7,うるわしき兄妹の絆
真澄「問題ない、これは返り血だ。ああ、でも汚れてしまったから脱ごうかな。君も血を浴びた? うん。そうだね。脱がなくていいよ、俺が脱がしてあげる。脱がしたいんだ」
キッチンのカウンターに併設したダイニングテーブルに朝食を並べ終わり、あとは各々席につくだけとなったときに、涼介が無言でスマホを差し出してきた。
表示されていたのは、公式サイトの真澄のキャラクター紹介である。簡単な説明の他に、固定ルートに入ったときのスチルが一枚と、セリフの抜粋が載っていた。
血に濡れた軍服らしい姿で、返り血は頬にまで飛んでいる。その凄惨なヴィジュアルで、月夜を背景に甘く優しく微笑みつつ、視線の先にいるであろうヒロインに対して、隠す気もない欲情を向けてきているのだった。
カメラ目線。しっかり、プレイヤーと画面越しに目が合う。
(返り血……っ。こちら側では初登場鳥のフンだったみたいですが。「君もフンを浴びた?」なんて聞かれても、こんな空気にはならないですね。というか鳥のフンだったら、脱がしてもらう前に脱ぎます。フンがついている方に脱がして頂いても被害拡大するだけといいますか)
無言で涼介にスマホを返してから、四人がけの席についた。隣には涼介、向かいには母の千賀子。北沢真澄は斜向かいだ。
いただきます、と声を揃えてからは、それぞれサラダやカレーと好きに食べ始める。
千賀子も真澄も、ひとくち食べる事に「美味しい」「最高」「毎日でも食べたい」「お店だったら通っちゃう」と口々に言う。大げさすぎる。
全員がほぼ同時に食べ終わった頃、真澄が控えめに言った。
「キッチンに入っても良ければ、片付けを手伝ってもいいですか。世話になるだけなって、何もしないというのも心苦しいので」
いいのにと千賀子は言ったが、涼介がさっと立ち上がって「お願いします」とその申し出を受け入れた。
真澄が、あきらかにほっとした様子で「ありがとう」と言い、同じく席を立つ。
食べ終わってから、そのままその場でのんびり談笑するわけでもないメンズに千賀子は「へえ」と感心した様子で目を瞠っていた。
「涼介、すごく手際いいんだよ。お父さんと二人で暮らしている間に、ずいぶん家事覚えたんだって」
「瑠唯は全然やらなかったわよね。やっぱり、できる親と暮らしていると子どもは依存しっぱなしでだめねえ」
千賀子に、とても自信満々な自分上げをされたが、瑠唯としては言い返すこともできない。
実際のところ、千賀子は不規則な仕事の合間に家事はきちんとしていたので、瑠唯は最低限の手伝いしかしていなかった。
「そのおかげで、受験勉強はつつがなくできて、志望大学に現役合格しているわけですから。本当にお母さんには感謝しています!」
ここは娘としても母親上げをしておこうと、瑠唯なりに知恵を働かせてはみたものの、千賀子にはため息をつかれてしまった。
「涼介は医学部でしょう? 同じ理系でも偏差値は違うわよねえ。海外帰りのバイリンガルで、医学部現役合格で、その上家事もそつなくできるなんて……。どこでこんなに差が……私だって瑠唯を一生懸命育ててきたのに……」
さきほどまで自分上げをしていたはずなのに、いつの間にか別れた夫に対して敗北感を抱いてしまったらしく、自己肯定感が爆下がりになっている。
(すごくまずいことを思いついてしまった……。お母さんって、もしかして彩花のお母さんなんじゃない? 自分の姉で翠扇の母親にコンプレックス持ちの……あっ、でもその関係性から考えると、こっちのお父さんがあっちでの翠扇のお母さんの可能性が浮上するから、この案は考えないでおこう……!)
