Ⅲ
「毒、ですか?」
白狐に呼び出された司旦は、つい言葉をそのまま鸚鵡返しにした。つ、と背筋が冷たく痺れる。はい、と頷く白狐の表情もさすがに神妙だ。
「昨夜奥向に出された食事に毒が盛られたそうです。幸い、誰も命に関わるような重篤な症状ではないのですが」
顔を顰める。白狐の体調が快方に向かった矢先の出来事だった。
奥向きの食事も、白狐や当主に出される食事も同じ厨で作っているはずだ。さすがに司旦の立場では正邸の厨に出入りすることは出来ないし、膳を運ぶのも別の者に任せている。分かっているのは、昨夜の白狐の食事に何ら異変はなかったということだけだ。
「犯人はまだ分かっていません。しばらくは邸に万全の警戒を敷くことになります」
「承知しました」
「それから、司旦にはやって欲しいことがあります。僕個人の近習であるあなたにこんなことを頼むのは心苦しいのですが……」
毒の知見を生かして、影家お抱えの医者とともに娘たちの様子を見てきてほしい。
白狐の頼みを司旦は不承ながら返事をした。主の身に危機が迫っている以上、その傍を離れたくない──などという逡巡は、嬉しくない方向で解決することとなる。
白狐の言葉に従って奥向に足を踏み入れた司旦は、異民族であることを理由にすげなく追い払われたのである。
「何でも、白狐様が一緒でなければ見知らぬ男とは会いたくないと……」
それは白狐と会うための口実なのではないだろうか、と半ば疑いたくなる条件を渋々飲み、司旦は白狐とともに改めて邸の奥向きを訊ねた。奥向の娘たちのほとんどは食事に毒を盛られた後で、体調は勿論精神的にも極めて不安定になっていると聞く。無理に押し通した方が厄介そうだ。
毒によって体に異変が出たのは合わせて八名いた。奥向の娘たちの半数近くに当たる。全員でないのか、と司旦は首を捻りながら、一人一人を訊ねて話を聞くことにする。
御簾越しに顔を合わせる娘たちは、例外なく狼狽していた。すすり泣いたり、沈鬱な表情をしていたり、中には会話できないほど酷く取り乱している者もいる。それらを慰め、慎重に話を聞いた。
「吐き気、眩暈、腹痛、倦怠感──症状はおおよそ共通しています。昨夜の食事の後すぐに苦痛を訴え始め、連鎖的に倒れたと」
廊下に出て、医者の小声に頷く。幸い一晩経って容態は皆回復に向かっている。逆に言えば、食事を完全に終えた後だったにもかかわらず命に関わるほどではなかった。多少個人差があるのは、食べた量のせいか、或いは体質のせいか。はっきりしない。
奥向は、隅々まで静かな緊迫感が張り詰めている。年末に掛けられた床の艶出し材の酸っぱい匂いが仄かに残っている。一室一室を巡り、最後の娘の室でふと気になることを聞いた。最初に異変を覚えた娘だという。
「堕胎薬が盛られたんです、きっと」
寝所に張られた帳を挟み、娘は泣きながら言う。その言葉を口にするのも恐ろしいといった震え声だった。
「堕胎薬、ですか」
司旦は慎重に繰り返す。娘の影は小さく頷いたように見えた。
「書物で読んだことがあるんです。鬼灯や蛍から作った毒薬は、腹の中の子を殺すことが出来る、と。症状がよく似ています。誰かが自分以外の懐妊を恐れて食事に毒を盛ったに違いありません」
「……」
背後の白狐から視線を感じる。司旦は何となく言葉を選んだ方がいいような気がした。
「確かに鬼灯の根や蛍の幼体には毒がありますね。少量なら問題ないですが、多く摂取すると心筋や子宮を縮めるので体に障ります。心当たりが?」
娘はすすり泣くばかりで、答えようにも要領を得ない。負の感情を刺激することは言うべきではないだろう。聞き取りはほどほどに、「どうぞお大事に」と伝えて室を出る。
「どう思いますか」と白狐は眉を下げて訊ねてきた。「本当に堕胎薬を盛られたんでしょうか?」
「残念ながら、毒を飲んだ際の症状としてはよくあるものばかりです。味に異常はなかったそうですし、特定するのは難しいかもしれません」
司旦は正直に言う。特殊な毒物であれば出所を探り、そこから犯人を特定することも出来るが、この程度の手がかりでは難しい。その毒によって誰かを殺そうとしたのか、堕胎させようとしていたのか、別の目的があったのかもはっきりしない。
「ただ、この場において堕胎薬というのは有力な線ですね。頭に入れておきましょう」
