Ⅱ
千伽が帰った後、司旦は夕餉の支度の手伝いで退室をした。
さすがに調理に携わることはなくとも、都の正邸にいるときより人手が少ないこともあり、盛り付けから配膳まで自分の目で確かめた方が、毒見するとき幾分楽なのである。
給仕の者とともに出来上がった食事を運ぶと、白狐は文机に向かって何か書き物をしているところだった。内省的な主のこと、珍しくもないので、特に気にせず声を掛ける。
「夕餉の支度が整いました」
「……ああ、はい」
月長石の筆架に筆を置き、白狐は顔を上げた。成人したとき千伽から贈られた書画の道具一式が、ちらりと陰から見える。司旦の目でも分かる如何にも高じきな書具は、白狐の手ずから手入れがされていつもぴかぴかだった。
席に着いた主の前で毒見を済ませ──病身の主を気遣ってか、料理の味付けはどれも薄く頼りない──それから白狐が料理を口に運ぶのを見守る。他の客を交えた畏まった席でなくとも、食事中の白狐は何も喋らない。つつがなく夕餉を終え、片づけを終えた司旦が戻るのを待って白狐が切り出す。
「お願いがあるんですが」
「何でしょう」
「冴家の荘園にこれを届けて欲しいのです。三の姫宛てに」
手渡されたのは、折り畳まれた文だった。上下に折り目がつき、丁寧に細い紐で括られている。結び目が解かれないよう、ぎりぎりの長さ。器用なものだ。司旦は面食らう。
「え? 三の姫に?」
「もう暗くなってしまいましたが、謝罪は早い方がいいと思いまして」
「謝罪?」何の? と疑問が尽きない司旦を尻目に、白狐はどこか楽しそうだった。
「千伽の話を聞いて、少し気が変わりまして……」
白いまつ毛を伏せ気味に、自身の唇を指でなぞっている。
「いえ、初対面なのにろくに挨拶も出来ず、無礼を働いてしまったので、その謝罪です」
白狐様、と思わず呆れた声が出る。そんなものが建前であることは誰が見ても分かる。
「冷やかしは良くないですよ。外聞に関わります」
「ささやかなご挨拶程度の内容です。大丈夫ですよ。読まずに破り捨てられる可能性だって大いに考えられますから」
笑って文を押し付けられ、司旦は肩を落とした。また主の悪いところが出たらしい。子どもの悪戯じみた動機に、最早自分を困らせることを愉しんでいるのではと勘繰りたくなるくらいだ。
「一応、立場ってものがあるでしょう。白狐様が冴家の姫にちょっかいをかけたなんて広まったら、どんな噂になるか……」
「色気のある内容ではありませんよ」白狐は笑って手を振る。「少しはいいでしょう? 退屈していたんです」
多分、昼間に遊び人の幼馴染と話して、自分も何か暇潰しをしたくなったのだろう。全く、昨日は蛍で、今日は手紙。ぶつぶつと愚痴を羅列しながら、司旦は仕方なく文を懐に仕舞う。
確かに白狐の言う通り、あの高飛車な姫がこちらの謝意などまるで相手にしない可能性もあった。というより、考え得る限りそうなるとしか思えなかった。その場合、直接門前払いを食らうのは白狐ではなく司旦なのだが──引き受けた仕事はやるしかないと飲み込む。
「袖にされても泣かないでくださいよ」
「泣きませんよ」
ころころと無邪気に笑う白狐に最後のため息を残して、司旦は離宮を発つ。
まだ日の名残が地平線を浮かび上がらせている、夏の宵。主の湯汲までには間に合わせようと頭の中で計算しながら、司旦は北にあるという冴家の荘園に向かう。
歩けない距離じゃない、と昼間に千伽が言っていたことを思い出す。あれは所詮、滅多に自分の足では歩かない貴族にとって、という意味だと思っていた。道半ばで司旦は、馬に乗って来るべきだったと後悔をする。
猫の目のように細い月が昇るのを見ながら、薄暗い路を小走りで行く。昨夜の三の姫がどういう道順であの清流まで辿り着いたか定かではないが、手つかずの自然の多いこの冰浬山脈を一人で歩いたとは俄かに信じ難かった。