いま考えるべきは、「じゃあ洗い物お願いできますか? 拭いて片付けるのは俺が」「了解。さっきのメシ本当にうまかった」などとキッチンで和やかに話している二人についてだ。
蛍のときといい、涼介は軽率に攻略対象者の好感度を上げすぎている。それこそ、本来のヒロインである翠扇=瑠唯以上にしっかりと、確実に。
「あの、私も何か手伝うことありますでしょうか!?」
涼介が真澄ルートに入るのを阻止すべく、どうにか真澄の好感度上昇を止めておかねばという一心から、瑠唯は強引に二人の間に入ることにした。
乙女ゲームの世界では「処女喪失こそが翠扇の力を奪う有力な手段」として、翠扇のライバルである彩花はあの手この手で攻略対象者たちとの仲を取り持つとのことだが、ここは現実である。
妹として、涼介の貞操は守り抜かねばならないと、瑠唯の決意は固い。
キッチンに飛び込んだ瑠唯に、ぱっと二人分の視線が集まる。
目が合った涼介が、軽い口ぶりで提案してきた。
「コーヒーを淹れてもらおうかな。北沢さんのシャツ、まだ洗い終わってないし。母さんはどう? 夜勤明けで疲れているなら、こっちのこと気にしないで寝ていいよ。限界じゃない?」
振り返ると、千賀子は椅子に座ったまま腕を組み、白目をむいていた。眠いのに我慢して付き合ったあげく、気絶しかけているのかもしれない。
「わー、お母さんまずは寝てーっ。顔が怖いからーっ」
ばたばたと走り寄って千賀子の腕を揺すると、ハッと意識を取り戻す。そのまま今度はテーブルに両肘をつき「お母さん、もう若くないの……」とぶつぶつ言い始めた。
「知ってる。知ってるから、寝よう。ねっ? ゆっくり寝て起きても、冷蔵庫の中に食べるものまだまだいっぱいあるからねっ。楽しみだねっ」
「でも涼介が来てるのに」
「また来てくれるって! いま住んでるところ二駅しか離れてないし、ここは涼介の実家だから。部屋も残してあるし、お母さん本当はいつ来てもいいようにって思っていたんでしょ? 良かったねー、そのおかげで涼介も気兼ねなく泊まれたんだよ」
テーブルで寝てしまう前にと、瑠唯はまずは千賀子の腕をひいて立たせた。そのまま背中を押して自室へと向かわせる。
やりとりを見ていた涼介が、「明日も休みだから、一回家に帰って着替えてからまた来ようかな」と呟いた。「いいわよー」と千賀子が言う。本音は「よっしゃあ!」だろう。
とりあえず、瑠唯は千賀子をリビングと隣接した部屋に押し込み、ドアを閉めてひといきをついた。
「ごめんね涼介、ありがとう。用事はないの?」
「大丈夫。サークル入ってないし、バイトもこれから探そうと思っていたくらいだから、授業以外は時間あるんだ。もし必要なら、食材買い足して来週分の作り置きをしてもいいし。瑠唯も料理覚えたいんだよね?」
さらーっと言う涼介の横顔を、真澄が感心したように見つめていた。視線が熱い。
(フラグ……! これフラグになるかはわからないけど、間違いなく北沢さんの中で涼介への関心がうなぎのぼりだ……!)
どうにかあの熱視線をよそにそらさなければならない、と瑠唯は思案する。
かくなる上は自分が色仕掛けでもするしかないのか? 翠扇ならできるのではないか? 一瞬頭をよぎった考えは、秒で却下した。現実の瑠唯にそんな技能は一切ない。
だいたい、フィクションと現実の混同は危険だ。
(そもそもフラグだ好感度だという心配も、先走って考えすぎよね! この程度のことで、一般社会人が男子大学生に過度な好感を抱いて思いを寄せるようになるなんて、妹の欲目だよ。こんな素敵なひとなら、彼女だっているだろうし、既婚者かもしれないし)
一応、心配なので確認だけはしておこうと、瑠唯はさりげなく真澄へ話を振った。
「お母さんが強引にうちに連れてきてしまったみたいですが、あの通り本人限界がきたみたいで、寝ました。すみません。ええと、二人で同じ場所に帰って、職場で誤解されたりしませんか?」
千賀子に年下の恋人などいるはずもないのは、一緒に生活をしているだけに瑠唯はよくわかっているつもりだ。だが、真澄の方はどうなのだろうと。
意図が伝わったらしく、真澄は「ああ」と笑って、答えた。
「ご心配いただき、ありがとうございます。現在、勘違いされて困る相手はいません。完全フリーですので、何も問題ありません」
にこにこと爽やかに言い切ってから、その視線がなぜか涼介に向けられる。
そうなんですかーと相槌を打ちながら、瑠唯は拳を握りしめた。
(涼介は絶対にだめですよ。だめですからね!)
やっぱり、無理と言わずにここは女子大生の自分に引き付けるか? と思った時点で瑠唯はふと気づいてしまった。
乙女ゲームの世界から転生しているという、ある意味荒唐無稽な話は現在のところ涼介の証言だけを元にしている。
涼介がそんな嘘をつく必要はないし、単純に面白いので瑠唯は信じていたが、仮にそれがまったくの真実で、翠扇の生まれ変わりが瑠唯だとするのならば。
(翠扇がゲームの中で攻略対象者を引き付けまくっていたのって……、もしかしてそうしないと彩花が毒牙にかかると心配していたからじゃない?)
世界観として、処女喪失は力の低下につながると信じられているのだ。
ただでさえ落ちこぼれ意識に苛まれている彩花が、この上男にハマったら目もあてられない。
有馬家に引き取られた翠扇は、彩花にめちゃくちゃにいじめられていても、恩義や仁義を感じていた可能性があり、自分なりに彩花を守ろうとしていたのではないだろうか。
いまの瑠唯が、攻略対象者たちの関心が兄に向くのを警戒しているのと、似たような感覚で。
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