塗りの文箱の中に詰められている。

これ全部に同じものを書いていくのは骨が折れそうだが、頑張るしかない。将門公が蘇る日までには何とかしなければならないのだ。

 もし綾女が作れなければ、陰陽寮で作らせると紫苑は言っていたが、事情を知らされていない陰陽寮の人間に大量の護符を発注すれば怪訝に思われる。

 陰陽寮の頭ですら、将門公の祟りについては知らされていないのだ。

 できるだけ内密にというのは帝と左大臣の決定なので、不用意なことはできないはずである。


(わたしの作った護符が機能すればいいんだけど……)


 だが、特別な訓練を受けていない綾女ができることと言えば、できるだけ丁寧に心を込めて作ることくらいだった。せめてそれだけは頑張ろうと、二枚目の紙を文鎮で押さえて筆を握る。

 そうしてせっせと護符を作り続けて一刻ほど経った頃だろうか。


「よ~め~さ~ま~!」


 ここ数日聞いていなかった、少し高い能天気な声が聞こえてきて綾女は顔を上げた。

 緊張感に欠ける声に、集中がどこかに飛んでいく。

 今、命婦は席を外している。二人の鬼神の女房がそばにいるが、彼女たちにしてみれば声の主はよく知っている妖であるので眉一つ動かさなかった。


「ちょっと綿星、内裏にふらふらやってきていいの?」


 まったく、この綿毛狐は邪魔してくれるわと、びゅんっと飛んできた綿星を軽く睨んだ綾女は、彼が両手に数本の矢を握り締めていることに気が付いた。

 鬼神の一人が綿星から矢を受け取る。


「ご安心下され、用が終わればすぐに帰りますぞ!」

「用?」

「これでございます! 主様から、念のため破魔矢も嫁様にお頼みするようにと言付かりました。少々書きにくいのですが、羽の部分に文字を入れてほしいのです。こちらが手本でございますれば! ああ、矢じりにはお気をつけなさいませ。嫁様が怪我をしたら私が主様に叱られます!」


 ふわふわの綿毛のような狐は小さな前足をびしっと矢に向けてにこにこと笑う。

 わかったわ、と頷いた綾女は、ふと、土御門の様子が気になった。


「そっちの様子はどうなの? 何か変わったことはあった?」

「主様のお邸は普段通りでございますよ。ただ、都の南のほうは疫病が広がっているようでございますな。そのせいか治安も悪化しているようで、検非違使の別当殿がさっき大内裏のあたりで何やらわめいておりました。あれは相当いらいらしているようですなあ。顔が赤鬼のように真っ赤になっておりました。いやはや、あれは面白かった」


 ぷくぷくと、綿星は前足を口元に当てて笑う。


「わめいていたって、誰に?」

「あれは……医博士殿だったような。他にも数人いたようですが、わめいたところでどうしようもないというのに、人というのは短気で困ります」


 やれやれ、と綿星が首を横に振った。だが、相変わらず顔はにやにやしていた。人間の喧嘩を見物して楽しむなんて、なかなか性格の悪い綿毛狐だ。

 綿星は馬鹿にしているが、疫病と治安の悪化で検非違使も寝る間もないくらい忙しいはずだ。上からもチクチク言われるのだろうし、別当には少々同情する。


「私はこれで。破魔矢もできましたら主様にお見せくださいませ。それでは!」


 びゅんっ、と来たときと同じように綿星が勢いよく飛び出していく。

 それほど前ではないのに、綿星と餅や団子を食べたのがひどく懐かしい気がした。

 早く祟りをなんとかして、あの日常に戻りたい。

 内裏を追い出されたばかりの頃は、いつかここに戻りたいと思ったこともあったけれど、いざ戻ってみたらよくわかった。もう、ここは綾女の居場所ではないのだ。

 懐かしいとは思うけれど、ずっとここにいたいとは思わない。綾女の居場所はもう、土御門のあの邸なのだろう。そこで、綿星や紫苑たちと共にすごすのが、綾女にとっての日常なのだ。


(さてと、日常を取り戻すために頑張りますか!)


 紫苑からは根を積めずにゆっくり作ってくれたらいいと言われていたけれど、幼い姫宮が寂しいのを我慢し、紫苑も頑張っている。

 帝も左大臣も、事情を知る人たちは皆、必死になんとかしようとしているのだ。

 綾女だって、多少無理してでも頑張りたい。むしろできることがあって嬉しいくらいだった。


(どうか、ちゃんと護符として機能しますように!)


 パン、と一度手を合わせてから、綾女は再び筆を握った。





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