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命散るとて、月は冴ゆ  作者: こく
第三話 痾は月食みて
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 年が明けた。

 冬至節の祭日で一晩中外にいた白狐は、疲労の積み重なりもあって案の定体調を崩し、年の瀬から寝込んでしばらく経つ。

 さすがに影家の当主も親心はあったのだろう。年末年始に詰まった祭式のほとんどを免除され、白狐はいつになく静かな新年を過ごしていた。

 冬の間も頻度を落としながら続けていた御渡も途絶えている。奥向の娘たちも正月くらい実家に帰ればいいのに、ほとんどが影家の正邸に残って年を越した。

 もし白狐の気が向いて御渡があればその機会を一度たりとも逃すまいと、いつでも白狐を迎えられるようにしたいということらしい。或いは、邸の外に出ることで不義の疑いをかけられることを恐れているのかもしれない。

 いずれにせよ、近習の与り知らぬことだ。熱が上がったり下がったりする白狐の看病をしながら、司旦もまた不気味なくらい凪いだ日々を送っていた。

 白狐の虚弱な体質は元々母親から継いだもので、不良と小康を繰り返しながらどうにか保っているものの、これからどのように傾くか医者の見立ては曖昧で、あまり前向きになれない。

 司旦に言わせてみれば、白狐の不調の半分は精神的なものに起因している。朝廷で生きていくには、白狐はあまりに図太さや野心を欠いていた。与えられた仕事はそつなくこなすが、目に見えない苦しみをひっそりと心に積み上げ、時折こうしてぽっきり折れたように体調を崩す。いつも微笑みを絶やさない主が裏側に抱えている弱さのようなものを、司旦は何も言わず見守っていた。


「ねえ司旦、お願いがあるんですが」


 病床の白狐が声を掛けてくる。はい、と寝所の前に膝をつくと、痩せた手が紙を手渡してきた。千伽が今朝届けさせた文で、紙面には見事な達筆で新年の祝辞と見舞いの言葉が綴られている。


「今日、これと一緒に千伽が旬の柚子や茶葉を贈ってくれたでしょう? 文を書きたいのですが、どうにも起き上がれそうにありません。僕の代わりに礼を伝えに行ってくれませんか?」


「畏まりました」


 言伝は短かった。代筆するにも書の心得のない司旦には不相応で、そのまま口頭で伝えることにする。

 他の者が見たら意外に思われるだろうか。柚子も茶葉も文面も、体を温めて大事にしろという千伽なりの素朴な気遣いが感じ取れる。常ならば直接顔を出しに来るところ、さしものあの男も正月は忙しいらしい。こちらから出向いても会えるかどうかは微妙だが、会えなければ明日でもいいですよと白狐は力なく微笑んだ。

 一月四日の夜である。この時刻は、どこかの宴席に出ているかもしれない。見当をつけながら、司旦は朧家の正邸へ向かった。

 はあ、と吐いた息が白く凍って立ち昇っていく。邸の外は寒い。一月の都は骨の芯まで冷え込む。

 昼間にしんしんと降った雪は止み、屋根も枯れ木も、版築固めの路も白いものを被って寝静まっていた。じゃり、じゃりと地面を踏む足音だけがやけに大きい。

 駆け足になれば夜の冷気は頬や耳を切り裂くようだった。貼りついた漆黒の空に、青い星が幾つも瞬く。あの空の上では星も凍るのだろうかと司旦は思いを馳せる。


「──……」


 はた、と。脚を止めた。皇城の正門を避けるため、脇道に逸れた先。ふと杉林の遠くに動くものを見たような気がした。

 踝ほどの雪が積もった地面。杉の木が高くそびえ立ち、黒々と空を遮っている。風の音は聞こえない。光もない。ただ静謐な闇が水のように満ちている。

 怪訝に思い、手提げの明かりを掲げた瞬間、路の向こうに佇んでいた細い人影が目に飛び込んで来た。かなり遠目ゆえにはっきりとは見えないが、間違いない。

 冴家の三の姫だ。暗がりに映える白皙は星を灯したようで、髪と首元を彩る瑠璃がきらりと光る。着物の裾は雪が沁みて色が変わり、随分長く外にいたのだと分かった。あのときよりも、髪が少し伸びている。


「あ」


 声を出す暇もない。姫は誰かが来たことを悟って、素早く踵を返して走り去っていった。さ、さ、と小刻みの足音がやがて聞こえなくなる。耳を澄ますと、しん、と無音が染み入る。

