姫宮の涙 3
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――お父様はいつお元気になるの⁉
日が暮れても、昼間の脩子内親王の悲鳴が耳から離れなかった。
ぽつん、と階に座って夜空を眺めていると、紫苑が歩いてくるのが見える。
「どうした、浮かない顔をしているが」
綾女の隣に腰を下ろして、紫苑が当たり前のように肩に腕を回した。
引き寄せられて、彼の肩口にこてんと頭を預けた綾女は、ただ「うん」と頷く。
「肩が冷えている。中に入ろう」
「……そうね」
確かに、ここは冷える。
紫苑に手を引かれて綾女が帳台の中に入ると、彼が衾を肩にかけてくれる。
帳台に入れておいた火桶の火はまだ消えていなかったので、衾をかけなくても充分に暖かいのだが、紫苑の気遣いを素直に受け取っておくことにした。
「ねえ、祟りの件、わたしにできることってないのかしら」
昼に脩子内親王と会ったときからずっと考えていた。
綾女の破邪の力で、帝が一時的に目を覚ましたとはいえ、すべてを解決するには将門公をどうにかしなくてはならない。
二月十四日に人ならざるものとして蘇るという将門公。
紫苑はどうやってその将門公の祟りを、恨みつらみを消し去ろうとしているのかは知らないが、並大抵のことではないだろう。
綾女の破邪の力を利用することはできないのだろうか。
つい最近まで己の身に宿るこの力の存在を知らず、正直、使い方もよくわかっていないけれど、破邪の力が祟りや呪いを消し去るものだというのはわかっている。
綾女自身はこの力をどう使えば効果的なのかはわからないけれど、紫苑ならうまく使ってくれるのではなかろうか。
(あんな幼い姫宮が寂しいのを我慢しているのに、何もせずにここで守られているのは嫌よ)
幼い脩子内親王と、父を亡くしたばかりの自分の姿が、どうしても重なってしまう。
なんとかしてあげたいのだ。
「綾女、君も祟られる側の人間なんだよ」
「そうだけど、祟りとか呪いを消し去る破邪の力があるんだもの、わたし自身も祟りに耐性があるんじゃない?」
「あるかもしれないけど、無事だとは言えないだろう?」
紫苑は、綾女が動くのは反対のようだった。
衾ごと後ろから抱きかかえるように腕を回される。こてん、と肩に彼の顎が置かれた。
「その力も、あまり使ってほしくない。負担がかかると言っただろう? 祟りのことは俺がなんとかするから、ここで安全に守られていてほしい」
「なんとかするって、方法は考えているの?」
「封印する方向で考えている。晴明が死ぬ前に封印の札を何枚も作っていたからな、それを利用するつもりだ」
「その封印の札は、どうやって使うの?」
「復活した将門公に直接貼り付ける……らしい。実際に使ったことがないから俺もわからない部分が大きいが、晴明がそう言っていた」
綾女はこてんと顔を横へ向けた。
綾女の肩に顎を乗せている紫苑と目が合う。
「つまり将門公に会わないと無理なのね。どこにいるか、わかってるの?」
紫苑の緋色の目が泳いだ。
(やっぱり。そんな気はしたのよね)
六十一年も前に亡くなった将門公が蘇ったとして、どこにいるのかなんてわからないだろうと思ったのだ。
将門公が亡くなった時、胴体と頭は切り離された。頭だけ都に持ち帰られてさらし首になったが、その首もいずこかに消えたと伝承されている。
まさか、胴体を弔った遥か東の地に蘇るとは考えにくい。帝を祟るには遠すぎるからだ。かといって、どこに蘇るのかと訊かれれば、誰も答えはわからないだろう。
蘇った将門公を封印するにしても、彼自身をどこかにおびき出さなければならないのではあるまいか。
そうなると、内裏におびき出すのは極めて危険だった。なにせ帝がお住まいなのだ。
それに、おびき出したところで内裏に張られている結界に弾かれると思われた。というか、弾かれてくれないと非常にまずい。
内裏の結界に弾かれて中に入れないにしても、将門公にその手前までやって来られれば大内裏は阿鼻叫喚の渦に叩き落される。
