2.香る女と笑顔の女
◆◆◆
ダルい。
ただ、ダルい。
季節は秋。暑い夏は過ぎ、風が涼しく過ごしやすい時期になってもダルい。年中ダルい。
目にする些細なことにイライラする。感情の抑制が効かない。いつからか我慢するのが馬鹿らしくなった。髪を染めて先輩から貰った制服を着るようになってから、何故か感情がストレートに出てしまうようになった。武装したつもりにでもなったのだろうか。
多分、見た目から不良になり、周りからそう決めつけられた目で見られるようになったから、態々隠す必要も無いと開き直ったからかもしれない。
我慢するよりかは良い。我慢すると頭が狂いそうになる。でもストレートに出すと歯止めが効かなくなることもある。目の前のヤツに負けてたまるかと意地を張るからだろうか。
学校の先生も意地を張っていたら怒ってこなくなった。先輩が居た頃はまだ叱られていた。三年になってから怒られなくなった。
俺が更生することに期待しなくなったのか、諦めたのか、もしくは卒業まであと少しだからと適当に対応しているだけなのか。
怒られたら言い返すのも疲れるので怒られなくなって良かった。
ただ、体のダルさと心に虚しさを感じるだけだ。
「福島。はい」
ダルくて机に突っ伏して窓の外のモコモコの小さい雲が並んでいるのをぼーっと見ていたら、俺の視界を突然遮られた。急に目の前に現れたものが近すぎて焦点が合わない。
「あ……?」
急に視界を遮られてイラッとしながらも次第に焦点が合ってきて、目の前のものが本であることが分かった。その本を差し出している手を辿っていくと、宮崎がいた。
「またお前かよ」
この間は俺に睨み返してきていたのに、今日はちょっと笑顔だ。俺を怖がらないだけで無く、笑顔まで向けてくるなんて変わってやがる。だいたいの女子は俺と目を合わせようとしないし、怖がって近寄っても来ない。
「約束したでしょ。本、貸すって」
何言ってんだ、こいつは。
「俺は貸して欲しいなんて言ってないぞ」
「でもこれ面白いよ。ほら、福島って、野球部だったじゃない。これ甲子園を目指す高校生の話なんだ」
俺が野球部だったことを何故知っているんだ。
「野球部なんて一年の時に辞めたし」
「でも野球部だったってことはスポーツの中で好きな方なんじゃないの?」
「本なんて興味ねぇし」
「あー、私、次の授業が音楽室だから、もう行くねー!」
「はぁ!?おいっ……」
強引に俺の机の上に置いていきやがった。
何なんだ、あいつは。
「何だ、また宮崎サンかよ。福島、同小だっけ。仲良いのか?」
不良仲間が近寄ってきて聞いてきた。
「どこが仲良いんだよ」
「いやぁ、全然怖がってねぇから」
「優等生でセンセイに守られてるから怖いものナシなんだろ」
「ふーん。で、それ読むのか?」
「……読まねーよ」
読書なんてした記憶がない。小学生の頃の読書感想文を書く為に読んだくらいじゃないだろうか。活字なんてダルくて読んでられるか。
机の上に置かれた本をそのままに、今度は机に突っ伏して寝た。
放課後、仲間に連れられて先輩の家に行った。昨年まで中学で好くして貰っていた一つ上の先輩だ。今は高校へは行かずにバイトをしていると言っていた。