 何をしていたのだろう、こんな寂しいところで。夜更けに一人で散歩でもしていたのだろうか。随分遠かったが、こちらの顔に気付いただろうか。いや、それにしてもと司旦は首を捻る。

 あの姫の顔、泣いていたように見えた──気のせいだろうか。

 寒さを思い出し、身震いする。司旦は先程姫が立っていた場所まで歩いてみた。小鳥が啄んだような、履物の跡がある。少なくとも幻ではなかったらしい。足跡の青い影は点々と雪に刻まれ、どこかへと続いていた。

 後を追いたい気持ちがないでもないが、朧家に行く用事が済んでいない。それに、自分があの姫に再び会うことは賢明とは思えなかった。

 気を取り直して足を速める。冴省にいるはずの三の姫が何故都にいるのか、少し考えれば大方見当がついた。恒例の挨拶回りにあの姫も駆り出されたのだろう。

 正月は年に一度、懇意にしている貴族家同士で顔見せする習慣がある。女たちも身分の高い女、特に皇后などに新年の挨拶に出向く儀があると聞く。三女というのは大抵重視されない立場だ。わざわざ都に連れてこられた辺り、冴家では余程大切にされているのだろう。

 まあどうでもいいかと思う。自分には関係のないことだ。

 林を抜け、岐路を東へ。通い慣れた朧家の正邸に着く頃には歯の根が合わないほど体が冷えていた。門衛に訊ねれば幸い千伽は邸にいるというので、中に入れてもらう。


「何だ。どこの濡れ鼠かと思えばお前か」


 震えながら千伽の室に通されると、寝椅子に転がった部屋の主はにやりと口角を上げた。


「明けましておめでとうございます、千伽様。今晩は一層冷えますね」


「近習がその様でどうする」かちかち歯を鳴らす司旦に、手前の長火鉢を差して見せる。「ほれ、火に当たれ」


「ありがとうございます」


 掌を火鉢に当てながら息を吐く。強張っていた筋肉が徐々に解れていくのを感じる。一通り温まってから司旦は居住まいを正した。


「贈り物は有難く頂戴しました。心遣いに感謝すると、白狐様から」


 簡潔に伝えれば千伽は表情を曇らす。


「起き上がれないほど悪いのか」


「今日はあまり良くなかったようですね」慎重に言葉を選ぶ。正月に不安を煽るようなことは言いたくなかった。「大きな発作がある訳ではないのですが」


「病床にしてやれることは少ないからなぁ」


 この千伽が、己の無力を嘆くのは新鮮だった。司旦は同意し、医者の診断の内容をぽつぽつと伝える。不確定な予測は省き、なるべく淡々と聞こえるように努力したが、そういったものも千伽は読み取ってしまうのだろう。

 ふむ、と頷いたきり千伽は何かに耽っている。くっきりと墨で引いたような端正な横顔の輪郭が、ゆらゆらと揺れる明かりに浮かんでいた。


「ご苦労だった」


 ちょっとそこで待っていろ。そう言って立ち上がった千伽が別室へ行き、しばらくして戻って来る。途端に目の前にぼふりと何かが被せられ、ぶへ、と声が出た。


「新年の祝いだ。持っていけ」


「これは?」


 頭から剥がして掲げると、上質な毛織物でできた外衣だった。生地の目は細かく織られているが軽い。千伽が寄越したものだから、恐らく足が竦むほど高価な品だろう。裾に入れられた柄は少し女物らしかったが、そこもまた千伽らしい。


「感謝します、千伽様」


「礼はいい。主に気取られ、近習が風邪など引いては笑えんからな」


 思わず司旦は苦笑する。「肝に銘じます」


 自分を疎かにするなと言われたようだった。疲れているのを見透かされたのかもしれない。司旦は再度礼を口にし、朧家の邸を辞する。綿の入った上衣は羽織ると暖かかった。

 帰路につきながら、ふと道すがら冴家の三の姫らしき女を見かけたことを千伽に話すのを忘れたなと思う。既に関心が薄れた夏の一件を千伽はしつこく覚えていたし、朝廷に関わる女のことなら大抵のことは知っていた。何か訊けば分かっただろうが、万一面倒なことになれば対処しきれないのでやはり話題に出さなくて正解だったと思い直す。

 珍しく平穏な新年だ。白狐には出来るだけ静かに過ごしてほしかった。例年の予定がなくなった空白のようなこの時間が、司旦には嵐の前の静けさに思えて仕方がなかった。

 そんな不穏な予感が的中するよう、人日を過ぎたある日、事件が起こることとなる。




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