8.白い肌と赤と青
◆◆◆
「ごめん、私、帰るね」
電話をし終わって店内に戻るなり、宮崎がそう言った。
「えっ、そうなの?」
「うん、急用で……ごめんね!」
慌てるように鞄から財布を取り出してお金を数えている。硬貨をテーブルに置くが、その手が震えているように見えた。外が寒かったのだろう。その震える手が俺とは反対側の宮崎の隣に座る友人のカップに当たった。
「あつっ……!」
「大丈夫!?」
ファミレスのドリンクバーのホットドリンクが入ったカップに当ててしまい、中身が零れ宮崎の手にかかった。皆が椅子をガタタッと鳴らして立ち上がり心配の声を掛ける。
「ごめん、ごめん!」
「良いって!火傷しなかった?」
幸いにも床には零れず、テーブルの上を使い捨ておしぼりで拭いた。気遣いの出来る者が替えの使い捨ておしぼりを取りに行ってくれた。
「大丈夫、大丈夫!」
大丈夫とか言いながら拭いている手の甲は真っ赤だ。お節介かもとは思ったが宮崎の腕を掴んだ。
「熱いのがかかった服を身につけたままは良くない。水で濡らした方が良い」
「えっ、ちょっ……!」
宮崎の腕を引っ張ってトイレ前の手洗い場まで連れてくると、水を流して宮崎の手を濡らした。ドリンクがかかった袖まで洗い流すように水をかけた。ブラウン色からココアだろうかと思う。水をかけても色は完全には落ちない。いや、色を落とすことが目的ではなく、冷やすことが目的だ。
「冷たいよ、福島」
「我慢しろって」
まあ、でも、冷たく感じるのならもう大丈夫なのかもしれない。水を止めて袖を触ってみればすっかり冷めていた。手の甲も赤みはあるものの熱は持っていないようだ。ホットでも寒い冬だし多少冷めて温度は火傷する程高くはなかったのかもしれない。
ポケットからハンカチを取り出して宮崎の手を拭いてやる。
「冬に濡らして悪いな。寒いかもしれないけど」
「いいよ。ありがとう、福島」
赤みは手の甲から手首まで続いていた。どこまで広がっているのか確認しようと袖を捲り上げた時だった。
腕に痣があるのを見つけた。
「あっ!もう大丈夫だから!後は自分で拭くしっ!」
ばっと勢い良く腕を引っ込められ俺の手から腕が居なくなる。
「私、急いでるから帰るね!」
俺をその場に置いたまま、宮崎は慌てて席に戻り、直ぐに店を出ていった。
宮崎の慌て振りに、俺は反対に固まってしまった。急用と言っていたから、本当に急いでいたのだろうと思う。
でも、痣を見てしまってから途端に思い出したかのように慌て出した。あの痣を見られたくなかったのだろうか。それとも単に男の俺に肌を触られて気分が悪くなったのだろうか。
取り敢えず席に戻った。宮崎が座っていた俺の隣の席は当たり前だが空だ。皆が綺麗に掃除してくれたからか、食器も何も無くドリンクが零れた跡も無い。
あの宮崎の痣は何だろうか。
そう言えば以前包帯を巻いていた。捻ったと言っていたんじゃなかったか。でも捻ったのならあんな痣にはならないだろう。
幼い頃に出来た痣だろうか。いや、そうであればもっと薄くなっているだろう。結構青かったから、比較的最近ではないだろうか。
俺は中学の時に殴られて痣を作っていた。その時の様な酷いものでは無かったけれど───
「福島」
呼び掛けられてハッとする。
「福島は就職どうするの?」
就職……。既に働いている者もいるがメンバーの殆どが大学三年生だ。大学院に進む者もいるだろうが、就職する者が大半だろう。皆はどうするのか聞いて自身の進路の参考にするような時期だ。
「ああ……まだ、はっきりとは決めてない」
「こっちには戻って来ないの?」
「受かるか分からないけど、出来れば東京で」
