9.闇と光
◇◇◇
ピンポーン、ピンポーン。
(インターフォンが、鳴ってる……)
もぞもぞと布団から顔を出すと、カーテンの隙間から光が差していて、夜ではないことは分かった。
宅配だろうか。でもそんな予定は無い。それに、たとえ誰が来ようと出るなと先輩から言われている。
体を起こそうとするけれど、体のあちこちがズキズキと痛んだ。痛みを我慢してベッドに腰掛けて立ち上がろうとしたけれど、足に上手く力が入らない。ふらつきながらもどうにかヒタヒタと歩いて、インターフォンのモニターを覗いた。
けれど、起き上がってここに来るまで時間が掛かりすぎたせいか、モニターは既に真っ暗になっていた。マンションのエントランスのモニターをつけてみたけれど、そこにはもう誰も居なかった。
折角立ち上がったからとトイレに行った。そしてキッチンに行って水を飲んだ。水を飲んだだけなのに頭がズキンズキンと痛んだ。急激に血が血管を巡ったからだろうか。激しい立ち眩みがして、飲んだばかりの水を吐いてしまいそうだった。
苦しい。痛い。
どうしてこうなった?
駄目だ。何かを考えようとすると余計に頭が痛くなる。
キッチンのシンクに凭れ掛かり蹲る。
何も考えたら駄目だ。考えない方が良い。
ピンポーン、ピンポーン。
またインターフォンが鳴った。インターフォンの音は大きくて頭に響いた。出来れば鳴らさないで欲しい。また直ぐに諦めて来なくなるだろうか。
けれどこちらの希望的予想とは違い、今度はドンドンドンッと玄関の扉を叩く音がした。
(エントランスのオートロックを解除してないのに、何故……?)
先輩が帰ってきた?鍵を忘れたとか?もしくはマンション内の人が何かの用事で?
考えると頭が痛くなるのに、更に容赦なくインターフォンを鳴らされ、扉も勢い良くドンドンと叩かれ、頭に響いて吐き気が増す。
頭痛を我慢しながら痛む体でまたインターフォンのモニターを覗いた。玄関のカメラが移していたのはまさかの福島だった。
「何で……」
どうしてここにいるのだろう。
何故この家を知っているのだろう。
何も応答しない私に構わず、ずっとインターフォンを鳴らしながら扉を叩いている。
誰が来ようと出るなと言われている。言いつけ通りにしなかったらどうなるか分からない。
昨夜、私の友人が訪ねて来たらしいが先輩は「面倒だ」と言って居留守を使った。私と会わせたくなかったんだろう。大学の冬休みが終わったのに授業に出ない理由を聞かれるのが煩わしかったのだろう。
会いたかった。友人に会いたかった。
大学にも行きたい。
この部屋から出たい。
けれど、出たらどうなる?
モニター画面に映る福島がぼやける。福島は何度も何度もインターフォンを鳴らしてドンドンと扉を叩き続けている。まるで私が絶対にここにいるのだと分かっているかのように。頬を涙が伝っていく。
私は泣いているらしい。何の涙なんだろう。
インターフォンの音もドンドンと叩く音も私の頭に、そして体に響く。それなら近所にも聞こえてしまっているんじゃないだろうか。苦情が来てしまうかな。最悪、警察を呼ばれてしまう可能性だってある。
誰が来ようと出るなと言われている。先輩は今仕事に行って居ない。鋭い人だ。どこかで聞きつけて全てを把握してしまうかもしれない。
それでも私は体の痛みも忘れて玄関の扉を開けた。
「────!」
扉の向こうにはやっぱり福島が居て、私の姿を見て息を飲んだのが分かった。
「…………」
扉を開けたものの、何も言葉が出てこなかった。
暫く無言で見つめ合ってしまった。
「……彼氏は、今居ないんだよな?」
福島が確認してきたのでこくりと頷いた。
「泣いていたのか?」
ああ、涙も拭かずに出てしまったんだ。
それどころか私は寝巻き姿だ。起きたばかりで髪はボサボサで化粧はしてないし、顔だって洗っていない。さっきトイレに行った時に洗面台の鏡に映っていた私は、酷い有り様だった。
自分の身だしなみを気にする余裕も無く出てしまった。私はそんなにもこの部屋から出たかったのだろうか。
