Ⅲ
日課の華胥を挟み、白狐が手紙を書き上げたのは夕刻になってからだった。
夏は陽が長い。懐に主の文を仕舞い、馬の背から山の斜面を見下ろせば、太陽はまだ地平線間際で燻っている。涼しい風を顔に浴びながら、司旦は冰浬山脈の裾に広がる青い原野と、彼方に見える貧しい耕作地、夕陽に照り映える遠い省都の建物を眺める。
厩舎に寄って馬を借りたのは前回の反省を生かしたためだ。娯楽として荘園で狩りを嗜むために躾けられた葦毛の馬は、司旦が乗るにはやや上品すぎるが、貴族の所有する馬であれば堂々と路を走ることが出来る。手綱を引いて方向転換し、荘園へと向けて走り出す。
太陽はまだ沈まない。
馬を駆り、冴家の邸への二度目の訪問をする。門の前に立っていたのはやはり女性だった。司旦は軽く弾みを付けて馬から降りると、手綱を手にしたまま歩み寄る。
「今日は」
形式通りの挨拶を交わす。門衛の女の白い顔が夕陽の赤に染まり、その無表情が際立った。相手方は主の文通の件を心得ているようで、影家の白狐の名を出しても驚く素振りはない。だからこそ司旦が「真に勝手ながら、三の姫様に文を直接お渡ししたいのですが」と申し出ると、面食らった顔をした。
「姫様に、直接?」
じろりと顔を睨まれる。門衛の小さな顔に明白な拒絶が浮かぶ。「はい」と物怖じせずに言えば、「何故?」と柔和で寒気がするような声で訊ねられた。
「我が主の意向です」
さらりと嘘を吐く。いや、任せると言われたのだから別段嘘ではないか。司旦の慇懃で不遜な物言いに、門前払いはさすがに角が立つと考えたのか、門衛は少し考えた後「ここでお待ちください」と言い残して邸の敷地に入っていった。
これは長くかかるだろうな。馬の鼻息を背に感じながら、残されたもう一人の門衛と話をするでもなく黙って立っていると、随分待たされた後先程の女が近習を連れ立って戻って来るところが見えた。見覚えのある顔だった。
ああ。声が出そうになる。今朝、司旦に手紙を渡しに来た、大柄な女官。あれは三の姫の近習だったらしい。近くで見ても迫力があるその姿は、護衛を任された門衛と並んでも頭ひとつ抜けた体格がある。艶のある短い黒髪や化粧っ気のない顔立ちはおおよそ美人と言って差し支えなかったが、全身から漲る力強さと胸や尻の肉付きのせいで、田畑を耕す水牛じみた逞しさがある。
案の定、相手は立腹していた。そんな女近習の様子をじっくり観察できるほど、司旦の心は冷静だった。
「話は窺いました」それでも、相手は礼儀正しさを崩しはしない。「しかし、残念ながら姫様に直接お会いして頂く訳には参りません。影家の御文は私が責任もってお預かりしますので──」
「何故ですか?」
司旦は、先程の門衛の口調を真似るようにわざと柔らかく、ゆっくりと問う。
「俺が異民族だから?」
そのときの凍った空気をどう形容したものか、司旦以外の全員が絶句した。誰しもが心で思いながら間違っても口に出さなかったことを、どうしてわざわざ。司旦の耳に留めつけられた奴隷生まれの証が、金の残光を弾いている。捻じ曲がった自尊心を満足させながら、司旦は試すように女近習の目を見つめた。
「……」
女近習は何かを言いかけた。唇が震え、苦々しく歪められる。分かっている。ここで司旦をぞんざいに扱えば、影家に、引いては世間にどんな評判となって伝わるか。
無論、朝廷でも司旦を人間扱いしない者は未だに多いし、所詮公的でも何でもないただの些細なやり取りのこと、それほど大きな悪評が立つことはないだろう。しかし、色々なことを天秤にかけたとして、現実に目の前でそう問われたとき正しく対処できるものだろうか?