「そっかー」
友人の反応を聞き流しながら、また宮崎のことを考えていた。
どこかでぶつけた痣だろうか。女性だから痣を見られたく無かったのだろうか。綺麗に治したいなら湿布を貼ってても良さそうだけど。湿布特有のあの臭いが嫌だったのだろうか。
驚く程白い腕に出来た赤みとあの痣が目に焼き付いていた。そのお陰で皆の話題に入る気になれなかった。聞かれたことだけ答えて、誰の話も耳にも記憶にも残らなかった。
色白の腕。全く日に焼けていない肌は絵画のまっさらなキャンパスの様に赤みと痣の青を鮮明にしていた。
そう言えば夏も長袖を着ていた。真夏の同窓会は長いヒラヒラの袖の服だった。合コンの時も蒸し暑い日なのに長袖を着ていた。
女性は日に焼けたくないからと夏でも長袖を着ていたりするし、エアコンの効いた部屋が寒いからと薄手の長袖の羽織物を持っていたりする。
宮崎もそれであんなに真っ白な腕をしているのだろうか。美しく、触れたくなるような透明感のある肌。
これまで何人かの女性と付き合ってきたけれど、あんなにも綺麗な肌の人はいただろうか。
だからこそ余計に綺麗な肌とは不釣り合いな、赤と青。
怖さすら感じる腕の配色が、今日の同窓会が終わっても頭から離れなかった。
大学の冬休みも終わり、昼間は大学で授業を受け、終わったらバイトに出るという日々に戻った。
冬休みは例年バイト三昧だったが、今年は夏に同窓会で帰省したこともあり、義父に「冬も少しで良いから帰ってこい」と言われ正月過ぎに三日間だけ帰った。急遽宮崎に誘われた同窓会が入ったので、あまりのんびりと過ごした感じではなかったが、どうしても実家は気まずさがあるのでちょうど良かった。義父と話をして、お土産で懐いた弟と遊び、逃げるように早々に東京へと戻った。
一月は新年会の季節で、週末のシフトに入ると本当に多忙だ。ランチの常連さんが夜にも宴会をしてくれるのは毎年のこと。
その日の夜も忙しかった。宴会の飲み物は次から次へとオーダーされ、運ぶのと同時に空の容器を下げるのを繰り返した。さらに一般の客の接客もし、店内の賑やかさと慌ただしさで真冬なのに汗をかくほどだった。店の外で待っている新規客を店内に案内するのに外へ出ると、寒い筈なのに涼しいなと思う程には暑かった。反対に外で待っていた客は白い息を吐き、身を縮ませながら店内へと入っていく。
思いがけない客が来たのは、そんな忙しさが落ち着き始めた頃だった。
夜の十時を過ぎ、もうじきラストオーダーというところで店の扉が開いた。こんな時間に来店も珍しく、入り口に目をやる。いつもなら来店があれば近くの店員が「いらっしゃいませ」と声を掛け、皆がそれに続いて声を出すのに、誰も言わなかった。
それもその筈、店長の恋人だったからだ。つい数週間前にこの店で忘年会をして、全員が彼女の顔を覚えていた。それに、一緒に来ていたのも彼女の友人で、同じく忘年会で顔を合わせているメンバーだった。
入り口の近くにいた店員が彼女らに対応し、バックヤードに向かって「店長ー!」と呼び掛けている。客として来たのでは無く、店長に用があって来たようだ。
客じゃないのならと、自分の仕事をしようと思い、まだ店内で食事をしている客の対応をしながら、クローズや明日の準備を黙々としていた。
「福島」
洗い場から回ってきた取り分け用の食器やカトラリー等をカウンターの棚に片付けていると店長に名を呼ばれた。
「はい」
「ちょっと」
手招きされたので店長の所に向かいながら、何かしでかしたかな?と考える。記憶にはないけど。今さら笑顔が無いとか言って怒られたりはしないだろう。
