祟りの噂 4
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綾女を訪ねて来客があったのは、それから三日後のことだった。
紫苑は参内していて不在で、綾女は暇つぶしに綿星と貝合わせをして遊んでいた。
そこへ、命婦が大慌てで飛び込んでくると、せっかく綾女が取った貝を蹴散らし「着替えましょう!」と言い出した。
命婦には綿星が見えないから気にならないのだろうが、遊びを邪魔されて、綿星がぶーっとふくれっ面になっている。ちょっと可愛い。
「は?」
「いいから、姫様早く! 急がないとお着きになってしまいます!」
「誰が?」
「お早くっ」
急かされて、綾女は首をひねりながら着替えをすることにした。
いくら狐でも雄である綿星は、着替えと聞いてそそくさと部屋を出ていく。
命婦が取り出したのは、ずしりと重そうな大量の衣だった。
(なんで?)
普段は適当に小袖の上に二、三枚程度の袿を引っかけているだけの綾女は、取り出された正装にひくっと頬を引きつらせる。
単の上に打衣、五衣に唐衣を重ねた正装なんて、よほどのことがない限り綾女は身につけたくない代物だった。
さらに今日は、客である相手を立てて裳も身に着けなくてはならないらしい。もうすでに憂鬱だ。客とはいったいどこのどいつだろう。
けれど、何かに焦っている命婦は綾女の引きつる顔には気づかず、あれよあれよと来ていた衣をはぎ取って取り出した衣を着つけていく。
邪魔だからと、背中のあたりで髪を結わえていた紐も解かれた。
着付けが終われば丁寧に丁寧に髪をくしけずられて、早く早くと腕を引かれる。
「ちょっと、どこに……」
「東の対でございます!」
「ええ?」
いったい何事かと思いながら命婦に引っ張られるままに移動した綾女は、きっちりと下ろした御簾の中に押し込められた。
普段御簾なんて下ろしていないのに、本当に何事だろうか。
「命婦、いい加減なにがあったのか教えて。誰か来るの?」
「い、いらっしゃいます!」
「だから誰が」
「大臣です! 藤原の左大臣様がいらっしゃいますっ!」
「なんですって⁉」
綾女は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「ちょっと、なんだって伯父様がいらっしゃるの⁉」
「わ、わたくしにも何がなんだかさっぱり……。先ほど舎人が参りまして、あと半刻もすれば到着なさると」
綾女は驚きのあまり口を開けたまま固まった。
左大臣、藤原道長は、母の異母兄である。
といっても綾女は数えるほどしか会ったことがなく、内裏を追われてからは一度も顔を合わせていなかった。連絡すら取りあっていない。
そんな伯父が、いったいなんの用だというのだろう。
(というか、わたしがここにいることを知っていたのね)
命婦が慌てるのも当然だ。今や伯父は時の人である。姪とはいえ無礼なことはできない。
(不用意なことは言わないようにしないと)
伯父がどうして綾女がここにいると知っているのかはわからない。
だが、鬼の嫁になったなんて口が裂けても言えなかった。
まずはあちらがなぜ綾女の引っ越しを知っていたのか。そしてなんの用なのか探りを入れなければならない。そして、極力こちらからは情報を出さないほうがいいだろう。
(それにしても、なんて急なのかしら! 事前に連絡してくれればまだ心づもりもできたのに)
昔から伯父は少々せっかちなところがある人だった。今日もどうせ思い付きだろう。思いついたら吉日、それが伯父である。
「いいですか、姫様。みだりに声を発してはなりませんよ。お話になりたいことはわたくしに言づけてくださいませ」
「わかったわ」
そういえばそうだったわね、と綾女は遠い目になる。
お姫様というのは面倒くさい。内裏を出て六年。すっかりその暮らしが遠のいていた綾女は、高貴な女性は姿を見せてはならないし声を聞かせてもならないという決まりごとにうんざりした。
「ささ、姫様こちらを」
「うん……」
衵扇を手渡されて、はらりと広げる。顔を隠すように持って、この体勢でずっといるのも肩が凝りそうだなと思った。
(扇をこの位置で固定するものが欲しいわね。そうしたら持っていなくていいんだけど)
そんな怠惰なことを考えていると、女房姿の鬼神が、四足門に牛車が入ったことを告げにきた。道長が到着したらしい。
じっと待っていると、板を踏む微かな足音が聞こえてくる。
足音が一つしかないので、伯父は伴を連れず一人できたのだろう。案内役の女房(鬼神)は、足音を立てないのだ。
御簾ごしに、立派な直衣姿の壮年の男が見える。六年ぶりに見た伯父は、少し年を取ったようだった。最後に会ったのは父の葬儀のときだった。
――すまぬ。
伯父は泣きじゃくる綾女を遠慮がちに抱きしめて、短くそう言った。その言葉の意味を、幼いながらに綾女はよく理解していた。
誰の後見も受けず内裏から追い出す形になった姪への、謝罪。
綾女が内裏から出ることが決まったのち、綾女に謝ったのは、この伯父だけだった。
だから別に、伯父を恨んでなどいない。
むしろ伯父は、守ろうとしてくれた人だったから。
(年を取ったのもあるけど、少し表情が険しくなったかしら? 垂れ目なのは相変わらずだけど)
そして、疲れているのかもしれない。
顔色が少し悪くて、目の下に隈があった。
「お久しぶりでございます」
命婦が綾女の代わりに声をかけてくれる。
「久しいな。元気だったか?」
伯父の声は、昔と変わらず柔らかかった。
実の兄を失墜させるべく、まだ裳着をすませたばかりの幼い娘まで帝に嫁がせた伯父は、その冷酷ともいえるやり口に反して優しい人でもある。
ただ、政というものは綺麗ごとだけではやっていられない。
表の顔と裏の顔を使い分けることができる者が一流なのだと父は言っていた。父はそれができないから三流だとも言って、笑った。
だから綾女も、伯父の本当の顔はわからない。
今綾女に見せている顔が、果たして表と裏のどちらの顔なのか。
綾女は扇の下でこそっと命婦に耳打ちする。
「どうして、わたくしがこちらに移ったとご存じだったのですか?」
かわりに問うた命婦に、伯父は小さく笑った。
「晴明から綾女を保護したと教えられたからね。右京にいては危ないから連れ帰ったと」
なるほど、世間的にはそういうことにしてあるのか。
紫苑は晴明のふりをしているので、綾女がここにいるのなら相応の理由をつけたほうがいい。
納得していると、世間話もそこそこに、伯父が神妙な顔で言った。
「綾女、実はお前に、頼みがあるのだ」
「なんでございましょう」
命婦の声が少し硬くなる。
伯父がここを訪ねて来た時点で、ただのご機嫌伺いではないことはわかっていた。
忙しい伯父がわざわざ足を運ぶだけの理由があったのは明白である。
伯父は、こほんと一つ咳ばらいをした後で、左大臣の顔をして言った。
「内裏に、戻ってきてはくれないだろうか」
それはいったい、どういう意味でだろうかと、綾女は息を呑んだ。
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