Ⅱ
「この度はお騒がせしました」
白狐が謝っているのは、近習の司旦と、また影家の正邸に遊びに来ていた千伽である。両者に怒ったようなところはないが、千伽は「全くだ」と笑いながら長椅子で脚を組んだ。
「これでも見つからないように逢引の手助けをするのは骨が折れるからな」
「千伽様、嘘は宜しくないかと」半年前のあの日のことを、司旦は良く覚えている。「さゆ様を白天宮に連れていくことなど楽勝だと仰っていましたが、あれは見栄でしたか?」
「思ったよりも大変だったという話さ」
鼻を鳴らし、千伽は目を細めた。「尤も、苦労した甲斐はあったがね」
あの八月の終わり。生死の境を彷徨った白狐が、さゆと夢のような邂逅を果たしたあの日。事の始まりは、実はその前夜に遡る。
「あの姫はまだ白狐に言い残したことがあるのでは」
懸念と期待を混じり合わせた千伽が、冴家に直接乗り込もうと司旦に言い出した。荒唐無稽なでたらめかと思ったが、千伽は本気だった。この男の決断力と行動力は多少行きすぎたところがあって、司旦は既に眠っていた白狐を置いて、半ば攫われるような形で夜更けの冴家の正邸を訪れたのである。
司旦一人であれば、こんな大胆で無謀なやり方をすることはなかっただろう。慣れたように他人の敷地に侵入する千伽の後を追いながら、司旦はかつて邸から出られなかった少年の白狐をこっそり夜に連れ出して桜を見せたという有名な逸話の主犯がこの男であることを再三噛み締めていた。
案の定、門を通らずに警備の目を掻い潜り、庭から入って来た二人に冴家の一角は騒ぎになりかけたが、さゆの素早い判断のお陰か大事にならずに済んだ。
「一体何なの?」
庭から入って来た司旦を、ひと月ぶりの再会となったさゆはいつもと何も変わらない澄ました表情で迎えた。千伽に関しては初対面だったようだが、そんなことは彼女が怖気づく理由にならない。
「突然押し掛けた無礼は詫びるとも」千伽は申し訳なさの欠片もない声で言う。「だが女に文を書くのは苦手でね。そういうまどろっこしいものではなく、直接面と向かって言って初めて意味を為すんじゃないかと思って、こうしてわざわざ訪ねに来たわけさ」
恐らく、千伽がさゆに言いたかったことはそれでおおよそ全てだったろう。文など介さず面と向かって直接言え、と。その率直な物言いは、意外なことにさゆをそれほど怒らせることはなかった。
「あの男に何か言い残したことはないか?」
「まるで言い残したことがあって欲しいような言い方ね」
さゆは呆れたように息を吐く。それからしばらく考えていたが、「あるわよ」と俯きながら漏らした声には悔しさのようなものが滲んでいた。
そもそも何故文の返事を書かなかったのか。そんな問いはあまりに野暮だろう。司旦は随分後になって知ったが、さゆは白狐からの文を待っていたのだ。あの別れの文が何かの間違いだったか、或いは気が変わって謝罪や弁明をしてくるのを。時には白狐に腹を立て、忘れようと努めたり、必要以上に沈んだりを繰り返しながら。
それはあまりにもありふれた失恋という心情で、司旦には馴染みがなかったが、ただ白狐の身勝手さが思っていた以上にさゆを分かりやすく傷つけたのだということに少し安堵もしていた。
まだこの人は傷つくほどに、主に未練があるのだと。
「しかしな、お前が枢密院に入るというのは都でも知られた話だろう」
千伽は声の調子を僅かに意地悪くする。「巫になる女がいつまでも男に浮ついた気持ちではいられまい?」
「勿論」
さゆは腕を組んだ。
「いつか終わる関係だということはよく理解していた。いえ、そのつもりになっていただけなのかもしれない。そんなのはどうでもいいの。あの人との文通が途切れ、あの人が病気で死にかけていると聞いたとき、私がどう感じたのか、ということが全てだと思うから」
「潔い女だな」
感心しているのか馬鹿にしているのかよく分からない言い方をする千伽に、彼女は華奢な肩を竦めてみせる。「そうでなければ許婚の男の邸に殴り込みになど行かない」
「御尤も」
「──大人げないからやめようかと思ったけど、そういう理由で諦めるのは私らしくないかもね」