店長は事務所に入っていったので俺もその後に続いて入ると、中にはさっき来た店長の彼女とその友人二人がいた。忘年会と同じメンバー。今日も宮崎はいない。
「三人がお前に聞きたいことがあるって」
「俺に、ですか?」
店長に言われて何だろうかと思ってしまう。三人の方を見ると、三人とも暗い表情だ。お酒を飲みながら楽しそうに笑っていたこの間とは全然違う。
「福島くん、年末年始帰省した?その時、宮に会った?」
「ああ……正月過ぎに帰省して、宮崎に誘われた同窓会に参加した時に会ったけど」
「本当!?会ったの?」
「それ、先週!?」
「その後、宮と連絡取ったりしてない!?」
矢継ぎ早に三人に聞かれ、その勢いに吃驚してしまう。気持ち仰け反ってしまった。
「えっと……先週に、会ったよ。その後は連絡してないけど……」
「会った時、変わったところ無かった!?」
忘年会の時、俺に散々お酒を飲ませてきた山形さんが、今度は胸ぐらでも掴んでくるんじゃないかと思う程の勢いで顔を近づけて聞いてくる。
「変わったところ……?」
何だろうか。変わったところ……?どんな答えを期待して聞いてきているのかが分からず聞き返してしまう。
「宮が……宮と、連絡が取れなくて……」
「えっ……?」
連絡が取れない?
山形さんは俯いてしまった。他の二人を見ると同じように俯き、誰とも目が合わない。
「冬休みの最終日に皆と連絡してたんだけど、宮だけメッセージに既読が付かなくて、何も返信もなくて……授業が始まっても大学に来ないし、何度メッセージを送っても返信が無くて、電話しても出ないし返答も無くって……」
携帯電話で当たり前にいつでも連絡の取れる時代。一日や二日ならばスマホが壊れたかなとでも思うけれど、俺が先週宮崎と会ってから一週間が経つが、その間全く連絡が取れず、ましてや大学にも来ないとなると何かあったのかと心配にもなるだろう。
「宮崎の彼氏は?連絡先とか知らないんですか?」
「連絡先は知らなくて……でも二人が同棲している家は知ってるから行ってみたんだけど、何も応答が無かったの」
同棲していたのか……。
いや、今はそんなことにショックを受けている場合ではない。
「家に行っても応答が無いなら、家には居ないと言うことか。帰省した実家からまだ戻っていないとかはないか。身内に不幸があったとか」
店長が皆の不安を落ち着かせるように冷静に考えてくれている。
「それならそうと連絡があっても良いと思うんだけど……」
「そう言えば……」
ふと、先週宮崎と会った同窓会でのことを思い出す。
「同窓会中に突然、急用で帰るって言って慌てて帰っていったけど」
「急用?」
「実家で何かあったかどうかまでは分からないけど。でも、直前に彼氏から電話があって、電話から戻ったら慌てて帰っていったんだけど」
「彼氏……から」
「福島は宮崎さんの実家の連絡先は知らないのか?」
「実家の連絡先までは……」
卒業アルバムとか漁れば出てくるだろうか。しかし個人情報に厳しい今時、固定の電話番号は載せてはいないだろう。詐欺電話に卒業アルバムが使われたなんて話も聞いたことがあるし。
宮崎と仲の良い地元の友人なら知っているかもしれないが、俺がその友人の連絡先を知らない。いつも宮崎が仲介していたから。
夏の時の同窓会で、引っ越しをした俺にも案内葉書が届いたから住所くらいはどうにか辿れたり出来るかもしれないが。
「……彼氏と、電話でどんな話をしたかとかまでは聞いてないよね?」
「そこまでは聞いてない」
「そっか……」
「でも電話後に相当慌てていて、テーブルの上のホットドリンクを溢して宮崎の手にかかったんだ。火傷してたら大変だと水で流して……あの時の怪我が悪化でもして……腕に痣もあったし、病院にでも行ってたりとか───」