「福島じゃん。久し振り」
先輩の部屋には、同じ中学の一つ上の女の先輩も居た。
「……どうも」
俺はもしかしたら仲間と先輩に嵌められたかもしれない。仲間の顔を見ると気まずそうな顔をされた。先輩に頼まれ断れなかったのかもしれない。
ダルい。
溜め息が出た。
「俺、帰ります」
「ちょっと待ってよ!」
先輩の部屋から立ち去ろうとして女の先輩に引き止められる。
「福島、話くらいちゃんと聞いてやれや」
先輩が間に入って諭すように言ってくるが、どうせこの女に泣きつかれて仕方なくだろう。
「……嫌ですね」
「酷くない!?」
この女の高く大きな声が脳に響くようで頭痛がしてきそうだ。自分にも非があるからこそ余計に頭が痛くなるのかもしれない。
逃げたくて、構わずに先輩の家を出た。
それでもこの女は付きまとうように追い掛けてくる。
「ねぇ、福島。どこ行くの?」
「……帰る」
「家に帰るの?家、嫌いなんでしょ?」
「…………」
「ねぇ、うちにおいでよ」
「行かない」
「何で?家、本当は帰りたくないんでしょ?」
「あなたのとこにも行きたくない」
「何でよ。良いじゃん。おいでよぉ。それで、またしよ?」
腕を取られ体を擦り付けられる。きつい香水か何かの匂いがする。
ああ、頭が痛い。
思いっきり腕を振りほどいた。
「二度と俺に近づくな」
睨み付け明らかなる拒否を見せた。
「なによっ!馬鹿じゃないの!」
本気で諦めてくれるのかどうかは分からない。でもこの女は俺を悪者にしてまた誰かに泣きつくのだろう。
そして顔を背けると真っ直ぐ歩いた。その後は追い掛けてこなかった。
この女の先輩と一度セックスをした。誘われて興味本位でしたせいで、その後先輩に気に入られ付きまとわれた。断れば良かった。こんなことになるなんて思わなかった。
俺のことを真剣に好きな訳じゃない。男なんて沢山いるような女だ。さっき上がった家の先輩とも関係があった女なのだ。俺が後輩だから好きに扱えるとでも思われたのかもしれない。
所詮俺はまだ中学生。ガキだ。欲求を優先して考えが及ばずに痛い目を見るはめになった。
俺とのセックスの内容をあちこちで言い触らして辱しめてコントロールしようとした。うんざりだ。関わりたくない。好きに噂すれば良い。どうせ俺の評判なんて既に地に落ちている。
大人からは眉を潜められ、学校のヤツらからは怖がられる。誰からも好意的に見られない。
いつもは暗い時間に家に帰るのに、今日は行くとこも思いつかずに帰宅してしまった。アパートの玄関の扉を開けると、母親の靴があった。
「帰ったの?早いわね」
母親の顔を見たくなくて、いつもは夜間の仕事に出掛けた時間に帰っていた。
会話をする気は無いので自分の部屋に一直線に行き、戸を閉めた。
「ねえ」
戸の向こうから声を掛けられる。
「その格好、どうにかしてくれない?私さぁ、再婚しようと思ってて。さすがにあんたがその格好じゃあ話が流れちゃうかもしれない。まともな格好してよ」
まともな格好、か。
髪の毛のことか。制服のことか。
ぼろっぼろになったスニーカーでは無く?
制服の下に着ている首周りが伸びきったTシャツでも無く?