とりあえず寝巻きの袖で涙を押さえた。
ガチャッと何処からか音がした。誰か部屋から出てきた音だろうか。あまり人に見られたくなくて、福島に「入って」と言って玄関に招き入れ、扉を閉めた。
扉のガチャンと閉まる音を聞いて、福島を中に入れてしまったけど良かったのだろうかと急に不安になる。「入って」じゃなくて「帰って」だったんじゃないだろうか。
駄目だ。冷静に考えられない。どうしたら良いのか分からない。急にまた頭痛がしてきた。
痛みを我慢するように目を閉じた。すると頬に何かが触れた。温かかった。目を開けると福島が伸ばした手だった。散々に扉を叩いていたらしい手は、かなりの熱を持っていた。腫れているんじゃないだろうか。
「これは……彼氏にされたのか?」
福島の言うこれとは、伸ばされた手が触れているところを言っているのだろう。
先輩から誰が来ようと出るなと言われているのも、大学の冬休みが終わったのに授業に出ないのも、この顔に出来た痣のせいだ。
鏡で見る度に恐怖が襲ってくる。痛い記憶が甦り、変わってしまった顔にショックを受け、これが人に知れたらどうなるかと不安になる。薄くなれば化粧で隠すことも出来るだろうが、薄くなる前に新しく更新されてしまうのだ。
どうして私はこのまま玄関から出てしまったのだろう。せめてマスクでも着けたら良かった。そうすれば頬の痣は隠せたし、風邪だと誤魔化すことも出来たかもしれない。
ああ、でも、目の横の痣は隠せないかな。髪の毛で隠すのにも限界はあるだろうから。
そもそも地元でのプチ同窓会の時に福島に腕の痣を見られている。誤魔化したところで無理だっただろう。勘づいていたからこそ今日ここに来たのだろうし、さっきの言葉に繋がっているのだろう。
「……どうして、ここに?」
福島の問い掛けには答えられなかった。誤魔化すのは無理だけど、肯定も出来ない。肯定をしたらどうなる?でも否定をしない時点で肯定しているようなものだけれど。
福島は答えなかった私を見つめながら口を少し開けている。何か言葉を我慢するように口を閉じると、私に触れていた手を下ろした。
「昨日の夜、俺のバイト先に山形さん達が来た」
「え……」
皆が、福島のところに?
「それで夜そのままここに来たけど、何も応答が無かった。山形さんが言うには部屋の電気がついてるのに出ないってことは居留守だろうって」
そうだ。昨夜先輩は居留守を使った。その中に福島も居たんだ。先輩は特に男の姿があったとは言わなかった。もし男の姿を見ていたら、あの心配性で嫉妬深い先輩ならその後私は酷いことになっていたのではないだろうか。
もしかしたらそれを懸念した山ちゃんが、福島がインターフォンのモニターに映らないようにしてくれたのかもしれない。
「夜は彼氏がいるだろうから昼間なら仕事に行っていないんじゃないかと思って、今来たんだ」
「……オートロックは?」
「いけないことだとは思ったけど、住民の人が出てくるタイミングで何食わぬ顔して入った」
「……大学は?」
「今日は午後から」
玄関にある置時計に目をやる。十時過ぎだった。私はかなり寝ていたようだ。
いつも先輩が家を出るのに間に合うように朝ごはんを作っていた。でもここ最近は全く料理をしていない。ベッドから起き上がるのが辛くて、先輩も朝ごはんを作ることを求めていないから私を起こすこともなく、寝ている私に「行ってくる」とだけ言って家を出ていた。それをいつもうっすらとした意識の中聞いていた。
時間の感覚が無くなっていた。カーテンの隙間から光が差していれば昼、真っ暗なら夜。部屋の電気がつけば先輩が帰ってきたと言うこと。それだけだ。
「宮崎」
ぼーっと時計を眺めていた私は、福島に名前を呼ばれてビクッとしてしまった。怖かった訳では無い。福島を怖いと思ったことは一度も無い。じゃあ、何故私はこんなにも怯えているのだろうか。
福島の顔を見ると真剣な顔をしていた。
「この部屋から出るぞ」
「え……」
出る?この部屋から?
