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命散るとて、月は冴ゆ  作者: こく
第九話 月、真昼に冴ゆ
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 白天宮の廊下を歩く。

 二月の冷気がほんのりと足に絡み付く。逸る気持ちを抑えながら、白狐はさゆが通された客間に向かった。

 あまりばたばたと足音を立てれば、またさゆに顔を顰められてしまうだろう。幾度かこうして逢瀬を重ね、これまで知らなかった彼女の一面に出会うことも増えた。それは、白狐にはこの上なく喜ばしいことだった。

 遠くから、筝を爪弾く音色が聞こえる。雨の滴が落ちるように、流水の囁きのように。音に導かれ、着物の裾を引き摺り、白狐は白木の廊下を静かに歩いていく。

 客間の前には女近習の真弓が立っていた。白狐と目が合うと、一瞬揶揄するような微笑を浮かべた後、澄まし顔に戻る。


「白狐様の御成りございます」


 微笑み返し、挨拶の代わりとした。「さゆは?」と問うと、「奥の縁側に」と丁重に返ってくる。

 筝の音が近い。

 客間に足を踏み入れる。こぢんまりとした室は畳張りで、卓の上に咲き初めの梅が一枝だけ活けられていた。司旦の心配りだろうか。開け放たれた戸の向こうは早春の庭を見渡せ、板張りの縁側に彼女がこちらに背を向けて座っていた。


「……」


 さゆの手元が動き、音色が追う。外の陽光を弾き、筝の表面に施された細工模様が煌めく。先日白狐が職人に一から作らせて贈った品だが、果たしてさゆがこういった即物的な贈り物を喜んでくれるのか見当もつかなかった。

 彼女は物的な幸福も、永遠も信仰しない。冥府の果てまでついてくような、絶対の忠誠もない。それでいいと、白狐は思っている。

 ともあれ、弾いてくれているということは、気に入ったということなのだろう。きっと。

 白狐は途中で脚を止め、演奏するさゆの後ろ姿を眺めた。既に大人の女性としては充分伸びた髪はうなじが見えるくらい高く結われ、無数の真珠で飾られた髪留めで凝った形に括られている。

 畳の間にまで裾を広げた着物は、濃淡のある空の色に、花びらを縫い留めたような銀糸の刺繍が施され、そのひとつひとつに小粒の真珠があしらわれていた。肩にかけられた薄絹を透かし、襟元から下に重ねた下衣の濃紅色が覗く。着物の色彩からほんのりと覗く彼女の白皙は目に沁みるほどで、さゆにしては華やいだ衣裳と髪飾りを見るだけで心を躍らせてしまう自分は、我ながらいじらしい恋をしていると思う。


「いつまで見ているつもり?」


 不意に、さゆがちらりと振り向いた。斜めに構えた視線は呆れたような拗ねたような苛立ちがあって、しかし白狐はそれが戯れであることを知っている。

 口元を押さえ、すみません、あんまり綺麗だったものですから、と言い訳を口にしても、容姿の称賛はさゆの心には中身のない美辞麗句にしか聞こえない。それでも、素直に思ったことは口にしたほうがいいと最近気が付いた。


「寒くはありませんか?」


 隣に腰掛け、顔を覗き込む。相変わらず化粧気のないさゆは、「いいえ」と素っ気なく言って、また筝を爪弾き始める。ぽん、ぽん、と。曲というよりただの音の連続にも、白狐は楽しげに耳を傾けていた。


「ねえ、さゆ」


「……ん」


「音楽は誰のために弾くか、という話をしたのを覚えています?」


 そんなささやかな議論を文の中で持ちかけたのは、もう随分昔のことのように思える。さゆは小さく、ええと答えた。彼女が他愛ない話題も覚えていてくれることが白狐には嬉しかった。


「あのとき貴女は、音楽は自分の心の拠り所だから、自分が楽しめればそれでいいと言っていましたよね。実はあの日から、僕は貴女がどんな楽を奏でるのか想像を巡らせて、いつか聴いてみたいと思っていたんですよ」


「……そう」


 音が途切れ途切れに鳴る。奔るように弦から弾かれる音色が、二月の灰色の庭に転がり落ちていく。白狐はおもむろに手を伸ばし、指で弦の端をなぞった。さゆの手と僅かに触れ合い、目が合う。怪訝そうなさゆの瞳の中に、何とも言えない感情の機微が透けている。

 動きの止まったさゆの左手を掬い、指先に口づけた。さゆの表情が揺らぐ。そうやって彼女に触れたのは数えるほどしかない。しばらく間を置き、ふ、と目に見えない空気の力みが抜ける。


「弾いて欲しいの? 構って欲しいの?」と口を尖らせて焦れた振りをするさゆに、白狐は「どちらも」と笑って、誓うような仕草で彼女の手を自身の額にそっと押し当てた。



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