文と訪い 7
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今、都を騒がせているという病と言えばあれだろう。
昨年の冬頃から徐々に広がりを見せている、正体不明の疫病だ。
法師が何度祈祷を行っても疫病が収まる気配はなく、大内裏では対策に追われていると聞いた。教えてくれたのは、妖のくせにやたらと世の中の事に詳しい綿星である。
占術でも原因はつかめず、都の人々を震え上がらせているそうだ。
一体なにの祟りなのか。早く解決しろとと陰陽寮に押しかけて騒ぐ迷惑な輩もいると聞くが、綾女に言わせれば、恨みつらみの感情がたくさん渦巻いている都の中で、原因を特定するだけでも至難の業だろう。
とはいえ、疫病が騒がれはじめてから三月、ここまでなんの情報もつかめていないというのもおかしいので、もしかしたら上のほうで外部に漏れないように操作されているのではないかとも思っていた。
その疫病と、綾女の引っ越しになんの因果関係があるというのか。
「右京の南のあたりが特に被害が大きいと聞きくけど、だからなの?」
この邸は右京の半ばにある。
もし、このまま疫病の被害が北上してくれば、このあたりにも大きな被害が出るだろう。
「少し違うけど、君に件の病の魔の手が迫らないようにしたいというのは合っているよ」
「北に逃げたところで、いずれは都全体を飲み込むかもしれないわよ?」
「そうならないように、今、いろいろ動いているんだよ」
なぜ、鬼である紫苑が動くのだろう。
疫病は人にとっては生死に関わる問題だが、妖たちにとってはなんら関係のない問題のはずだ。
人の理の外にいる彼らは、疫病になんてかからない。
紫苑が気にする必要はどこにもないのだ。
うっすらと焦げ目のついた屯食を頬張っている紫苑を眺める。
(疫病騒ぎをどうにかしようとしているのは、わたしのためなのかしら?)
自意識過剰かもしれないが、紫苑が人のために動く理由はそのくらいしか思いつかなかった。
だから、綾女が危険にさらされないように、引っ越せと言うのか。
正直なことを言えば、綾女だって疫病は怖い。
若い綾女はまだいいが、もし命婦が疫病にかかれば命の危険が大きい。
命婦がいなくなれば――綾女は、本当に一人ぼっちになってしまう。
綿星は会いに来てくれても、綾女の家族じゃない。
父も母もない綾女にとって、命婦は唯一の家族だ。
(怖い……)
一人になるのが、怖い。
おいて逝かれるのが、怖い。
大切な人を作るのが怖い。
――大切な人は、いつもするりと、綾女の側からいなくなるから。
命婦は、いずれ自分が先に逝くとわかっているから、綾女を幸せにしようと必死だ。
紫苑との結婚を勧めるのもそう。
母を早くに亡くした綾女にとって、命婦は第二の母のような存在だ。
子のいない命婦も、綾女を娘のように思ってくれているのだと、わかっている。
紫苑と結婚すると決めたら命婦は喜ぶだろう。
北にある土御門大路の邸に移り住めば、疫病の魔の手も遠のくはずだ。
いろんな考えが生まれては、頭の中を箒星のように流れていく。
その中心にいるのは、臆病な自分だ。
怖い怖いと、何もかもに怯える子供の綾女。
そんな情けない自分に気づかれたくなくて、綾女はわざとツンと顎を反らせた。
「疫病が怖いからって理由で結婚に逃げたりしないわよ」
「別に逃げるわけではないだろう? もともと君は俺の嫁なんだから」
「まだ嫁じゃないわよ」
「いずれは嫁になる。そういう約束だ」
鬼と約束したのは父だと言い訳したところで通用しないだろう。
今まで許されて来たから勘違いしそうになるが、ただ嫌だ嫌だと結婚を先延ばしにするのと、拒否するのでは違う気がした。
拒否することまでは紫苑は許さないだろう。だって彼は鬼だ。――本気になれば、綾女なんて力ずくでどうにかできる。
結局のところ、三つあると思っていた選択肢の、二つ目と三つ目はないに等しかった。
どこかの公達の妾になることも、出家することも、この鬼が許さないだろうから。
(一人で騒いで逃げ回って、滑稽よね)
どんなに遠回りをしようとも、行きつく先は決まっていた。
父が紫苑に綾女を託した時点で、綾女は彼の腕の中でしか生きられない。
けれどもどうしても反抗的な気持ちになって、むっつりと黙り込んでいると、紫苑がすっと火桶を指さした。
「団子が焦げているよ」
「え? ああっ!」
ぼうっとしていて忘れていた。
こんがりと焦げてしまった団子にがっくりとしつつ、ふーふーと息を吹きかけて冷まして口に入れる。
拗ねたようにもぐもぐと団子を食べる綾女に、紫苑が笑った。
この鬼は不思議だ。
綾女をこの場で組み敷くことも、このまま土御門の邸に連れ帰ることも、彼には造作もないことだろう。
綾女にはろくな抵抗もできない。
本気になれば綾女の意思に関係なく好きにできるのに、紫苑はそれをしないのだ。
綾女に決断させようとするのである。力でなく、言葉で。
「疫病騒ぎは、まだかかる?」
「今年中にはなんとかしておきたいとは思っているよ。急がなくては被害が増え続ける一方だ」
「……まるで、あなた自身がどうにかするみたいに言うのね」
それは殿上人の仕事だろう。
帝や大臣がしなければならないことで、鬼である紫苑にそれをする義理はない。
紫苑は肩をすくめて微笑む。
彼にはまだ何か秘密がありそうだなと思ったけれど、まだ正式な妻にもなっていない女にその秘密は明かせないのだろう。
「あなたの北の方(妻)になったら、命婦も守ってくれる?」
「君の大切な人だからね、当然だ」
「そっか……」
今年中には疫病騒ぎをどうにかすると言っているけれど、病が沈静化するまでに命婦が無事だという保証はない。
このままここにいたら、命婦を危険にさらすことになる。
土御門大路の邸に移れば――紫苑と結婚すれば命婦も守ってもらえるなら、そうするのが最善だと思えた。
ごくりと口の中の団子を飲み込んで、綾女は顔を上げる。
「わたし――」
けれども、紫苑は綾女の頬に手を伸ばしてふんわりと撫でると、微笑んだ。
「明日も来る。答えは明日、聞かせてくれ」
あと一日の猶予をあげるから、後悔しないように自分の心と折り合いをつけろと、そう言われた気がした。
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書下ろしショートストーリーを3本書いています。
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書き下ろしショートストーリー『泣き虫姫』
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●電子書籍限定 購入特典
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※書店さんの特典ペーパーは数量限定となりますのでご注意ください。
出版社 : 主婦と生活社
発売日 : 2025/10/3
ISBN-10 : 4391166194
ISBN-13 : 978-4391166194