頭が言葉を理解出来なかった。最近考えることを放棄していたから理解力が落ちたのだろうか。
カタカタと体が震え出す。怖くないのに福島に怯える私がいる。
「ここに居たら駄目だ。ここから出るんだ」
どうしてそんな怖いことを言うのだろう。そんなことをしたらどんな目に遇うか分からないのに。
「……無理。無理だよ」
震えながら首を振って否定する。
「出なきゃ駄目だ」
「駄目なんて……そんなこと、無い」
「駄目だ。こんな……こんな状態の宮崎をこのままになんて出来る訳無い」
「……大丈夫」
「どこが大丈夫なんだ?こんな痣だらけで」
「これはっ……私が、悪いから」
「彼氏がやったんだろ?」
「私が悪いから。だから……」
「たとえどんなに悪かったとしても、これはしてはいけないことじゃないのか」
「違うよっ!先輩はこんなことをする人じゃなかった!私が……私がそうさせてしまったから……」
「宮崎が殴ってくれって言ったのか?」
「……そんなこと……。福島だって、昔もっと酷い怪我してたじゃん!」
「ああ。難癖つけられて殴られたり蹴られたりしてサンドバック状態にされた」
「それに比べたら……」
「俺は不良の先輩にされた。でもお前は彼氏だろ?」
「先輩は優しい人だった」
「過去形じゃないか。本当に優しい人なら暴力なんてしないし、部屋に閉じ込めたりもしない」
先輩は、優しい人だった。
私、過去形にしてた。
今は……?
いつからか怖い先輩が現れ始めた。精神的に落ち着いていたら優しい先輩でいてくれた。ずっとその先輩でいて欲しいと思っていた。今は仕事が大変になって精神的に落ち着かなくなって怖い先輩でいることもあるだけで、落ち着いたら元の優しい先輩に戻るんじゃないかって。戻って欲しいって、思っていた。
なのに、戻るどころか、帰省から戻ったらただただ怖いだけの先輩になった。
ふとした時に優しい先輩になったけれど、どうしてか怖くて怖くてたまらなくて震えが止まらず、そんな私を見てまた先輩が怖い先輩に戻ってしまっていた。
『どうして怖がるんだ?どうして震えているんだ?』
私の手首を痣ができてしまう程に強く握り、そして見下ろす目は光が無く怖くて体を動けなくしてしまう。
先輩の不安を誤魔化すように無理矢理体を繋げて快楽に走るのはまだマシで、『宮が悪いんだよ』と暴力をふるったり、男の大きな両手で強く首を───
「あっ……ああ……」
自分で自分の首を絞めるように押さえ首が痛いことを思い出すと、全身で震えだし立っていられなくなる。
これ以上思い出したら駄目だ。これ以上考えたら駄目だ。
頭も顔も首も腕もお腹も、どこもかしこも痛い。何も考えずに眠っていたい。
立っている為の足の力が無くなり床にへたり込んでしまいそうになり、福島が慌てて支えようと手を私の背に回した。
福島のお陰でゆっくりと床に着地した。
どうして福島は優しいのだろう。先輩も昔はこんな風に優しかった。いつも私を優先して気遣ってくれて。
「宮崎。出るんだ」
再び福島に諭される。
もう、優しい先輩に戻ることは無いのだろうか。
本当は分かっている。分かっているのにいろんなことを打ち消して、こうだったら良いと思うことを都合良く信じてきた。
結果がこれだ。
福島の姿をインターフォンのモニター越しに見た時、涙が出た。そして玄関の扉を開けた。
この部屋を出たら私の痣が見られてしまう。何が起きているのかバレてしまう。
部屋を出たら先輩の言いつけを守らなかったことになる。それが先輩に知れてしまったらどうなるか分からない。
あれこれ怖かったのに玄関の扉を開けたのは、私は出たかったんだ。この部屋から。
涙が出たのは思考をやめたつもりだったのに感情が動いたからだ。福島に光を見たんだ。この状況を変えてくれるんじゃないかって。
私のことを気にかけてくれたこの友人に、助けを求めたかったんだ。
福島に部屋を出るぞと言われて震えたのは怯えたからじゃない。嬉しかったんだ。私は、出たかったのだから。
私は福島に促されるままに、大事な物と、まだ片付けてなかった帰省の際の鞄を持ち、福島に手を引かれながら部屋を抜け出した。