都は大恐慌に陥り、人々は逃げ惑うことになるだろう。
ゆえに、おびき出すにしても将門公を内裏に近づけてはならない。勝手に近づいてくるのも止めねばならない。
綾女に考えつく問題なのだ、紫苑だってわかっているはずである。
ならばどうするか。
おのずと、答えは一つだ。
内裏以外のどこかにおびき寄せる。これしかない。
だったら、おびき寄せる方法をどうするか。
(誰かがおとりになるしかないでしょう? 帝の血を引く、誰かが)
帝や幼い姫宮たちをおとりに使うという選択はない。
先の帝の華山院という選択肢もない。父の異母弟である東宮という選択もあり得ない。
ほかにも内親王や親王はいるが、彼らがおとりになってくれるとも思えなかった。
帝から命が下ればあるいはわからないが、将門公の祟りの情報は一部の人間にしか知らされていないのだ。
おそらく華山院も東宮も知らないだろう。おとり役に選ばれた誰かがそれを聞いて、平静でいられるとは思えなかった。そこから外部に漏れる可能性もある。下手に情報を出すのは下策だ。
となれば、情報を知っていてなおかつ重要視されていない内親王、綾女がおとりにはもっともふさわしいと考えられた。
伯父の道長は、綾女の身を守るために内裏に避難するように勧めたが、おとりに使う可能性をまったく考えていないはずがない。
よくも悪くも伯父は為政者だ。もう一人の今は亡き伯父道隆ほど冷酷ではないが、彼もまた、大事の際に取捨選択ができる男である。そうでなければ出世できない。
帝とその子らと綾女。
天秤にかければ、綾女のほうが軽くなる。圧倒的に。
紫苑が「否」と言ってくれても、伯父か、はたまた帝からか、おとり役を務めるよう命令が下される可能性はあった。
身内からおとりになれとはっきり言われるくらいなら、自ら選んだ方が、自分の心的にはずっと楽だ。帝や伯父も、心苦しい思いをしなくてすむだろう。
「祟りに耐性があるわたしなら、おとり役にぴったりじゃない?」
紫苑が何も言わないので、綾女は言葉を重ねた。
「俺は自分の妻をおとりに使うなんてしたくない」
「だけど、どうにもならなかったら、いずれ帝か伯父様から命が下るでしょう?」
「そうなれば綾女を連れて都を出る」
「出たところで、なんの解決にもならないことくらいわかっているんじゃない?」
綾女が都から離れたところで、将門公が消えてなくなるわけじゃない。
紫苑がそっと息を吐いた。
彼の吐息が耳にかかる。
「綾女は、ひどいことを言う」
「ごめんね。……でも、紫苑はきっとわたしを守ってくれるでしょう?」
紫苑がいるから、綾女もこの選択ができるのだ。
さすがに何の策もなくただ自分の身を危険にさらそうなんて思わない。
紫苑が守ってくれると確信できるから、綾女も危険に飛び込めるのだ。
「わたしだって安易に選択したわけじゃないのよ」
ただ、どうしても、父を恋しがって泣く脩子内親王を放っておけなかったのだ。
当時十歳だった綾女でも、父がいなくなってものすごく堪えた。悲しくてつらくて寂しくて、眠れない日が何日も続いた。
五歳の脩子内親王に、そんな悲しい毎日を送らせるなんてできない。
「それにほら、こんな面倒ごとなんてさっさと片付けて、早く新婚生活を送りたいわ」
わざと明るい声を出して笑えば、紫苑に苦笑された。
「面倒ごとが片付かなくても、新婚生活を送る用意はあるけど?」
「心配事があったら、気になって新婚生活どころじゃないわ」
「やれやれ。まったく、うちの嫁は夫を振り回すのが得意で困る」
綾女の腹に回された紫苑の腕がぎゅっと締まる。苦しくはないけれど、ぴったりと体が密着して落ち着かない気持ちになった。
「少し時間が欲しい。方法を考える。君に危険がないように」
「ありがとう、紫苑」
こうして、きちんと綾女の意見を聞いて検討してくれる紫苑が好きだ。
身をよじって彼に抱き着きながら、綾女は笑った。
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