10.珈琲の好みとタイプ
◆◆◆
カチャとアパートの玄関の扉のドアノブを回して扉を開く。
けっして綺麗とは言えない、むしろちょっと……いや、だいぶ男臭のする散らかった部屋。寒い今の時期は態々冷気を取り込む気になれずに換気をしない為、ゴミの臭いとか洗濯物の臭いとかシンクに洗わずに置かれたままの食器の臭いとか、いろんな臭いが混ざっている。
「悪い……汚ない部屋なんだけど……」
手を掴んでいる相手に一応前振りをしておく。この扉を開けた時点で予想はついただろう。
宮崎は特に何も言わずに首だけ振った。
俺は勢いで宮崎を連れてきてしまった。この判断は良かったのかどうか正直分からない。ただ、痛々しい状態の宮崎を放っておけなかったんだ。
宮崎は彼氏と同棲していたマンションを出てからずっと無言だった。顔の痣を隠す為にマスクを着けニット帽を被り、大きなフード付きのコートを着て、一見誰だか分からない装いになっている。お陰で表情も読み取れない。喋らないから何をどう思っているのか推測も出来ない。
「簡単に掃除するから、寒い中悪いけどちょっと待っててくれ」
宮崎を玄関に立たせたままキッチンの小窓を開け、そして部屋の窓も開けた。取り敢えずは換気だ。一月の冷たい空気が流れ込んで寒いけれど、臭くて淀んだ空気は一掃出来るだろう。狭い1Kの部屋だ。
部屋の床に散らかっているものを雑に一纏めにしてクローゼットに押し込めた。そして気休めに消臭スプレーを散布した。
クシュンと小さな音がして振り返ると、宮崎が玄関の上がり框に腰掛け蹲っていた。
「寒いよな。悪い」
大まかには片付け終えたのでエアコンをつけ、急いで窓を閉めた。宮崎を室内に上がらせると、換気の為に開けたままにしていた玄関扉も閉めた。
女を部屋に上げるのは初めてじゃない。大学に入ってから数人と付き合ってきて部屋にも来ている。初めて招いた時こそ緊張はあったけれど、今日はこれまでにない不思議なざわつきがある。
密室に二人でいて良いのかと。
仮にも彼氏のいる女だ。
部屋を飛び出して逃げてきた先まで宮崎にとって危険な場所であってはならない。
俺はあくまで友人であると、自分に言い聞かせスマホを手に取る。
「適当に座ってて。疲れたのなら横になって構わないから。俺は山形さんに連絡しておく」
「え……山ちゃん?」
さっきまで宮崎は蹲っていた。疲れたのだろう。ずっと部屋に閉じ籠っていたのだから、体力が落ちていてもおかしくない。それに宮崎のマンションから俺の部屋までは新宿で電車を乗り換えなければならなかったから、それなりに時間が掛かったし、人混みの中歩かなければならなかった。
だから休んでいて欲しくて言ったのに宮崎は友人の名を聞いて立ちすくしている。
「宮崎、スマホ無いから連絡出来ないだろ?彼女達心配してたから取り敢えず俺の家にいるって伝えとく。それに、男の俺の部屋なんかより女友達の誰かの家に行った方が──」
「待って!」
宮崎の言葉にスマホを操作する手を止めた。
宮崎はスマホが無いと言っていた。彼氏に取り上げられどこにあるか分からないと、宮崎のマンションで荷物を纏めている時に言っていた。少し部屋を探したらしいが、見つからなかったらしい。
彼氏が持ち歩いているのかもしれない。外部との連絡を遮断させる為なのか、男からの連絡が来るのを見張る為なのかは分からないが。
「山ちゃんには……友達には、言わないで」
「……どうして」
「まだ、その……この、状態を伝える勇気が……」
顔の痣を見られたくないのか?
それともずっと隠していた彼氏との関係を知られたくないのか?
隠していたことへの罪悪感でもあるのだろうか。
「……実家の親にも、言わないつもりか?」
まだマスクを着けていてニット帽も被っているので顔の殆どが隠れているのに、隠れていない目を見るだけで苦しそうな表情をしているのだけは分かってしまった。
同棲をしていたのならある程度親にも紹介なり話をしていたことだろう。心配を掛けたくないとか、知られたくないとか、そういった思いがあるのかもしれない。
「……暫く、ここに居ちゃ駄目?」
ドキッとしてしまう。
「や……狭いし、な……」
違う。そこじゃないだろ、俺。
「やっぱり迷惑かな……ごめん。うん……取り敢えず、ネットカフェにでも行くよ」
「ちょっと待てって!」
女が一人でネットカフェとか、大丈夫なのか!?