その再婚話とやらが流れたら、例え俺がまともな格好をしていても俺のせいになるのだろう。
暫くして母親は出掛けて行った。
久し振りに会った息子との会話はそれだけだった。会話にはなっていなかったけれど。
何故この時間に帰ってしまったのだろう。
さっき女の先輩に「帰りたくないんでしょ」と言われ、反抗でもしたかったのだろうか。その通りなのだから帰らなきゃ良いのに。あんな女に俺の心を理解されてしまっているということが嫌だったのかもしれない。
むしゃくしゃして鞄を壁に投げつけた。鞄は逆さにひっくり返って壁に当たり、鞄の中身が溢れながら床に落下した。
宿題なんてやらないから、教科書もノートも全部学校だ。鞄の中身なんて筆箱とタオルとよく分からないプリントと……本が落ちていた。
宮崎が貸すとか言って勝手に置いていった本だった。
あいつはどういうつもりでこの本を持ってきたんだろうか。頭が悪いから勉強しろとでも言いたかったのか。別に高校になんか行くつもりもない。そもそも高校に行く金なんて無いだろう。勉強なんかしても意味がない。
『甲子園を目指す高校生の話』
野球を続ける金も無ければ、高校に通う金も無い。
どうせ恵まれた人間しか感動しない話だろう。
ボロボロのグローブを、紐が切れても店で直して貰えないから自分で直した。それでも捕球面の革が薄くなって穴が空いてしまい、自分ではどうしようも無くなった。
成長の遅かった俺は中学に入ってから急に足のサイズが変わったので、スパイクがキツくなった。簡単に新しいものは買えなかった。
結局俺は恵まれない人間だ。
────数日後。
「福島、何してんの?」
学校の屋上は立ち入り禁止で扉に鍵が掛かっている。なので屋上に繋がる階段には誰も近づかない。それを良いことに、屋上前の廊下で昼寝をしていた。秋の程好い暖かな日差しが扉の窓から差していて眠気を誘うのだ。
「また、お前……」
心地好い睡眠を邪魔しに来たのはまた宮崎だった。
「何だよ。何でここに来んだよ」
「イビキが聞こえてきたからさ、誰かと思って覗いたの」
……イビキかいてたのかよ、俺。
「寝てたんだよ。邪魔すんな」
「夜寝てないの?受験勉強?」
「んな訳ねぇだろ」
高校なんて行く金が無いのに何故受験勉強なんかする必要があるのか。
「ねぇ、そう言えば貸した本読んだ?」
「読んでねぇよ。5分で眠くなった」
「5分読んでくれたの?」
嬉しそうな顔を近づけてきたのでぎょっとしてしまう。何故眠くなったと苦情を言ったのに喜んでいるのか分からない。
「お前、人の話聞いてんのか?つまんなくて眠くなったんだけど!」
「いやぁ、本を開いて読んでくれただけでも嬉しいかも!確かにね、あの本の冒頭って主人公が大人になっていて回想していく流れだからさぁ、初めはあんまり興味持って貰えないかもしれないけど、中盤辺りから野球の試合とか仲間との関係性とかが面白くなってくるからそこから読んでみても良いかも!読んでて気になってきたら初めに戻って辿るのも楽しいと思うよ!」
「はぁ?何言ってんだよ。もう読まねぇよ」
「とか言ってまだ本返して貰ってないじゃん。折角だしまた挑戦してみてよ」
5分で眠くなったとか言わなきゃ良かった。
そもそも何故俺は読もうという気になったのだろう。直ぐに飽きるのが分かっていたのに。本なんて読むガラじゃない。
「……宮崎、お前、俺のこと怖くねぇの?」
「何で?怖くないよ?」
「…………」
真顔だった。嘘をついている様子では無かった。本気で怖くないと思っている様だ。
「福島は良いヤツだって知ってるし、ちゃんと人に感謝の出来るヤツでしょ」
でしょって……。
昔の記憶だろう。何年経ってると思っているんだか。この優等生は頭が平和過ぎるんじゃないのか。
「あ、こんなことしてる場合では無かった。先生に頼まれ事されてたんだった。もう行くね。じゃ!」
呆気なく立ち去っていった。
何なんだ、あいつは。
あいつのせいで眠気が何処かに行ってしまった。
川の橋の下、いつも一人になりたい時や身の置き場に迷った時にいつも来る場所。