ああ、何だか気が向かないな。あの姫に関わるのは、良くないことのように思える。道中、文を送ることによって起こり得る様々な事態について司旦はひたすら巡らせた。
そもそも冷やかしで文を書く方が余程無礼ではないかとか、出会い頭に無礼をかましたのはどう見ても三の姫の方で、こちらから謝罪する方が却って嫌味っぽいのではないかとか、様々な心配事が浮かんでは消えていった。
普通の近習であったなら止めただろうか。三の姫がどれだけ機嫌を損ねるかということに然程関心はなく、司旦が憂いていたのは最終的に主に醜聞が立たないかという一点に尽きる。そこまで考えながら、結局言いなりになっている自分が一番白狐を甘やかしているのではないか。
司旦が荘園の中にある邸の門に辿り着いたのは、そろそろ白狐の湯汲の時刻が始まるであろうという頃だった。息を整え、襟元を直す。
「夜分に失礼致します」
袖を合わせて挨拶すると、驚いたことに門衛は女だった。警戒しながら挨拶を返す相手に、取り出した文を託すことにする。
「影家の白狐様より、冴家の三の姫への文を預かって参りました。昨夜の非礼をお詫びしたいとのことです。お渡し頂けますか」
司旦が主の名を出すと、ぎょっとした目が向けられた。当然だろう。こちらは次期皇帝として推された門閥貴族の嫡子。相手にとっては丁重な脅迫である。
「はあ……」
さすがに影家の署名のある文を突き返すことは出来なかったらしい。渋々と受け取った門衛が、今度はこちらの顔に怪訝そうな視線を寄越していることに気がつきながら、「それでは失礼いたします」と再度袖を合わせて踵を返す。
呼び止められることはなかった。当惑した気配を背後に、後はどうにでもなれと帰路につく。
司旦がようやく戻ると、白狐は既に湯汲を終えていた。洗髪などの世話は別の近習に任せたらしい。たかが髪を洗うくらいで、と昔は思ったものだが、長すぎる白狐の髪を洗って油を付けて手入れをするのは重労働に等しい。
「どうでしたか?」
ほわりと湯上りの笑みに、こちらはじわりと汗ばんだ司旦は息をつく。
「別にどうもしません。一応、その場で捨てられるようなことはありませんでした」
実際、あの門衛がきちんと文を姫に渡したか確かめる術はない。どちらでも良かった。そうですか、と白狐は言う。
「司旦も風呂に入ってきなさい。今夜は不寝番から外しますから」
「承知しました」
どうせ白狐も相手からの反応を期待している訳ではないのだろう。振り回されることには慣れている。やれやれ、と司旦は部屋を辞して階下に降りていく。
***
早朝。庭の外から見知らぬ女の影が近付いてきたとき、司旦は花を摘んでいた手を止める。
冴家の三の姫に気紛れな文を寄越してから二日が経っていた。日にちが空いた時点で、返事など来るはずがないと高を括っていた司旦は、想定外の来客に警戒心を隠すのに苦労する。
「……」
目が合うと、女は両袖を合わせて軽く目を伏せた。大柄な体躯で、艶のある黒髪を短く切り揃え、格好からしてどこかの家に仕える女官だろうと察せられる。
「影家の白狐様に」
素っ気ない一言とともに渡された紙に目を落とすと、女官は既に踵を返して去っていくところだった。繊細な紙の手触り。そよ風が吹く。首を捻るが、何も言うことはない。
朝露に濡れた花切り狭を置いて、文の匂いを嗅ぐ。上質な薄水色の紙と、仄かな香の煙の名残。毒が仕込まれている感じはしない。裏表を返し、振って日に透かして、不審な点がないことを一通り確かめる。
表に返し、首を捻った。上下に折り目がついた文は、先日主が送ったものと同じ形式。懐に仕舞い、花の笊を抱え、司旦は主が手と顔をすすぐための清水を汲みに行った。