いや、しかし、部屋を飛び出して友達も親も頼れなかったら泊まるとこ無いし、新しい部屋の契約も出来ないだろう。ホテル暮らしが出来るような金に余裕も無いだろうし、そしたら行き着くのはそこかもしれない……。所持金が無くなればそれこそ……。
宮崎にとって俺はただの友達だ。秘密を知ってしまった唯一話せる友達……。
友達……。
「……分かった。今後どうするか決まるまで、居たらいい」
「迷惑掛けてごめん」
「謝んなくていい。俺が……部屋から連れ出したしな」
「……ありがとう」
宮崎を連れて来てしまった判断が正しかったのか分からなかったけれど、きっと悪くは無かった筈だ。そうでなければ宮崎から「ありがとう」の言葉は出なかっただろう。
「取り敢えず、傷の手当てをしないか?病院は……行かないか?」
「病院に行ったら……理由とか聞かれるよね?多分、骨折とかは無いから、このまま放っておいても──」
「駄目だ。跡が残るぞ。……と言っても家には医療品なんて殆ど無いから、ドラッグストアで湿布とか買ってくる。お前は休んで待ってろ」
「ありがとう……」
「飯は?もう昼だろ。食いたいもんは?」
「……食欲無い」
「あー……じゃあ、適当に買ってくるからな」
「うん」
「他に欲しいものは?」
「今は、無いかな」
宮崎を一人にするのは若干心配ではあったが、薬局なら家から近い。急げば直ぐに戻ってこれる。
部屋を出てドラッグストアまでの道を早足で歩きながら山形さんにメッセージを送った。昨日念の為にと連絡先を交換していた。宮崎を保護したことと、連絡することを拒んでいるので落ち着くまで暫くそっとしておいて欲しいことを伝えた。
ドラッグストアで湿布や消毒とかの医療品や、パンやゼリーや飲み物等を適当にかごに放り込んで、結果両手に袋を提げる程沢山買い込んでしまった。
帰りにスマホをチェックすると、山形さんから返信が来ていた。きっといろんな感情があったと思うが、一言『ありがとう』とだけ返ってきていた。
部屋に戻ると宮崎はぼーっとベッドに背を凭れ座っていた。思考を一切排除でもしているかのように呆けていた。ただ疲れているだけなら良いけれど、きっとそんなことは無い。外傷だけでなく精神的にもかなり傷ついたことだろう。
ニット帽とマスクを外しているのだけはホッとした。多少なりとも寛ごうと、その場に落ち着こうと思っている証拠なのではないかと思うから。
買ってきた袋の中から医薬品を取り出して手当てをした。手当てをしたことなんて無いが、して貰ったことはある。中学の時にボコられ放置してたら翌日登校した際に担任に「保健室行け!」と怒鳴られ、保健室の先生に手当てをしてもらった。
記憶を探り見様見真似で顔と腕の手当てをした。首に包帯を巻こうとして加減が難しくて諦め、湿布だけにした。
「……彼氏に一方的にされたのか?」
「……うん」
「反抗は全く?」
「……出来ない」
「……股間くらい、蹴りあげてやれ」
「……考えとく」
笑って欲しかったけれど、そんな気分や状態では無いらしい。無理に笑わせるようなことはしない方が良いのだろうか。
「福島、大学は?午後からでしょ」
諦めた包帯をくるくると巻き直して仕舞おうしていたら宮崎に言われ、大学の授業があることを思い出した。すっかり忘れていた。
「ああ……まあ、今日は行かなくても」
授業は結構真面目に出席している。なので一日欠席したところで支障はないだろう。後で友人に聞けばどうにかなる。
それに、宮崎を一人にするのが少し怖かった。側にいて見ていないと不安だと思うくらいに、ぼーっとしている。
「行ってきて。私は大丈夫だから」
「お前の大丈夫は信用できないって」
さっきだって震えながら大丈夫と言っていたんだ。
「疲れたから私は寝てるよ。だから、行ってきて」
見られている中寝るのが嫌なのか。そう言われてしまえば行くしかない。行くならもう家を出なければ授業が始まってしまう。
「……分かった。他にも手当てするとこがあるならしておけよ。食いもんは買ってきたやつ好きに食べて」
さすがに腹や背中は服を脱がないと手当てが出来ない。まあ、背中は宮崎自身も出来ないだろうが、俺がするのも気が引けてしまう。脱げとも言えないので背中以外は自分でやって貰うしかない。
「……はい」
「授業が終わったら戻ってくるからな。多分、六時位かな」
「バイトは?」
「今日は定休日だから休み」
買ってきた袋から携帯食を取り出して鞄を掴み慌ただしく部屋を出た。
今後どうするかはまた帰ってきたら宮崎と話そう。まともに先のことを考えれる状態では無いのかもしれないが。
