Prologue:黄昏
夕暮れのシチリア、山岳地帯の奥深く。崖の中腹に埋め込まれたコンクリートの要塞が、闇に溶け込むように存在していた。人の目を欺くその構造物こそ、テロ組織「Z」のアジト。その座標を突き止めたのはFBIのエージェント、トム・カーティス。
コードネーム――スネーク。
潜入、破壊、消失。彼は生きて帰ってくる保証などいらなかった。
ヘッドセットからのノイズが消えた。通信は完全に切断された。これより先は、完全な“沈黙”領域。誰も彼をサポートできない。
「ここからは俺と、このナイフだけだな…」
黒い戦闘服に身を包んだスネークは、岩陰から体を滑らせ、無音で崖を降りていく。壁面センサーをかいくぐり、レーザーフィールドを赤外線ゴーグルで見切り、慎重に中枢区画へと足を進める。
数分ごとに巡回する警備ドローン。その下を、まるで蛇のように這い進むスネーク。気配を一切殺し、影のように動く。
扉ひとつ、ロックひとつ。どれも彼にとっては日常だ。指先だけで解き、音もなく開け、また閉じる。
たったひとつの誤作動が死を意味する世界。だが、彼の脈拍はほとんど変わらない。
中央管制室――そこに、奴がいる。
コードネーム:ヘルマン・ヴァイス。
元CIA、裏切り者。世界中の混乱を裏から操る「Z」の頭脳。スネークが追い続けた男。
宿敵。
階段を下りるたび、過去が蘇る。仲間を殺された記憶、組織の裏切り、国家の沈黙。そして、自分の手でこの狂気を終わらせるという誓い。
ドアの先、そこにいた。
広々とした指令室。壁一面のモニターには、世界各地の主要都市。
ヴァイスは背を向けたまま、椅子に腰をかけていた。まるで、スネークの訪れを知っていたかのように。
「来たか、スネーク」
低く、静かに、だが確実にその声が響いた。
スネークの右手が、腰のホルスターに伸びる。
拳銃ではない――ナイフだ。
「今日は逃がさねぇぞ、ヴァイス」
ヴァイスがゆっくりと振り返る。
銀髪に細い笑み。狂気と知性を併せ持つ、冷たい眼差し。
「逃げる? 君はまだ、何も理解していないようだ」
ヴァイスの言葉に、スネークの脳裏が焼けるように熱くなる。
――記憶が、蘇る。
五年前。
スイス、ダヴォスの山岳地帯。世界首脳が集う安全保障サミット。
トムはその護衛チームの一員だった。そして、ヴァイスもまた、当時はFBI特殊情報部の指揮官として現地にいた。
「警備ライン、第二層も異常なし。ヴァイス、そっちは?」
無線越しの返答――
「……ああ。問題ない。計画通りだ」
数秒後、サミット会場の中心部。
閃光。そして――地獄。
ガラスが割れ、鉄骨が唸り、叫びが混線する通信の中で消えていった。
仲間は誰一人、生き残らなかった。
ただひとつ、焼け焦げた映像の中に映っていた――
スーツ姿のヴァイスが、火花を背に微笑んでいた。
「なんで……なぜあの時、お前は…!」
スネークの声に怒りと苦しみが混じる。
ナイフを握る指が白くなるほど力が入る。
ヴァイスは立ち上がり、静かに答える。
「なぜ? 世界に秩序を与えるためさ。…混乱こそが再構築を可能にする。君たちはただ、“秩序”という幻想にしがみついていた」
「ふざけるな……仲間を裏切って、民間人を焼いて、それが秩序か!?」
「“世界”は、痛みなしには進化しない。私は、ただ一歩先を行っただけだ」
二人の間に流れる数秒間の沈黙。
その空気を切り裂くように、スネークが踏み込む。
ヴァイスが隠し持っていたブレードを抜く。
小型のプラズマナイフ――光刃が唸りを上げる。
スネークのナイフと激突する刃。金属音が空気を裂く。
息を止めるような一進一退の攻防。机を蹴り飛ばし、モニターを割り、銃弾がスネークの耳元をかすめる。
ヴァイスの動きは読み切れない。訓練された動きに、狂気が混じっていた。
腹部をかすめる刃。スネークの肩に深い傷。
だが、それでも引かない。
「これで終わりにする…!」
スネークの膝蹴りがヴァイスの腹に入り、体勢を崩したその瞬間――
ヴァイスの左手がスイッチを握っていた。
赤いランプが点滅する、起動済みの起爆装置。
「遅かったな。蛇は頭を切られても、尻尾が動く」
「お前……!」
笑うヴァイスの姿が、爆発と共に炎の中に飲み込まれる。
機械音。白い天井。誰かの足音。
「……意識、戻ったぞ」
スネークがゆっくりと目を開ける。点滴、包帯、白いベッド。
「ここは……」
「アメリカ本土、FBI中央病院。爆発のあと、現地チームが救助したの。ギリギリだったわ」
ドアの外で仲間が言う。
だが、スネークは目を閉じた。
ヴァイスの死体は見つかっていない。
「Z」の人間も、残りの計画も――何一つわかっていない。