”それ”
¨それ¨は、闇の中でうごめいていた。耳をすませば液体を啜る様な音が、何かを咀嚼している音が聞こえたはずだ。
だが、現在この建物内に意識を保っている者は居ない。耳をすます事の出来る人間は居ない。
「グゲァ……」
息を吐き出しながら、¨それ¨は手を伸ばす。薄暗い空間へと突き出された手の先には、買物カートが置かれていた。
そのカートの、本来ならば買い物カゴを乗せるべき場所には、人の形をした何かが無造作に、乱雑に、力無く折り重なっていた。
「ゲヒッ……」
その中の一つを手探りで掴み引き寄せる。湿った音を立てながら引きずり落ちるも、不思議とカートの山が崩れる事は無かった。
目の前に横たえると、¨それ¨は大きく口を開き、人の体でいう心臓の位置目掛け無数に並ぶ牙を振り下ろした。
「ガフッ……ガフッ……」
一心不乱に獲物にかぶりつく¨それ¨はしかし、いきなり動きを止めると、耳をピンと立て鼻をひくつかせ始める。
¨それ¨が感じたのはほんの僅かな空気の乱れ。締め切られた室内で起こるとすれば、誰かが動いた時か、どこかの扉が開閉された時だ。
この建物内に他の人間がいないことは¨それ¨が誰よりも知っている。故に動きを止めたのだ。些細な変化も見逃さぬように……。
「ガゥ……」
けれども食欲には勝てなかったようで、動きを止めたのはほんの数分だけ。再び牙を振り下ろすのにそう時間は掛からなかった。もっとも、相変わらずその耳は突き立ったままだったが……。
¨それ¨の元へ少年少女が現れたのは、それからしばらくしてのことだった。