そんなことを考えながら携帯食を開けて食いながら早足で歩いた。
(昼飯、足らねーかな……)
男の一人暮らし、食事が適当になるのはしょっちゅうだ。が、しかし、今日からは宮崎がいるからそればかりでは不味いだろう。
(晩、どうしよう)
食事に迷い、何にしようか困る日が来るとは。世の中の家庭の食事を管理する人はこんな気持ちなのか。
俺の母親も、こんな思いをしているのだろうか。義父や弟に出す食事に迷っているのか。
昔、まだ両親が離婚する前も、そうだっただろうか……。
授業が終わり、友人とのいつものくだらない雑談を躱して急いで帰った。
扉を開けて目に入ったのは、真っ暗な部屋だった。取り敢えず部屋の電気をつけると、出掛ける時とほぼ同じ場所でほぼ同じ姿勢をしている宮崎の姿が現れた。
「あ……おかえり」
俺に気がついて振り向き言った。
「……ただいま」
冬の六時はもう真っ暗だ。電気もつけずに暗くて静かな部屋にポツンと座っていたようだ。
ずっとこうしていたのだろうか。
「晩飯、何食いたい?」
こんな状態の宮崎に何を言っていいのか分からず、そんな言葉しか出てこなかった。
「食欲無い。福島は、福島の食べたい物食べてよ」
何となくそうだろうとは思った。昼だって食欲が無いと言っていたし、パッと見、テーブルに水のペットボトルが置かれているだけで、何かを食べた感じはしない。
無理矢理何かを口にさせた方が良いのか。
今日位は宮崎の言う通りにして、そっとしておくべきか。
思いきって外に連れ出して外食してみるか……。
医者じゃないからこういう時どうしたら良いか分からない。
突っ立ってるのも変か、と思って部屋に入って鞄を置き、カーテンを閉めた。窓からの冷気が遮断されたからか暑いなと感じて上着も脱いだ。いつもならベッドに放り投げてしまうところだけど、いや駄目だなと思い、クローゼットに仕舞うのも昼間に適当に片付けた物が入っているので開けるのを躊躇われ、デスクチェアの背に掛けた。
(飯か……)
チラリと宮崎を見る。先週会った時よりやつれた気がする。まともに食事をとっていなかったのかもしれない。食べられなかったのかもしれない。無理矢理食べさせても体が受け付けないかもしれない。
病人食みたいなのを食べさせた方が良いのかもしれない。ゼリーとかフルーツとかお粥とかうどんとか……。
料理は無理だ。苦手だ。……明日、また買ってこよう。
昼間にドラッグストアで買ってきたものが入っている袋を漁る。面倒だからパンでいいや。手に取ったパンをテーブルにポンと置いた。
「宮崎、ホットの珈琲飲むか?」
「え……あ、うん」
要らないと言われるだろうなと思ったけれど一応聞いてみたら、まさかの「うん」だった。不意を突いたから思わずそう答えてしまったのだろうか。それとも珈琲が好きなのか。
キッチンに行ってやかんに水を入れて火にかける。
マグカップを取り出して何となく一度洗った。拭いてからスティックタイプのカフェオレを入れ、沸いたお湯を注いだ。
作ったものを宮崎の前のテーブルの上に置いた。
「……カフェオレ?」
何気なく聞かれた。
「あ……ブラックが良かったか?」
そう言えば珈琲としか言わなかった。好みを全く聞かなかった。しかし家にあるのはこれだけだ。
「悪い、甘い方が好きでこれしか無い。明日買ってくる」
「ああ、ごめん。カフェオレ好きだから大丈夫だよ。ありがとう」
マグカップを両手で持ってフーフーと息を吹き掛け、口をつける。
「……美味しい。あったかいね」
昼間にこの部屋に入ってから帽子とマスクは外したが、上着は着たままだ。エアコンをつけていて部屋は暖かいのに、宮崎は寒かったのだろうか。まともな食事を取らず、あまり動くことも無く、血行不良で体が冷えてしまっていたのかもしれない。日に焼けていない肌は青白いほどだ。
温かい飲み物をちびちびと飲み、少し宮崎の頬に赤みがさした。
「福島、甘いの好きなんだね」
ふと、宮崎から話し掛けられる。
「珈琲は甘くしないと飲めない」
「意外」
「宮崎は?」
「その時の気分かな。ブラックも飲むし、カフェオレも飲むし、蜂蜜入れたい時もある」
「へえ」
宮崎とは小学校で出会い、中学も同じだった。そしてまた今こうして目の前に居るけれど、そんなに会話をしてきた訳では無い。同じ時間を共有したのはほんの少し。宮崎について知っていることなんてほんの一握り。宮崎の好みなんて全く知らない。
同棲をしていた彼氏なら沢山知っているのだろう。俺の方が先に出会っているのに、彼氏の方が俺の知らない宮崎を知っているだろう。