卑怯だろう。我ながら実に卑劣なやり方だ。こちらの目の奥に挑発的な微笑があるのを見留めた女近習の憤りが、司旦には手に取るように分かった。
「何を仰っているのか」
相手が苦しげに、静かに息をつく。
「姫様が外の者と接触を断つのは、男を厭っていらっしゃることと、慣習に従ってのこと。……それは分かってくださいますね?」
男が未婚の女に予告や仲介なく会うことは、はしたないことだと考えられている。司旦は鼻で笑いたくなるのを堪え、「ならば何の問題もありませんね」と宣う。
「ご存知の通り、俺は異民族の奴隷生まれ。人として扱っていただく価値もない家畜です。男だ女だというのは、後宮の玉無し宦官のように縁のない話でしょう」
あからさまな言い回しをすれば、羞恥か嫌悪か、堪えきれずに門衛の女が袖で顔を隠した。女近習の方はさすがに堂々として赤面する様子はなかったが、露骨に眉を顰める。
「それは屁理屈だ」
「左様ですか」
人を食ったような言い方をしている自覚はある。
「それでは致し方ありません。こちらは持ち帰ることにしましょう。わざわざお手を煩わせたこと、お詫び申し上げます」
それでは。手に絡めた馬の手綱を引っ張って踵を返せば、「待て」と呼び止められる。振り返れば、女近習の険しい表情がそこにあった。厄介な客を追い払えたとばかりに安堵していた門衛は、隣で顔を引き攣らせている。
「何でしょう?」
「……そこまで言うなら、姫様に話を通してやる。付いて来るがいい」
馬鹿だな、と思う。異民族であることを理由に遠慮なく足蹴にすればいいのだ。或いは、異民族の奴隷であろうと一人の男として扱うという寛容さを建前に断ればいい。どちらも出来ない、中途半端に徹底された厳しさに司旦は呆れる。
馬を門衛に預け、女近習の筋肉のついた背を見やった。姿勢は正しく、武人のようにしゃんとしている。不意にそれが振り向いて、司旦の胸に指を突き付けた。
「だが、あまり図に乗るなよ」
もう司旦に対して礼儀正しく振舞う気も失せたらしい。すたすたと門を潜って歩いていく後を追いながら、司旦は口の中で呟く。それはこっちの台詞だよ。
邸の前庭は、寒い地域の植生らしく小ざっぱりとしていた。色とりどりの花を集めた華やかさも、鬱蒼とした暗さもない。ただ色味の少ない夏椿や菊の亜種がささやかに咲いているほか、丁寧に手入れされている木立や径、睡蓮の咲く池に注ぐ清流がある。灌木の陰で何かをしている園丁らしき細い人影も、よく見れば女性だった。
水の音を聞きながら、司旦は馬鹿馬鹿しいなともう一度思う。近習から門衛に至るまで全てが女性らしい。都合のいいものだけに囲まれて生きるのは、さぞ居心地が良かろう。自分の中にそうした捻くれた感情があることを認めながら、司旦はまず目論み通り冴家の三の姫に謁見できるかを考えた。
ここに来るまでに既に怒られても仕方のない物言いを繰り返し、まるで相手の品性を試しているようで失礼ではないかという囁きがないでもない。いや。あの夜、蛍の清流で出会った姫の振る舞いを思い出し、失礼で言えばお互い様だと首を振る。
その覚悟は、邸の中に通され、姫様にまずお伺いを立てるからそこで待っていろと何もない廊下に立たされたときも変わらなかった。入り口で護衛のために隠した武器の一切を没収されて身軽な司旦は、さり気なく廊下の端から端まで観察する。
荘園に立った別邸は木造で、ひっそりした佇まいの割に中は妙にがらんとしていた。必要な家財が持ち去られた後のような、勿論それは比喩だが、貴族の姫君が暮らすには何かが足りない。そんな空洞の中にいるような、広々とした寂しさがある。
部屋は幾つかの棟に分かれ、透廊で繋がれていた。雪の多い季節には二重に戸がつけられるような構造で、見た目よりは頑丈そうだ。左右に設けられた溝に汚れが詰まっていないことを確かめ、警護はどうなっているのだろうかと外に首を伸ばしたとき、背後に人の気配を感じる。
「妙な真似をするな」
振り向けば、女近習が立っていた。腕を組んで仁王立ちする姿。夕陽の差す殺風景な廊下で、彼女は真夏に咲く立葵のようにしゃんとして鮮やかだ。
「ここは女人禁制。疑わしい振る舞いは影家への不信に繋がると心得よ」
「……」
向き直る。女近習は、そこから動く気がなさそうだった。
「幾ら異民族といえど甘く見るかと思ったら大間違いだ。姫様はそういう区別や差別を好まれない。賤しいやり口が通用すると思うな」
