Ⅰ
残暑の香りが漂う日没。約束通り、涼家の当主が南蛮から仕入れた珍しい蓮を見せてくれると言うので、白狐は千伽とともに涼家の正邸を訪ねた。
千伽の妻の実家である涼家は、当主の酔狂な趣味で様々な動植物を育てている。「人が乗れるほどの馬鹿でかい蓮」もそのひとつで、大きな池にひしめく蓮の浮葉は確かにひとつひとつが異様な大きさをしている。夕刻から朝にかけて咲くという白花を眺めながら、白狐は甘くて冷たい飲み物を楽しんだ。
畏まった席でもない身内だけの集まり。寛いだ空気に身を委ね、親しい客人たちは池の周囲に敷かれた日除けと花茣蓙に集う。硝子の器に饗された氷と果物。夏の名残を惜しむような藍色の夕闇と、仄かに灯された明かりで人々の影が揺れた。
「南国の匂いがするだろう?」
涼家の当主が席を外した後、千伽が話しかけてくる。確かに一帯には濃密な甘さが満ちていた。この蓮は花が開くときに独特な強い香りを発するのだという。酔って寝入った午睡の夢ように、目を瞑れば鬱蒼とした熱帯の森と強い日差しが瞼の裏に浮かぶ。
「海の向こうの陽国の宮廷では、この花が年中咲いているとか」
「きっと壮観な眺めなのでしょうね」
硝子の酒器に口を付けて微笑む。傍らに付いている司旦にも、千伽は目を向けた。
「葉の上に乗ってみるか?」
「遠慮しておきます」司旦は口元を枉げる。「引っ繰り返って落ちては敵いません」
「葉の裏には棘があるらしいぞ。南国の魚は食欲旺盛でな、葉を食われないよう毒を仕込んだ棘が無数に生えているんだとか。見てみたくはないか?」
「そうまでして俺を乗せたいんですか」
声を出さずに笑った。「毒といっても大したことないでしょう」
自然の動植物が持つ毒には様々な種類がある。南国の植物には疎かったが、蓮に毒があるというのは聞いたことがない。千伽の言うことが本当だったとしても、人命に関わるほどのものではないのだろう。
淡くさざめく水面に、異国の蓮が咲いている。池のほとりを点々となぞる明かりが水に映り、きらりきらりと瞬いていた。歓談する客たちからちらと視線を感じたのは、千伽が毒という物騒な言葉を口にしたためか。顔を上げた千伽が、冗談だとでも言うようにそちらに向けて笑ってみせた。
「明日から公務に戻るのだろう? 女どもは首を長くして待っているのだろうな」
千伽が問う。ええ、と答える白狐の声は心なしか沈んでいた。柔らかく慇懃に振る舞う白狐も、幼馴染の前では素直だ。くすくすと笑う千伽の目には揶揄の色が浮かぶ。
「そんな辛気臭い声を出すな。色男が台無しだ」
「馬鹿にしているでしょう?」
「拗ねるなよ」
機嫌を取るようその酒器に酒を注ぐ千伽に、むすりとした表情の白狐。いつもの幼馴染の戯れを聞きながら、司旦は光につられたように顔を上げた。明日から憂鬱なのは司旦も同じだった。
蓮の花の甘美な匂いに包まれる夜。「父上は、僕をご自身と同じ苦労はさせたくないのです」と白狐が嘆いているのを静かに聞き流す。
朝晩の薄ら寒さに秋の気配を感ずる九月の終わり。白狐にとっては忙しく、欝々とした日々が戻ってきた。
儲君たる白狐は次期皇帝候補であると同時に、影家の当主として半人前の扱いを受ける。それは日々皇帝の面前で執り行われる正衙や儀式に父と列席したり、人間関係の繋がりを強める社交の場に出たり、どちらかといえば内向的な白狐には楽しくない仕事が多い。
何より寒くなればまた白狐の体調が崩れる恒例を見越し、秋の間に気乗りしない予定が組み込まれていた。一か月の半分ほどを本家の正邸で過ごし、夜毎に女の寝所に通うのである。
御渡と呼ばれるその慣習は、位の高い貴族の男子に与えられるひとつの婚姻の形だった。一対一の婚姻ではなく、多対一の婚姻。白狐ほどの立場となれば、妻になりたいと望む女など朝廷に巨万といる。正確には影家からの愛顧や恩寵を欲し、また子が産まれて得られる益を見込み、娘や姉妹を是非妻にと差し出してくる貴族は呆れるほど多い。
殺到した縁談話から父である影家の当主が目を掛けた、選りすぐりの良家の娘たち。家柄は言うまでもなく、容姿や礼儀作法、教養まで白狐に釣り合うよう、或いは白狐の気を惹くために磨き抜かれ、正邸の奥向は春の野原のような賑やかさだった。
