Chapter 3:胎動
部屋の空気は澱んでいた。金属と薬品が混ざったような匂いが鼻をつき、ネイルは呼吸を浅くした。
壁一面に並ぶディスプレイが静かに光を放ち、その一つに白抜きの文字が浮かぶ。
“Phase Sigma:アクティブ化準備完了。対象都市:TOKYO”
視線が画面に吸い寄せられたまま、ネイルは立ち尽くす。
鼓動がわずかに早まるのを感じた。
「……いよいよ、始まるのか」
呟きは空気に吸い込まれて消えた。
Zの最終目的、“選別”。
それは単なるテロではない――世界構造そのものの“再設計”だ。
遠くの扉が開く音。ヒールの音が冷たい床に響く。現れたのは、グレース博士――Zの科学責任者であり、“選別計画”の設計者のひとり。
「迷っているようね、ネイル」
ネイルは答えず、画面を見つめたままだった。
「君は運命を信じるか」
「運命なんてものは、“結果”の言い換えよ。科学の未来が運命だというのなら私はそれに従おう」
彼女の声は無機質で、冷たい装置の音と区別がつかないほどだった。
「ネイル、我々が目指すのは調和。そのためには秩序が必要。汚れた世界を洗い流すには、ある程度の“浄化”が必要なのよ」
ネイルはゆっくりと振り返った。
「……それが“選別”か」
グレースの唇がわずかに動いた。それは笑みではなく、機械の作動確認のような動きだった。
「東京の準備が整い次第、君には現地で“起動”の確認をしてもらうわ」
そのまま彼女は背を向けて去っていく。
残されたネイルの胸には、針のような違和感が刺さっていた。
森の中にぽつんと現れた巨大な廃墟。かつて栄華を誇った兵器企業「ノーザン・アーク」の研究所は、今や木々に囲まれ、朽ちたフェンスにツタが絡みついている。
だが――中には確かな“熱”があった。
スパイダー(マイク)が小声でつぶやいた。
「赤外線カメラに、内部の熱反応あり。完全な廃墟じゃない。……誰かが使ってる」
ローズ(ケシー)はスナイパースコープ越しに建物を確認しながら言う。
「入るなら、今しかないわ。警備の交代まで残り9分」
トムは静かにうなずき、フォックスを見やった。
彼はすでに“オルソン博士”に化けていた。
髪型、シワの位置、メガネの曇り方まで再現された変装は、ただの仮装ではない。まるで“別人”だった。
「心拍安定、音声模写も完璧よ」
フォックスは小さくウィンクした。
「行ってくるわ、スネーク」
自動ドアが鈍い音を立てて開く。冷たい人工照明が差し込んだ先に、異様な静寂が支配するラボが広がっていた。
ホールの中心には巨大なカプセルが並び、いくつものディスプレイが心拍数や脳波らしきグラフを表示している。
まるで眠る“被験者”たちの監視記録のようだった。
フォックスは白衣の裾を整え、足音の響きに神経を研ぎ澄ませながら進む。
(こんな設備、軍でもなかなか見ないわね……)
通信を通じて、スネークの声が入る。
「奥にある冷却保管庫を目指せ。ザックが指定した“Project Sigma”のデータがあるはずだ」
「了解。目視で3人の研究者。全員ロボットのような無表情。変装はまだバレていない」
フォックスは通路の先、冷却エリアのドアにアクセスカードを通した。中から立ちのぼる白い蒸気。
冷凍保存された試料ケースがびっしりと並ぶ。
その中に、異様なラベルが貼られたケースを見つける。
“Gene Class A-D:優性スクリーニング対象”
「……これ、人口操作計画じゃない……“遺伝子による淘汰”よ」
そこに、研究者の一人が背後から現れた。
緊張が一瞬走る。
「……オルソン博士?保管区への立ち入りは許可が必要ですが」
フォックスは落ち着いた声で答える。
「上層部からの直通命令よ。Phase Sigmaの前段階。何か問題?」
「……いえ。失礼しました」
(ギリギリだったわ……)
無事データを抜き出し、フォックスは研究所を後にする。
帰り際、通路のカメラが赤く光った。
その映像は――Zのサーバーへと送られていた。
部屋の警報が短く鳴り、画面に警告が浮かび上がる。
“Unauthorized Access Detected:No.14 Subfacility / ID:オルソン博士”
ネイルは静かに映像を再生する。
そこに映った白衣の人物は、完璧なはずのオルソン博士だった。
……だが、直感が告げていた。あれは偽物だ。
(……スネークの仲間か)
胸の奥で、何かが決定的に音を立てて崩れた。
Zの歯車は止まらない。だが、自分は――まだ、この道を選び続けるのか。
「……行くしかないな。東京で、全てを見届ける」
ネイルは通信端末を取り出し、渡航申請を送信した。
トムたちは回収したデータを睨みながら、次の都市名を確認する。
“次のターゲット:Tokyo”
その文字の横に、スキャンデータのラベルが映し出されていた。
“実験対象群:労働者層/高密集エリア/都市脆弱性:中”
「急がないと、間に合わない」
スネークの声が静かに落ちる。
ニューヨーク、スウェーデン、そして――東京。
Zの計画は、いよいよ世界を巻き込む段階に入ろうとしていた。