破邪 2
お気に入り登録、評価などありがとうございます!
昼になって、綾女は梨壺から清涼殿へ向かった。
部屋から出てもやはり内裏の中はしんと静まり返っていて、渡殿を歩く自分の足音がやけに大きく響く。
清涼殿の母屋には衛士たちがいるので、顔を見られないようにと、北廊を回ってくるようにと言われていた。
母屋を通らずして帝の眠る御殿へ入れば、伯父と晴明の姿をした紫苑がいた。
几帳と屏風に囲まれた中に褥が作られ、青白い顔をした帝が眠っている。
(すごくやつれたみたい)
目の下に濃い隈ができ、頬がこけた帝の姿に、綾女の胸がぎゅっと苦しくなる。
顔を見たのは六年ぶりだが、それにしては様変わりしすぎていた。祟りの影響だろう。
わずかに聞こえる呼吸の音がなければ、死んでいると言われても信じてしまいそうな有様だった。
紫苑にちらりと目配せすると、困った顔で微笑まれる。まさか道長が綾女をここに呼びつけるとは思っていなかったのだろう。すっと近くまで寄ってきて耳打ちされた。
「大丈夫だとは思うが、あまり長居をしないほうがいいね。少し見舞ったら帰りなさい」
帝が臥せっているのは祟りのせいなので移るようなものではないはずだが、やはり帝の血を引く綾女はあまり側にいないほうがいいのだろうか。
小さく頷いて、綾女は帝の枕もとに腰を下ろした。
「懐仁兄様、綾女です」
呼びかけるが、帝からの反応はない。
綾女はそっと衾の端をめくり、痩せて骨ぼったくなった帝の手を取った。
「にいさ――」
手を握って再度呼びかけようとした綾女はしかし、途中で言葉を切った。
帝の手を握った途端、全身を、火傷しそうなほどの熱が駆け巡ったからだ。
思わず帝の手を離し胸を押さえてうずくまると、紫苑が綾女の隣に膝をつく。
「あや――姫宮様、どうなさいました?」
晴明の姿である紫苑は、綾女を内親王として扱わねばならない。帝や左大臣の覚えがめでたくとも、内親王を呼び捨てにできるような身分ではないからだ。
ゆえに綾女も、この場では紫苑を晴明として対応せねばならない。実にまどろっこしいが、紫苑の正体に気づかれるわけにはいかないのだ。
「急に体が熱くなって……今は落ち着きましたが、なんだったのでしょう」
自分の手のひらを見つめて綾女がつぶやいたとき、くぐもった声がして、帝の瞼が微かに震えた。ゆっくりとその瞼が持ち上がる。
伯父とそれから紫苑が驚いたように目を見張った。
「主上!」
伯父が呼びかけると、帝の顔が伯父のほうへ傾く。
「……そなたか」
その声はかすれていたものの、ぱちりぱちりと緩慢に瞬きを繰り返す帝の意識ははっきりとしているように見えた。
「兄様」
綾女が声をかけると、今度は綾女のほうに顔が向く。そして、ゆるゆると目が見開かれた。
「……そなたは……まさか、綾女か?」
最後に会ったのは十歳のときだ。面影はあっても、子供から大人へと変貌する時期を共にすごしていなかったからか、すぐにはわからなかったのかもしれない。
探るように問われ、綾女が頷くと、今度は眩しそうに目を細められる。口端がわずかに持ち上がって、帝が笑おうとしたのがわかった。
「大きくなったな」
「もう大人ですもの。兄様はずいぶんとお疲れのようですわ」
綾女は、もう一度帝の手を握る。
するとまた体に熱いものがかけめぐって、ひゅっと息を呑んで手を離した。
隣に座る紫苑がぐっと眉間にしわを寄せて厳しい顔をする。
帝が緩慢な動作で綾女が握っていた手を持ち上げて、不思議そうな顔をした後で、綾女に向かってその手を差し出した。
「そなたに手を握られると気持ちがいい」
握れ、と手を差し出されて、綾女は紫苑に視線を向ける。厳しい表情のまま頷かれたので、綾女はおずおずと帝の手を握った。
やはり、帝の手を握った途端に体中に熱いものが駆け巡る。
しかし、帝が望んでいる以上この手を離すわけにはいかず、もう片方の手で胸の上を押さえながら、綾女の体の中を暴れるように走り回る熱に、ただひたすら耐え続けた。
しばらく耐えていると、火傷しそうだった熱がだんだんと柔らかくなっていき、陽だまりのような温かさに変わる。
そして、ふっとその熱が消えた。
(なんなのかしら?)
怪訝に思っていると、帝が綾女の手を握りしめたまま、おもむろに上体を起こした。
「主上、起きてはなりません」
伯父が慌てて帝を寝かせようとするが、彼はやんわりと首を横に振る。
「不思議だ。綾女に手を握ってもらっているとずいぶんと調子がいい。石のように重かった体が驚くほど軽いのだ。綾女の手は特別なのかもしれぬ」
「……特別、なのでしょうな」
紫苑が固い声で返す。
え、と綾女が紫苑に顔を向けると、綾女の体調を調べるように、帝とつないでいない方の手を取られた。
「姫宮様には異常は見られませんな。ようございました」
「晴明、それはどういうことですか?」
「さて、まだ確証はございませんので」
紫苑はそう言って誤魔化したが、たぶん原因はわかっているなと綾女は思った。これはあとで教えてもらわないといけない。紫苑のことだ、こちらから訊ねなければ喋らないだろう。長い付き合いではないが、なんとなくそう思う。
「主上、恐らくですが、ご回復は一時的なものでしょう。ですがしばらくの間は落ち着くと思われますので、今のうちにお食事をとられて、安静になさってくださいませ。それから左大臣殿も、このことはどうぞ内密にお願いいたします」
「あ、ああ……」
伯父も何がなんだかわからない顔していたが、帝が回復したのは朗報に間違いない。
ほっと安堵を浮かべて立ち上がると、帝のために食事を運んでくるように伝えに行った。
ぼんやりとその背中を見送っていると、紫苑にぽんと肩を叩かれる。そろそろお暇しろということだろう。
「兄様のお食事の邪魔をしてはいけませんから下がります」
「わかった。また会いに来ておくれ」
「はい」
理由はよくわからないが、帝の顔色が少し良くなったので綾女もほっとして、来たときと同じように北廊を通って梨壺に帰ることにする。
去り際、綾女にだけ聞こえる声で、紫苑が「夜に」と呟いた。
ブックマークや下の☆☆☆☆☆にて評価いただけると嬉しいですヾ(≧▽≦)ノ