共に並んで白狐の自室へと戻りながら、司旦は顎に指を当てる。
「確か、白狐様の御渡は去年の十一月頃まで続けていたので、二か月というのもそろそろ懐妊が分かる時期ですし」
「懐妊があったのですか?」
「もしも、という話です」
声を低める。背後に付き添っていた医者に目を向けるが、首を横に振っていた。今のところ誰かが妊娠した兆候も噂もない。とはいえ、有り得そうな話だ。
「自分以外の誰かの妊娠が分かれば、他の娘たちは立場を失います。発覚する前に芽を摘んでおく──動機としては充分でしょう」
「司旦は犯人が内輪にいると考えているんですね」
首を横に振る。これだけ考えてみても、結局憶測の域を出ないのだ。
「いえ、外部の者である可能性も捨てきれません。双方の筋から調べた方がいいかと」
「そうですね」
分かりました。そう頷く白狐に司旦は階下に立ち入る許可を申し出る。念のため厨に立ち寄って、昨夜出された食事の残りがあるか確かめたかった。
「食べるおつもりですか?」
白狐は不安そうな顔になる。
「試して分かることは少ないかもしれませんが、今を逃せば実物を見る機会はなくなってしまいますし」
「僕は反対です」白狐は本気で心配そうだった。「死に至らないまでも、体に不調は出ます。分かってわざわざ口に含まなくても」
「どうしても確かめておきたいんです。こういうことが出来るのは、朝廷で俺だけでしょう」
毒の出所や方法、犯人などはどうせ別の者が探すことになる。白狐の父である当主のことを思えば、とっくに然るべき命令が下され、人は動いているだろう。司旦は自分のやるべきことをやるだけだ。
「鬼灯の毒は、よく堕胎薬として使われます。蛍はあまり扱ったことがありません。でも、似たような毒を持った蛙なら触ったことがあります。何か役に立つかも」
そうやって白狐を説得しながら、司旦はふと、蛍とは随分時期外れだなと思う。昨年の夏のことを急に思い出す。蛍、蛍、と繰り返す。
いやまさかな。首を傾げ、もうひと押しして白狐から厨に入る許しをもぎ取った司旦は、普段は近寄らない厨へと向かった。
***
「あれは毒ではありません」
そう報告したときの主の顔が、何だか頭から離れなかった。
司旦と、もう一人の毒見役とともに昨夜の食事の余りを口にしてから丸一日が経過した。両者ともに何ら異変はなく、当然のように犯人が捕まる気配もない。そう、犯人など端からいなかったのだろう。
司旦たちの報告は当初半信半疑で広まったものの、やがて奥向に改めて聞き取りが行われ、おおよそ事実らしいと受け止められた。影家の当主に呼び出された白狐が戻って来るまで大分かかった。そうして、その日の内に奥向の娘たちを全員、一旦元の家に帰すことが決まった。
呆気ない幕切れである。邸は何だか空気が抜けたようで、慌ただしく見送りが行われた翌日の奥向はがらんと空虚な寒さに満ちていた。念のため不審なものを所有する娘がいないか立ち合いに加わった司旦は、ため息交じりに白狐の室へと戻っていく。
「おや」戸を引いて、声が出た。「千伽様、いらっしゃっていたんですね」
「今来たところだ。先日ぶりだな」
昼前である。いつの間に邸に入ったのか、千伽が白狐と向かい合って雑談に興じていた。目的は分かる。件の毒の騒ぎを聞きつけて野次馬をしに来たのだろう。
「真相に気付いた本人がいるのは丁度いい。お前が話せ」
水を向けられ、司旦は白狐の困ったような顔を窺う。話すも何も、大した謎でもなかったのだ。毒などという物騒なものは最初からなかった。それだけだ。
「千伽様、別に面白い話ではないですよ。女たちの一部が心労に中てられて、食事に毒が盛られたと思い込んだだけです」
「本当にそれだけだったのか?」千伽は呆れて笑う。「人騒がせなことだ」
全くだ、と思う。敷地内で毒殺未遂があったとざわついていた者も、当主からの命で内も外も犯人探しに追われていた者も、奥向であらぬ疑いが向けられていた他の娘たちも、さぞ拍子抜けしたことだろう。
最初に苦痛を訴えた娘は、特に神経質だったらしい。抑圧された生活に耐えかねて、虚言を振り撒いてしまった。堕胎薬を初めとする毒に関する物々しい知識を身に着けたのが余計に妄想を悪化させた。不調が広まったのは、集団でよくある錯乱の現象だ。よく考えれば、娘たちの症状はどれも疲労や極度の緊張で見られるものばかりだった。