宮崎に押し付けられた本を読んでいた。
宮崎の言う通り、適当にパラパラと読みやすそうな場所を探して、話の途中から読んでみた。そしたら意外と読めた。
俺が読書なんて笑ってしまう。読むペースも遅いし。毎日ちょっとずつ読んでいる。不良仲間に見られたくなくて、家にも帰りたくなくてここで読んでいた。
何故また読む気になったのか。自分でもよく分からない。何にもやることなんてないから暇だったというのもあるけど、あの宮崎の顔が頭から離れないからだろうか。あの、嬉しそうな顔。
『本を開いて読んでくれただけでも嬉しい』
また挑戦してみてと期待するように言われたのも、同じように頭で何度も思い出してしまう。些細なことなのに期待されるのが久し振りだったから、読んでみようかという気持ちになったのかもしれない。読んだらまた同じように嬉しそうな顔を向けてくれるかもしれない。
…………
だめだ。また余計なことを考えてしまい本に集中出来ない。
読みたい気持ちはあるのに、宮崎の顔が邪魔をする。
「みーつけた」
嫌な女の声。大して集中出来ていなかった本から顔を上げると、あの女の先輩と……男が三人。知らない男だ。ニヤニヤと気味の悪さを感じるような視線を向けられる。
「福島クーン、何見てるの?」
「本なんて読んで真面目ぶっちゃって」
男が近づいて来て、座っている俺の目の前まで来ると俺を見下ろした。
(関わり合いたくねぇな……)
ダルい。面倒臭い。
こいつら多分高校生だ。ガラの悪いヤツが多いって聞く高校の制服じゃないだろうか。ネックレスしてピアスして髪も派手で、折角入った高校で何してんだか。
まあ、金があっても俺の馬鹿な頭では到底入れない高校ではあるだろうけど。
「ねぇ、福島。遊ぼうよ」
どうしてこうもこの女は付きまとうのか。
「二度と俺に近づくなって言っただろ」
言った瞬間、バキッと男に顔を殴られた。突然で抵抗を何も出来ずに体ごと横に倒れた。
「生意気だね、福島クン」
何故この男に殴られなきゃいけないんだ。
「私に対して酷くない?ムカついたんだよね」
女の先輩はそう言って嫌な笑みを浮かべる。
思い通りにならない俺がそんなにも気に入らないのか。
その後高校生の男達に散々に殴られ蹴られた。殴られ過ぎて視界がぼやけてよく見えない。
一人になりたくて誰も来ないような川の橋の下に来たので、誰もこの暴行を止めに来ない。
まさにサンドバッグ状態。
まさに自業自得。
何も抵抗しない俺に飽きたのか、さすがに殺したら不味いと思ったのか、そのうち終わった。俺は動けるような状態では無く、地面に倒れたままだったけれど。あちこち痛くて全身麻痺しているようだった。
「これ、福島クンの本?」
焦点が定まらない状態だったけれど、男が倒れている俺の目の前に本を見せてきた。
「……返せ」
口を動かすと口の周りがピリピリと痛んだ。血の味もする。何処かが切れているのだろう。
「不良で貧乏で馬鹿なのに、読書なんて偉いねぇ」
腕も肩も痛かったけれど、必死に本に手を伸ばした。けれど手が本に届くよりも前に、本を川に投げ捨てられた。
ポチャッと水音が聞こえた。
ゲラゲラと笑い声が辺りに響く。
「じゃあね、福島」
満足したのか、あの女の復讐も終わり全員去っていった。
不良っつっても、俺は弱くこんなにも情けない。別に喧嘩が強い訳でも何でも無く、ただ虚勢を張ってるだけだ。
だからたった一冊の本も守れない。
ごろりと地面に仰向けになる。橋の上を車が往来して騒音が響く。橋の横には微かにオレンジに染まった空が見え、今日もモコモコとした雲が浮かんでいる。
「あーあ……どうすっかな……」
ガラにもないことをしたからこんな目に遭ったのだろうか。
この川はそこそこ深い。川に入って探すのは危険だろうし、川の水で濡れぐちゃぐちゃになった本を返されても迷惑だろう。本っていくらするんだろうか。
不良らしく、つまらないから捨てたとでも言えば良いか。そうすれば宮崎も俺に幻滅して話し掛けてくることも無くなるだろう。
「いてぇな……」
騒音のお陰で俺の呟きは誰にも届かない。