摘んできた糊空木の花を小さく千切って水盤に浮かべ、白狐が目覚めるのを待つ。その間、文を白狐に渡さない方がいいのではないかという考えが一瞬でも過らなかったかと言えば嘘になる。
しかし、結局のところ特別悪意のあるものでなければ渡さない訳にはいかない。仕方なく、白狐が身支度を終えるのを待って、朝餉の前に懐から文を取り出した。
「あの、白狐様」
「ん、誰からですか?」
一拍置いて「冴家からです」と言うと、白狐は一瞬だけ動きを止める。それから文を受け取り、しばらく考えるような顔をした後、紐を切って丁寧に開いた。格式ばった内容でもなさそうだった。
「……」
目線の動きからして、白狐はそれを二回ほど読み返したようだった。司旦はその表情を盗み見たが、意外にもそこから読み取れるものは何もなかった。強張りも、驚きも、微笑もない。ただ柔らかな眼差しを向けている。そうして手元で元通り折り畳んで、紙の端の形を確かめるように指でなぞった。
「司旦」しばらく経って、呼ばれる。「三の姫に返事を書こうと思います」
答えない。いつもなら諾否のいずれも即答する司旦にしては珍しいことだった。白狐に視線を向けられ、司旦は自分自身に戸惑った。
「……白狐様」
押し潰されたような声が出る。言葉が続かない。自分で何を言うべきか分からなかった。
「何か気掛かりなことが?」
頷くでもなく、目を逸らす。「あまり言いたくはないのですが」
「どうぞ、言ってください」
司旦は顔を上げ、主とそこにある文を見比べる。目視で重さを測るように。
「俺は、あの姫に関わるのが良いこととは思えません」
「僕が冷やかしだからですか?」
「それもあります。ただ……」一度息を継いだのは、その先が自分でも少し予測できなかったためだ。「あの姫は、白狐様が関わるに値しないと思うからです」
ひどく無機質な沈黙があった。普通ならば叱責される場面だろうに、白狐は怒らなかった。少し顔を持ち上げ、朝の日差しを遮る垂れ布を見つめる。幾重にもなった絹織物の隙間から、水のような陽光が滴っていた。
なるほど、と主が呟く。手にしていた文を掲げ、光に透かす。そこに何が書いてあったのか、司旦には知り得ない。余計なことを言ったか、少なくとも言い方を誤ったな、という実感があった。
「僕は、あなたを信用しています」
長い静寂の後、白狐は言う。
「司旦、あなたがそう言うのなら、間違いはないのでしょう」
いえ、もしかしたら勘違いかもしれません。今更撤回するのも気が引けたが、司旦はもごもごと弁明する。「何だか自分でも上手く説明がつかないんです」
「なるほど」
白狐はもう一度、鷹揚に言った。司旦の抱える、奇妙な狼狽や焦りを全て包み込むような声だった。
「では、この文を如何にするべきだと思いますか?」
白い紙を見やる。その内容を問いたい好奇心を堪え、司旦は考える。白狐が開示しないということは、自分が触れるべきではないのだ。
「少し考えがあります。白狐様は、その文の返事を書いて欲しいのです」
「ふむ」
「俺がそれを持って、冴家の荘園まで行きます。確かめたいことがあります。勿論、事を荒立てるつもりはないのですが」
司旦は続きを言うため少し喉に力を込める必要があった。「もしかすると、白狐様の文が三の姫に届かないかもしれません」
白狐はゆっくりと頷いた。
「受け取ってもらえないようなことをするかもしれない、と。そういうことですね」
「はい」
「いいでしょう」白狐は即答する。全幅の信頼の証だった。「あなたに任せます。僕は、姫への返事を書けば良いのですね」
助かります。軽く頭を下げると、白狐から頼られている実感の重みがそこに乗っているようで眩暈を覚えた。だが、言い出したからにはやるしかない。多分、司旦にしか確かめようがないことだ。