「正月もずっと邸に留まっていましたから、疲れが溜まっていたのでしょう。しばらく実家で療養せよということで、今朝方、全員帰らせました」
きっと遅かれ早かれこうなっていただろう。引き金が何であれ、妄想が体に支障を出すほど追い詰められていたのならこの先も上手くいくはずがなかった。先日聞き取りした際の、憔悴とすすり泣きに満ちた奥向の空気を思い出せば、そう納得せざるを得ない。
「大掛かりな取り調べにかかる直前だったので、危うく恥をかくところだったと父上は大層お怒りでした」
「だろうな」
白狐の言葉に、千伽は肩を竦める。最初に毒だと言い出したあの娘は、今後御渡が再開されても影家に戻ることはないのだろうなと司旦は思う。白狐は肩を落とした。
「都ではやはり話題になりましたか?」
「暇潰しにはいい種になったさ。話は随分広がったが、事の顛末を知っている者はまだ少ない。まあ、どうせ私は女どもの空騒ぎだと思ったがね」
よくあることさ。そう言う千伽に司旦は口を枉げる。
「分かって冷やかしに来るとはご趣味が悪い」
「何、人が死ななければ全部笑い話さ。悪く思うなよ」
朝廷という物騒な世界を生きてきた千伽らしい物言いだ。対する白狐はさすがに若干気落ちしているのが目に見えて、「お前のせいではないさ」と千伽は肩肘を突く。
「むしろ毒でなかったことを喜ぶべきだな。ああいう騒ぎは後宮でもよくあると聞くし、少し静養すればまた元通りになる。お前もしばらく女のことは考えずに休んだらどうだ」
その慰めの言葉にどれだけの効果があったか分からなかった。千伽は気を紛らわせるよう、話を変える。
「そういえば、元宵節はお前も出掛けるのだろう?」
ええ、と白狐は微かに笑った。「正月休んでばかりだったのに元宵節だけ遊びに出るのは少し心苦しいのですが」
「構うものか。丁度いい、酒でも飲んで楽しく騒げば、いい気晴らしになるだろう」
元宵節は一月十五日の望の日を祝う正月の行事で、十四日から十八日にかけて盛大に祭りが催される。堅苦しい朝廷の儀式というよりは俗っぽく、この日は朝廷から民衆に酒などが下賜され、貴族も都に遊びに出るのが慣習だった。
「あまり籠ってばかりいるのも皆に心配を掛けますし」
飲めや歌えの馬鹿騒ぎに付き合うのがあまり得意でない白狐も、堂々と外を歩ける元宵節は楽しみな行事である。護衛に駆り出される司旦たちには忙しく、気の抜けない数日間でもあるが。
「毎年爆竹の煙で酷い目に遭うので、今年は静かなところから提灯を眺めていたいですね」
「それもまた風情があるな。もし旨い飯が食いたくなったら、花柳街の正面門を潜って二番目の冸横丁に来いよ。いい酒楼を紹介してやる」
「白狐様を変な店に案内しないでくださいね」
咎める司旦に、千伽ははははと笑って立ち上がる。もう行くつもりらしい。「昼餉をご一緒しませんか」という白狐の誘いを断り、「嫁が提灯づくりに精を出しているから顔を出さなきゃいけなくてな。元宵節に会おうぜ」と去っていった。
「提灯づくりですか、なるほど」
元宵節は故事に倣い、祝いの証として地上に無数の提灯を灯す風習がある。朝廷の貴族も贅を凝らした華やかな提灯を幾つも灯し、時に水に浮かべ、空にも飛ばす。特に提灯を彩るのは女たちの役目とされ、家の豊かさを示す機会として千伽の妻も忙しいのだろう。
「白狐様も影家の分の彩色くらいやるでしょう。じきに提灯づくりに呼ばれるのでは?」
「どうせ筆で少し塗る程度ですよ」
白狐は長椅子に凭れ、つまらなそうに言う。ず、と下にずり落ちた頭から白い髪が蛇のように垂れる。「ほとんど別の者が作るんですから」
「それもそうですね」
奥向の娘たちがいなくなってしまったので、今年の影家の提灯づくりを担う者は忙しいかもしれない。心の中で同情しながら、思い出したようにため息をつく。
千伽はああ言ったが、静養を経てあの娘たちがまたこの邸に戻ってきても、また同じことの繰り返しになるのではないだろうか。そんな考えが頭に貼りついている。
白狐がどう考えているのか分からなかったが、負の感情は伝播する。神経の張り詰めた娘たちを相手にして、何か悪い影響がなければいいが、と思う。