「痣っ!あったの!?」
山形さんが再び勢い良く反応した。
「え、ああ……腕に」
「…………」
山形さんは俺を見ているのに見ていないかのように放心している。他の二人を見れば、また俯き視線が合わない。
何か変なことを言ったのだろうか。痣か?痣に何か……
確かに俺もあの痣を見た時驚いた。生まれつきや幼い頃の跡では無い、比較的最近のものだ。何処かにぶつけたのかとも思ったが、それにしては痣の付き方がそんな感じでは無かった。もっと、広範囲で、腕に巻き付いているかのような……
突然、脈が速く打ち出した。
「……あの、痣」
ポツリと山形さんが呟く。
この人は何か知っているのでは無いだろうか。俺の思考の行き着く答えを持っている様な気がした。
「春頃に私も痣を見たことがあって、どうしたのか聞いたけどはっきりと理由を教えてくれなくておかしいなって思うようになって、気がついたらどんなに暑い日でも長袖を着ていて、ああ、もしかして隠しているんじゃないかって」
山形さんがおかしいと思ったということは、夏でも長袖なのは日焼け防止では無かったということだ。
「次第に彼氏の話もしなくなって、聞いてもあまり話したくないのか話題を直ぐに変えられたりして」
「おい、それって……」
店長も分かってしまった様だ。そこまで聞かされたら山形さんが言いたいことも分かってしまう。
「でもっ、宮と彼氏は本当に仲が良かったんだよ!昨年同棲を始めた当初も楽しそうで幸せそうで……先輩は凄く優しくてっていつも言ってて、羨ましいなって思うような話ばかり聞いてたし……」
店長の彼女の奈良さんが一生懸命になって弁解するように話してくれるが、それは今の話では無い。店長に落ち着くように背を撫でられている。
「……先輩は凄く嫉妬深いのに、福島くんとの合コンに先輩には内緒で参加するって言うから大丈夫なのか心配になったんだけど。もし……もし、バレたらって。それも内緒にしてたってことが知れたら……」
知れたら、どうなる……?
心臓がドクドクとなり息苦しい。
山形さんから宮崎の彼氏が心配性だと聞いていた。だから冬休みのプチ同窓会も「大丈夫か?」と確認したけれど、本人は大丈夫だと返してきた。それを鵜呑みにして俺が参加したせいで、こんなことになってしまったのだろうか?
俺の責任だ。俺のせいだ。
「ちょっと待て!全て推測でしかない。全員冷静になれ」
店長に俺の悪い思考を遮られる。
「福島」
名を呼ばれる。店長は真剣な表情で軽く首を振った。
きっと俺が酷い顔をしていたからだろう。冷静になれと伝えたかったのだろう。
分かっている。冷静にならなければならないことくらい、分かっている。
けれど、泥でも投げつけられたような汚れた感情がどうしようもなく溢れ出てくる。
俺が行かなければ、宮崎の誘いに乗らなければ。いや、夏の同窓会で合コンに誘わなければ……。同窓会で声を掛けなければ?違うな。同窓会の葉書を見たときに会ってみたいと思わなければ、同窓会に参加しなければ、そうすれば俺が宮崎にこんな風に関わることも無かった。
俺のせいだ。
でも、彼女達の話だと俺とは関係無く、再会する以前から予兆はあったのだ。推測だけど、推測でしかないけれど、もし彼氏が宮崎を傷つけているのだとしたら?
何故そんなことをする?好きで付き合って同棲する程なのに?
「……山形さん」
「福島くん?」
推測でしかない。
なら、確かめるしかないのではないか?
俺のせいだと自分を責めても何も変わらない。
「宮崎が彼氏と同棲している家の場所を教えてください」