第四話 黒歴史よ、もう一度
それから五日が経ち、金曜の夜になった。この日、創は塾に行く日ではなかったので、早々に帰宅していた。
夕食を済ませて自室に戻った後、創は椅子に深く座って考え事をしていた。
――小説の執筆活動を再開するか、否か。
もう二度と書かない――あの日曜の夜にそう決意したものの、いざ執筆活動から遠ざかってみると、創は落ち着かない気持ちになった。気をまぎらわせるために塾に通ったりもしたが、最近では塾の空き時間にも小説のことを考えてしまう始末だ。
……これ以上、自分の気持をごまかすことはできないのではないか?
創は、先日家を訪れた伯父、黒星聡介の言葉を思い出す。
『――だからな、ハジメ。周りの言うことなんか気にするな。やりたいようにやれ。お前が大事にしたいと思うものを大事にすればいい』
聡介の話を聞いた後、創は心が軽くなったように感じた。脳裏に焼きついていた姉――聖蘭の笑い声も徐々に気にならなくなっていった。
笑いたければ、笑えばいい。バカにされることは決して、大事なことなんかじゃないから。そんなやつのことを大事にする必要はないし、だから、言われたことも気にしなくていい。
聡介の言葉を補って完成したその理屈は、ストンと創の腑に落ちていた。
――それよりも、自分のこのあふれる妄想を形にして発表することの方が、何万倍も大事。
創の中でそれはもう、疑う余地のない事実だと思えてきた。
創は通学鞄の中から表紙に「㊙プロジェクト」と書いたノートを取り出し、ぱらぱらとめくった。そこにはこの五日間、授業や塾の合間にこっそり書きつらねた小説の構想や下書きのメモがあった。その中には、もう消してしまった投稿サイト上の小説の続きもあった。
これを清書して、またネット上に公開したい。
創の中でそんな気持ちが芽生え、むくむくと大きくなっていた。
しかし、創は二週間前のあの夜、勢いあまって投稿サイトのアカウントを消してしまった。半年書き続けた小説のデータは何も残っていない。その事実を思い出し、創はまた少し憂鬱な気持ちになる。
いっそ、またゼロからアカウントを作り直すか……。
――コン、コン
ドアをたたくノックの音がしたのは、そんな風に創が悶々と考え続けていたときだった。ノックの仕方で、創には誰が来たのかすぐにわかった。
――ああ、ついにこのときが来たな。
創は、なんとなくそんな風に感じながら、訪問者のために部屋のドアを開ける。
「……何?」
創はなるべく平坦な声を出そうとした。が、その声には少しトゲが出てしまったかもしれない。
訪問者――聖蘭はばつが悪い顔をしていた。
創はあの日曜の事件以来、聖蘭との接触を避けてきた。最初の一週間は顔も見たくなかったから、朝食や夕食時もなるべく時間をずらすなどした。今週、徐々に顔を合わせる機会も増えていたが、創の方から積極的に話しかけるようなことはなかった。
それでも、聖蘭が申しわけなさそうな様子をただよわせていたことは、なんとなく察していた。――謝りたいと思ってるのかな、と想像がついた。
だから、聖蘭の次の台詞は、創の予想通りではあった。
「この前のこと、謝りたくて」
「……前って?」
意地悪ではなく、念のための確認として創は尋ねた。
気持ちの整理をつけた創にとって、二週間前の出来事はすでに過去のこととなっていた。ただし、姉に対する怒りが全く残っていないわけではなかった。
聖蘭は弟の低いトーンにたじろぎながらも、懸命に言葉を紡ぎ出す。
「ま、前の前の、日曜日のことよ。……私、ハジメのことからかいすぎて、ひどいことも言っちゃったでしょう?」
「……うん。そうだね」
創は冷静な思考で姉の言葉を認めた。
(うん。確かに、ひどいことを言われた。いまだに一言一句、はっきり覚えてる。……あ。思い出したら、また腹が立ってきたな)
「ごめんなさい!」
聖蘭は謝りながら、ガバッと大きく頭を下げた。そのあまりの勢いに、さすがに創も少し驚いた。このとき、聖蘭の背中どころか腰の方まで創の視界に映っており、創はつい馬跳びの馬を連想してしまった。
「……………………」
長い沈黙があった。
(――――……あ、これ僕が何か言わないといけない感じ?)