「父上は、母上の他に女性を娶らなかったので、僕にはそうなって欲しくないのでしょう」
以前白狐はそう語っていた。影家の現当主は妻が一人しかいないので、直系の子は少ない。おまけに白狐もその妹も体が弱いのが悩みの種だった。白狐に掛けられた過剰な期待と重圧はその裏返しだ。
御渡は妊娠の有無が最も重視される。世継ぎは多ければいいという訳ではないが、少ないのも困る。そういう訳で、九月から十月にかけて奥向の娘たちの元に通い始めた主に、司旦は伴として付き従った。
深夜の廊下を、手提げの明かりで照らす。忠犬のように室の出入り口の脇に立って、主が戻るのを待った。
如何なる相手でも、白狐は勤めの後にそのまま女の寝所で夜を明かすことだけはしなかった。暗殺や不測の事態を恐れているというより、一人でゆっくり寝たいのだろう。
やがて寝所から出てきた白狐は明らかに疲れていたので、自室に戻るまでほとんど言葉はない。夜更けの庭を一望できる回廊を抜けながら、足取りの重い主を司旦は気の毒に思った。誰がどう見ても肉体労働に向いている風には見えなかった。
「何か温かいものでもお持ちしましょうか」
自室に戻るなり長椅子に倒れ込んだ白狐に、司旦は問う。散らばった白髪に隠された顔はため息のほか何も言わなかったが、しばらく待つとどうにか「お茶」とだけ答えた。
よく眠れるよう、乾燥させた野薔薇の蕾とともに茶を淹れる。湯を注げば、茶葉と桃色の花弁が色づき、豊かな香りがふわりと広がった。
「はあ」
大きな嘆息。白狐は上体を起こす。長い髪が滝のように流れ、色白の顔には男女の交わりがもたらすあの何とも言えない不潔な気配と倦怠感が漂っていた。司旦はおや、と思う。長椅子に座って茶を啜る白狐の着物の襟元が濡れていることに今気づいた。
「……泣かれました」
「それはそれは」
つい揶揄う口調になると、白狐はじとりと睨んでくる。口を噤んで話の先を促せば、今夜の相手に帰らないでくれと泣きながらせがまれたらしい。白狐は話をぼかしたが、媾いの意味でもせがまれたのだろう。
場合によっては垂涎ものであろう、引く手数多ぶりも、これだけあからさまだとさすがに辟易とする、というのは白狐のげんなりした様子から見てとれた。娘たちの中には本気でこの男に惚れていた者よりも、その子種を欲しがる者が大半を占めている。
そんな思惑を知った上で、白狐はとかく奥向の全員を平等に扱うことに神経を使った。若々しい肉体で誘惑し、器量の良さや特技のあれこれで気を惹く娘たちの甲斐なく、褒めることもしなければ文句をつけることもない。一夜につき一度しか交わらないというのは単に白狐の方の問題でもあるが、子を作る機会に不平等が生じれば、それはいとも容易く不和の種となることを白狐も司旦も承知している。
「子を孕まねば、地方の家に働きに出されるそうです。奉公といえば聞こえはいいですが、要は縁切りですよね」
はあ。呆れともつかない息が洩れた。実際、白狐のもとに集められた娘たちはそうやって追い詰められた末、正式な妻として認められることに命を懸けている。懐妊。ただそれだけのために心身を擦り減らし、怪しげな薬や占術にまで手を出す。
金銀財宝が如く影家に贈られる娘たちの華やかさとは裏腹な、孕まなければ生家から見棄てられるという切羽詰まった生き様にはある種の哀れみがあったが、生殖という面においては家畜のように扱われる白狐も同じようなものである。
「どうにか宥めすかしてきましたが、こういうのが続くのは良くないですね」
「続いているんですか」
白狐は肩を竦めて、空になった茶碗を置く。「寝ます」と言う主にお休みなさいませと返し、司旦は手早く茶器を片付け、明かりを消した。
ふっと時間が途切れたような立体感のない暗闇。司旦は寝所の傍らで不寝番をしながら白狐の寝息を聞く。耳を澄まさねば聞こえないほどの小さな呼吸は、死にかけた動物を思わせた。
夜が更けていく。
儲君にかけられた重荷と交錯する思惑。公人としての責務。今更そんなことを憂う白狐でもないらしい。家の意向に逆らうことなく、仕事のひとつとばかりに毎夜のように御渡に赴いた。