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命散るとて、月は冴ゆ  作者: こく
第二話 花は折りたし
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 門に着くまで女近習に追いつかれるかと思ったが、あるところで足音は途絶えて、陰の差す廊下を司旦は一人で歩いていた。狼藉者をずたずたに引き裂くより、お姫様を慰めるのが先決と考えたのだろう。外に出ると、風と木々の音が現実そのもののように戻って来る。

 邸の中を気にする素振りで困った様子の門衛から馬と護身の道具を返してもらい、司旦は清々しい気持ちで駆け出した。もう二度とこの荘園に来ることはあるまい。

 馬の背に揺られながら、懐の中に渡さず仕舞いだった主の文の存在を感じる。案の定、三の姫が読むことはなかった。これでいいのだという達成感の中に、わざわざ時間をかけて返事を書いた主の労力への申し訳なさが僅かに混じる。

 大方、司旦の予想した通りになった。白狐が文を出すと言い出してから感じていた不安は、あの姫に己の過去を投影していたためだろう。いや、と首を振る。

 あれはどう大目に見ても、俺より酷い。

 周りに甘やかされ、気に食わないものは遠慮なく攻撃してもいいと考えている類の子どもだ。その言い分に多少なりとも正しい論理が含まれていたとしても、あんな態度では誰も聞き入れるまい。なまじ気位が高いので、忠告は頑として拒むし、そもそもあの様子では誰も指摘できないに違いない。

 ひとつはっきりして、司旦は気が晴れていた。白狐はあんな女に関わってはいけない。無論司旦は白狐の自由を尊重し、その人間関係を勝手に束縛するつもりは毛頭なかった。可能な限り主には世界を広く捉えて欲しい。直接は言わずとも、蛍が見たいなどという能天気な願いくらいいくらでも叶えてやる。

 だが、あれは駄目だ。かつて三の姫のようだった自覚のある司旦だからこそ分かる。あの状態の人間は周囲を腐らせるだけだし、性根を叩き直してやる義理もない。ただ、関わりを避けるだけで充分だ。

 どうにも火事を未然に防ぐため先に油を撒いたような矛盾が否めなかったが、白狐に怒られるなら甘んじて受けようと思う。そうして水平線の彼方に沈んだ太陽の名残がほんのりと赤く残る離宮に戻った。


「只今戻りました」


 報告のため室に上がる。翳って黒ずんだ室内に、静謐な佇まいの白狐は石像のように見えた。懐から封の切られていない文を取り出すと、主はすぐ合点がいったらしい。司旦はそれをそのまま主に返す。


「申し訳ありません」


 ぽつり、と謝罪の言葉が洩れる。他に言葉が見当たらなかった。


「どうかそんな顔をしないで」白狐の眼差しは優しい。「何があったか、話してくれますね?」


 促されるまま、司旦は冴家の邸での出来事をありのままに話した。白狐は口を挟まず、黙って最後まで聞いていた。そして、沈黙を経て神妙な面持ちを向ける。


「言い忘れていました、司旦。あなたに任せるとは言いましたが、あなたが傷つくようなやり方は絶対してはならない、と、そう言い添えるべきでした」


 傷つく? 司旦は目を瞬かせるが、白狐の珍しく咎めるような口調に少なくとも怒られているのだと理解する。やはり余計な喧嘩を売っただろうか。俯く司旦の頬に、白い指が伸ばされた。


「これ以上傷がつきようがないほど傷ついたことを、慣れたなんて言わないでくださいね」


「……」


 どうやら白狐は、話の本筋よりも司旦自身のことを心配しているらしい。それはまるで、万一この件が大事になって両家の軋轢を生む事態になったら最悪首でも括ろうというところまで覚悟している司旦の心を見透かしたようで、ぎこちなく頷くのが精一杯だった。

 白狐は、渡されることのなかった文の中身に思いを馳せているのか、それを裏返して弄っている。それから司旦に視線を戻して訊ねた。


「あなたは、あの三の姫のことをどう思いますか」


「つまらない小娘だと思います」


 司旦がそう言っても、白狐は驚いた素振りも見せなかった。


「そう見えますか」


「白狐様はどう思われるんですか」


 不安だったのが、もし白狐が何かの間違いであの姫に色めいた感情を抱いていたら、ということだった。そんなこと間違ってもあってはならないのだが、雲のように掴みどころのない主のこと、女の好みは司旦にはよく分からない。


「分かりません」白狐はおかしそうに目を細めた。「つまらないという評価は間違っていないでしょうね。同感です」


 その割には、随分楽しそうな顔をする。司旦は訊ねた。


「俺は間違えたことをしたでしょうか?」


「……いえ」


 静かに首を横に振る。声音は優しい。「冴家との関係を気にしているならご心配なく。この程度のいざこざ、大したことにはならないでしょう。それに、僕も特別あの姫の気を引きたくてこれを書いた訳ではないのです」


 紙の折り目を指でなぞるようにして、白狐は微笑んだ。


「例え文を渡したところで、本当の意味で心に届くことはなかったでしょう。だから、どうかもう気にしないでください」


 司旦は頷き、夕餉の支度のために室を出て行く。残された白狐は自身の手にある文を傍らに置き、少し迷った末に文机の引き出しに仕舞った。

 実際、冴家の姫との繋がりが断たれたことは少しも惜しいと思わなかった。司旦が先回りせずとも、遅かれ早かれこうなっていただろう。やり方はあまり賛成できなかったが、主の手を煩わせずに片を付けたかった司旦の有能さは評価できる。


 それからの日々は、あっさりと、穏やかに過ぎて行った。

 夏は緩やかに終わりへと近づいていった。目に見えない大きな動物が少しずつ弱っていくように、むっとした暑さや埃っぽい空気の匂い、鮮やかすぎる空と花の色彩が遠のいていく。

 冴家との一件は、さすがに外部に漏れて避暑地の暇人どもの好餌となったらしい。数日経って離宮を訪れた千伽によれば、影家の白狐が文を出した、近習が三の姫をえらく怒らせたという事実に基づいたものから、冴家の三の姫は元々白狐と懇意で、戯れを本気にして件の縁談を踏み倒した挙句、白狐にも振られたとかいうとんでもない脚色をされた話もちらほら聞こえるという。

 しかし、その手の噂は司旦が想定していたよりもずっと早く忘れられた。他人の色恋沙汰は所詮暇潰し、誰しも本気にはしない。

 相手は朏家の許婚をこっぴどく振って世を騒がせた小娘で、影家の儲君と釣り合いが取れるとも思わなかったのだろう。読めない冴家がどう動くか不安はあったが、一度本家からの誘いで夕涼みの宴に出席した際、杞憂は晴れた。好奇の目を向けられることはあれど、冴家側から言及はなくこの件は黙殺された。

 避暑地という狭い地域にいたのも幸いし、都に帰る晩夏の頃にはそんなこともあったかという程度にまで噂は下火になっていた。




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