創はたっぷり十秒は経ってから、ようやくそのことに思い至った。
「……と、とりあえず、頭上げたら?」
創はやっとそう言ったが、聖蘭はそれでも頭を上げなかった。
「――許してくれる?」
聖蘭が床に向かってそう尋ねた。
創は、聖蘭のその徹底した低姿勢につい絆されそうになった。しかし、……いや、やっぱりそんな簡単に許せるもんじゃないな……と、思い直す。
「……え〜。……じゃあ、貸しってことで」
そこまで言ったところで、聖蘭はゆっくりと頭を上げた。頭に血が上ったのか、顔が紅潮していた。
「けち」
聖蘭はジト目でそう言ったが、その口元は柔らかくほころんでいた。
「――実は私も前に、こっそりマンガを描いてたことがあるの」
「えっ、そうなんだ」
姉弟で一応の和解が成立した後。
聖蘭は一度自室に戻り、一冊のノートを持って再び創の部屋に戻って来た。
そして、上の言葉を述べた後で、創にそのノートを手渡した。
創は椅子に座ったまま、ひざの上でノートを開いて何気なくページをめくる。表れた漫画を見て創の目が止まる。ノートの両面いっぱいを使って、みっちりと漫画が描かれていた。
――気づけば、創は食い入るように漫画のコマを追っていた。
「すごっ……」
創は、思わず声をもらした。
聖蘭が描いたというその漫画は、ほとんどがシャープペンシルか鉛筆で描かれた下絵相当のものだった。が、漫画好きの創の目から見て、それは立派な漫画だった。創が好む絵柄でもあり、キャラクターが動き出しそうなほど生き生きと描かれていた。
相当な熱量を込めて描いたことには疑いがない。創には、それが確かに伝わった。
(……全然気づかなかったな。たまに、部屋から出てこないことがあるなとは思ったけど)
父、竜彦のプラモデルと言い、家族同士でも趣味を知らないということはあるものだ、と創は改めて認識した。かくいう創自身も、小説を書いていたことを家族に隠していたのだ。
創はノートの漫画を読みながら、ちらりと聖蘭の顔をのぞいた。すると、彼女は耳の先まで赤くなっていた。どうやらこのノートを見せるのは、聖蘭にとってかなり恥ずかしいことだったらしい。
(――……別に、恥ずかしがらなくてもいいのに)
このときの創は、そう思うことができた。
「……私も黒歴史見せたし、これでオアイコかな……?」
聖蘭が控えめに、しかし自分にとって都合のいいことを言い出した。
創は少し考えて、首をかしげる。
「いや……それだけで借りを返したことにはならないんじゃない? ふつうに考えて」
「ちぇっ。……やっぱダメかぁ」
冷静に答えた創に対して、聖蘭は少しだけ悔しそうに、指をパチンと打ち鳴らしてみせた。
創が聖蘭の漫画を読み終えるまでに時間は掛からなかった。なぜなら、それは十ページにも満たない、未完の物語だったからだ。
ノートから顔を上げた創は、素朴な疑問を口に出す。
「……漫画、もう描かないの? 上手いのに。もったいないと思うけど」
「え? ……そ、そうかな?」
創に褒められたことで、聖蘭はふにゃりと照れ笑いを見せた。
「うん。僕は絵、ヘタだから。うらやましいなぁ」
そう言った後、創は椅子の背もたれに身を預け、大きく伸びをする。
わだかまりが片付いたこともあってか、つい創の口から妄想じみた願望がこぼれる。
「……あー、いつか自分が書いた小説が、マンガとかアニメになったら最高だなー」
「なるんじゃない? ハジメの小説、ザ・少年マンガって感じだし」
「――――え?」
創は耳を疑った。
まさか、そんなポジティブな返事がかえって来るとは……――いや、それよりも姉は今、何と言った?
創はやや放心状態になりながら、つぶやく。
「……読んだの、僕の小説? 僕、アカウント消したはずなんだけど……」
聖蘭はその言葉に、むしろ驚いたようすを見せた。
「えっ。ちゃんと読めたわよ」
聞き間違いではなかったらしい――創は少し、混乱した。
「……マジで?」
「マジで」
聖蘭はオウム返しに答えた後、疑り深い弟のために、スマートフォンの画面を開いて見せる。
そこには、今となっては創に懐かしささえ感じさせる彼のペンネーム――『漆黒魔天卿』の名を示す小説投稿サイトのページが開かれていた。
「……ほんとだ」
「消したときにミスってた? ……――まあ、良かった、のかな?」
聖蘭の疑問形の言葉を聞きながら、創は自分のスマートフォンを取り出し、小説投稿サイトにログインする。ログインは成功し、自分が書いた小説がそっくりそのまま残っていることが確認できた。
きっと、聖蘭の言う通りなのだろう。
――そういえば、自分はあのとき削除ボタンを押して、その結果をちゃんと確認することなく画面を閉じてしまったかもしれない。創は、当時の自分の行為を思い返し、原因の心当たりを得た。
ログイン後のウェブページには、新着通知を知らせる赤文字が表示されていた。その通知は、誰かが創の小説にサイト上で感想コメントを書いたことを示していた。
創は反射的にその文字をタップした。
『おもしろいです! 続き待ってます!』
『もう更新はありませんか? 楽しみにしていたのに、残念です』
『早く……続きを……』
創が書き続けていた連載小説の最新話に、そんなコメントがいくつも並んでいた。
ゆっくりと画面をスクロールしていた創の目が、その中の一つを拾う。
『なるべく早く戻って来てくださいね』
そのコメントの送り主は、『リリィ』というハンドルネームのユーザーだった。創はそのユーザーを知っていた。百合系の恋愛小説を好んで書く人で、〈オプチャー〉というSNS上でも親しくやりとりをしていた相手だった。
創の胸中は、アカウントが残っていたことへの安心と、投稿の再開が待ち望まれていたことへの嬉しさでいっぱいに満たされた。
――半年間、自分が取り組んできたことが報われた。
そんな想いもあった。
「……良かった」
ぽたり、と創の目から涙がこぼれ、スマートフォンの画面上に落ちた。
それを見てあわてたのは、聖蘭である。
意図せず、弟の涙を目撃してしまった。――きっと、好んで見られたくはないはず……。
「――わ、私そろそろ部屋に戻るね! 小説がんばってね! ……あ、お父さんとお母さんには、内緒にしといてあげるから」
聖蘭は早口でそう言うと、そそくさと創の部屋を出て行く。
創はあふれる涙を袖口で拭いながら、姉の言葉に肯いた。