「賤しい?」司旦も既に慇懃な話し方を脱ぎ捨てている。「あんたの姫の真似をしてみただけだ」
「真似だと?」
「俺が都合よく異民族であることを振り翳したことと、あんたの姫が都合よく女であることを振り翳したのは、どこが違う? 男のような文を送ってきた癖に、身辺は女ばかりに囲ませて男嫌いとは、実に身勝手だな」
司旦が引っ掛かっていたのは、姫が寄越してきた文の形式だった。この朝廷では、手紙というごく私的な文書にも作法が付き纏う。文の書き方は貴族が必ず身に着けなければならない書の教養のひとつで、男女の文はそれと見分けがつくように折り方が違うのだ。
上辺を短く、下辺を長く折るのが男で、その逆が女、という些細な違いだが、三の姫が寄越した文は明らかに男の形式に倣っていた。まさか知らない訳ではあるまい。
司旦の嘲笑が聞こえたのだろう。傍らの室からがたんと何かを落とすような、或いは叩きつけるような音が響く。一拍置いて、中から声がした。
「真弓、開けなさい」
女近習が無言で戸を引く。司旦の目の前に、三の姫の自室が開かれた。女性の貴族の室は初めて見たが、中央に古典的な柄の帳を巡らせた置畳が敷かれているため、白狐のそれに比べて幾分窮屈な印象があった。三女でありながら父親に愛されている証のように、細々と置かれている調度は妙に真新しい。畳の中央には三の姫その人が脇息から体を離して座している。
「──……」
目が合う。膝を折るつもりはなかった。常ならば白狐の顔を立てるため礼儀作法に則る司旦も、区別や差別を好まないなどという戯言を聞いた後では挑発したい気持ちが勝った。
三の姫はきつく唇を結び、司旦を睨みつけている。あの夜は一瞬しか垣間見えなかった姫の顔は、やはり人形のように美しかったが、幼さも目立つ。顎のあたりで短く切った髪の毛が、彼女の精一杯の虚勢のように見えた。
「あなたに何が分かる」
喉から絞られた声は可憐だった。手元から転がり出た硯には罅が入っている。司旦は首を捻る。
「分かって欲しいのですか」
言葉遣いのためか、突っ立っているためか傍らから女近習の咎める声が聞こえるが、司旦は無視をした。
「そんなことは言っていない」つんと鼻先を逸らす。「あなたには分からないと言っただけ」
女として生まれたことと異民族として生まれたことはフッ極端な不自由という点において一見似通っていたが、三の姫はそこを重ね合わせる気はなさそうだった。しかし司旦は確かに、三の姫の中に押し込められた強烈な鬱憤に過去の己を見た。
「どうせあなたの主も、下らない噂に釣られて冷やかしに来たんでしょう。女が男を袖にしたくらいでいちいち大袈裟なのよ。私は外聞も他人の目もどうでもいいの。蠅みたいに集ってきて、迷惑よ」
「……」
他人の評価などどうでもいいと本心から言っているようには見えなかった。彼女は確かにそうなりたかったのだろう。だが、彼女は有り余る自尊心を棄てきれていなかった。それどころか、ひとつも離すまいとしっかり握り込んで、世間に背を向けて蹲って拗ねているに過ぎない。司旦は主がこの娘に特別な関心を寄せることに首を傾げ、或いは少しがっかりしたりした。
「それは結構です」
眦の強さを緩めない姫を前にすると、利かん気な子どもを相手にしている気分になる。
「念のために言い添えておきますが、俺はあなたに興味があった訳じゃない。例え戯れだろうが冷やかしだろうが、主が誰かに目をかけるのには理由がある。あなたがそれに値するか、この目で確かめたかっただけです」
「それで?」
「今日こうしてお会いできて、あなたには主の文を受け取る価値がないことが分かりました。俺にはそれで充分です」
さすがにこれは女近習共々本気で怒らせたらしい。耳元の怒号を意識の外へ押し出し、司旦は三の姫を見下ろす。色白の頬に怒りが兆し、瞳が燃えていた。今までこんな侮辱は味わったことがないとばかりに言葉を失った様を、司旦は内心で気の毒に思う。
「──出て行って」
ようやく吐いた言葉は激情に歪んでいた。「出て行って。二度と来ないで」
「失礼します」
去り際の挨拶は、嫌味っぽくその場に残った。踵を返し、素早く廊下を立ち去る。そうしなければ、怒り心頭の女近習から殴られかねなかった。実際怒鳴り声とともに後を追ってくる足音は獣のようで、その騒々しさの隙間から三の姫のすすり泣きのような震え声が微かに聞こえた気がした。