一度も会ったことが無い相手が常に宮崎の背後に立ち、抱き締めて離さないでいるように見えてしまう。
……これは、嫉妬なのだろうか。
適当な食事を終えて明日提出の課題をこなし、風呂に入るかどうするかの話をして、結局俺は朝シャワーを浴び、宮崎は俺が出掛けたら使用するという話に落ち着いた。
そして、じゃあ寝るかという時。
「ダメダメ。福島がこっち」
「いやいや。宮崎がこっち使え」
「悪いから」
「俺もだって」
とちらがベッドで寝るかで揉めた。揉めたと言っていいのか分からないが、奪い合いではなく譲り合いだ。
「福島の家だし」
「宮崎は客だし」
客という表現で合っているか疑問ではあるが。
男友達なら床で寝ろとも言えるが、女性に、しかも体が弱っている状態の宮崎に床で寝ろとは言えない。俺の寝覚めが悪い。
「お前、そう言うところ結構頑固だな。良いって言ってんだから素直にベッドで寝ろって。俺はキッチン前で寝るから」
俺の部屋は1Kだ。だけれど玄関とキッチンと洗面の前はそこそこに広さがあり、寝るくらい訳ない。
「キッチン前って、寒いでしょ?福島が風邪引いたら大変。私の方が居候なんだから福島がベッド使ってよ」
「いやいや、お前が風邪引いたらどうすんだよ。俺は別にキッチン前で寝たって風邪なんか引かないって」
「じゃあキッチン前じゃなくても同じ部屋の床でも良いって」
「あのなぁ……そう言う訳にはいないって」
思わず溜め息が出てしまう。
分かっていない。宮崎は分かっていない。
宮崎にとってはそう言うことを平気で言えるくらい俺は害の無い友達かもしれないが、俺は一晩直ぐ近くで寝るなんて耐えられない。
想像するだけでいろいろまずい。
「とにかく!俺は向こうで寝るからな」
無理矢理話を終わらせてしまうことにし、クッションと椅子の背に掛けていた上着を掴んでキッチンに行って扉を閉めた。
一人暮らしなので布団は一つしかない。俺は同棲なんてしたことがないから布団をもうワンセット準備したりしていない。必要性を感じたこともない。男友達が来ても朝までオールか、もしくは雑魚寝だ。元カノとはシングルの狭い布団に一緒に入った。それも数える程だし。
だから、玄関から冷気が漂ってくるキッチン前は少し冷えるが、上着を掛けて寝るしかない。キャンプ用の寝袋でも今度買ってこようかと考えながら床に座った。
そこへさっき閉めた筈の扉が開いた。当然そこには宮崎が立っていた。手には毛布を持って。
「毛布くらい、使って」
「……宮崎が寒いだろ?」
「布団があるから。ベッドは私が使わせてもらうから、これは福島が使ってよ。そのくらい素直に受け入れてよ」
俺は宮崎に何もかもしてやりたくなるし優先してやりたくなるけれど、宮崎はそれ全てを受け入れるのは気が引けてしまうのかもしれない。
それが当たり前のように全てを喜んで受け入れるタイプの女では無い。確かに珈琲の好みも知らない間柄だけれど、それだけは知っている。
自分の為に何かをしてもらうよりも、誰かの為にするタイプだ。
中学の時、俺にからかわれた幼馴染みの為に直談判しに来たり、俺に貸した本を川に落としたと言った時も弁償しろなんて言わずに俺の為に同じ本を図書室で探してくれた。
俺が初めて宮崎に会った小学三年生の時の隣の席でも、教科書を忘れたら見せてくれ、分からない所があれば教えてくれ、鉛筆を削り忘れたら代わりに削ってくれた。とにかく足を怪我した俺の世話を焼いてくれた。
「……ありがとう」
取り敢えず素直に受け取っておく。でなければこの頑固な宮崎とまた押し問答をすることになるだろう。俺が折れるまで。
「私の方こそ、ありがとう。おやすみ」
「……おやすみ」
挨拶をして扉が閉められる。
寝床を簡単に作ってキッチン前の電気を消す。暫くして扉の隙間から溢れていた光も消え、宮崎も部屋の照明を消したのだと分かった。
扉一枚隔てた向こうに感じる気配に、どうしようもなく胸がドキドキとした。
キッチンの小窓から月の明かりが射し込む。それは恨めしいと思う程に目を冴えさせた。ただでさえ眠れないのに。けっして敷布団が無くて床が固いからでは無い。そして寒いからでも無い。
鼓動が少し速い。そして胸がぎゅっと締め付けられるような感覚。寒いどころか暑く感じる。
何なんだろう。経験したことの無いこの身体の反応。
これまで付き合った女と手を繋いだ時もキスした時もセックスした時も、こんな感覚にはならなかった。
扉の向こうで宮崎が寝ていると考えるだけで切なさがある。
本当は、白い肌の痩せてしまった体を抱き締めて眠りたいんだ。