そうして、翌日。目が醒めた白狐の傍らにはさゆがいたのである。殴り込みというには幾分穏やかな、お伽噺の結末のような美しい風景の裏に、逢引の手助けをした千伽と司旦がいた。
二人の婚姻が正式に決まるまで、それはそれは大きな苦労と騒動と叱責があったのは言うまでもない。さゆは枢密院で巫になるという話から一転、白狐とともに俗世で生きることにしたことで冴家の内部をまた嵐のようにとっ散らかした。冴家の当主はさぞ胃が痛かっただろうが、最終的に娘を許したのは娘可愛さか、影家の次期当主の妻という肩書に目が眩んだか、詳しいことはよく分からない。
「若者には往々にしてそういうところがある」
結婚の意思が固かったさゆに、当主は最終的にそう呟いたという。やはり娘可愛さかもしれない。だがその娘の向こう見ずとも言える意思を尊重する寛容さは、時に非難されることはあれ、ひとつの美徳とも成り得るのだろう。
どちらかといえば厳格さを美徳としている影家の当主、すなわち白狐の父親を説得し、結婚の許しを乞う方が余程壮絶だった。
あれから白狐と父親は、時に他の親族や家に仕える家臣を交えながら、数え切れないほど話し合いを重ねた。揉めることは誰もが想定していたが、その議論はさほど白熱せず多くの人が冷静で、真っ向から激怒されるよりも数倍恐ろしかったように思える。
さゆへのそれが一時の血迷いでないと分かるや否や白狐への大真面目な説得から始まり、それでも折れないと分かると折衷案が出され、それでも譲る気がなかった白狐は、議論の後半期になって頻繁に父親の元を訪れた。呼び出されることもあったが、白狐が自分から足を運ぶことの方が多かった。
初めてと言ってもいい白狐の父親と慣習への反発は、傍目からは滑稽に見えるほどで、熱に浮かされた若気の至りと嘲笑されたり、さゆを側室に迎えるという折衷案すら蹴った件には朝廷から批判の声すら上がる。白狐はさゆを妻に娶るならそれ以外の女を室に迎える気はないという一点張りで、その強情さを噂で聞いた者たちが好き勝手陰口を叩くのを司旦はうんざりするような気持ちで黙殺した。
実際のところこれは希望を守る戦いで、しかも影家の当主は見かけ通りの敵ではなかった。この父親もまた、かつては同じように戦ったことがあったのだ。そうでなければ門閥貴族の家の当主という座にいながら妻──すなわち白狐の母親にあたる人──が一人という、庶民のような一夫一妻になるはずがない。
こうして両者の話し合いの内容は、司旦が当初想定していたのとはやや違う展開となっていく。司旦はその場に居合わせたことはないが、悩み、決意を固め、相応しい言葉を探す白狐の様子を見る限り、父親はそのやり取りどこか楽しんでいる節があったのではないか、と思う。
それがどんな経緯であれ、息子と真っ向から向き合うというのは影家の当主にとっても初めての経験だったのだろう。子どもは傀儡ではなく、己とは異なる人格を持った、別個の存在である。そんな当然のことを大幅に出遅れながら、影家の当主は認めることになったのだろう。白狐の方は何だか振り切れたような顔をしていた。
半年かけて、年を跨ぎ、遂に白狐とさゆの婚姻は両家に正式に認められた。
希望は痛い。光は眩く、時に痛みを伴う。
そこに至るまで多くのものを傷つけ、白狐とさゆはそれを知っただろう。二人の関係を歓迎する者もいたが、そうでない者も少なくなかった。そう、本来白狐の妻となるべく奥向に集められた娘たちとその家の血縁である。如何なる非難は甘んじて受けると言った白狐に、これまた聞くに堪えないような誹謗中傷と嫌味と薄ら笑いと沈黙の軽蔑が朝廷で飛び交ったが、この件に関して公には沈黙を貫いていた千伽が、そこで初めてごく端的に女たちへの慰めのようなものを口にした。
「幸せになるとも痛みを負うのも本人たちで、それを分かっていないほど奴らは馬鹿じゃない。単に諦めが悪かっただけさ。残念だったな」
そんな千伽は、この怒涛の半年の間に一人の側室を迎えている。互いの身辺が落ち着いた二月、木々の蕾が雪解けに光る季節。今年は一緒に梅が見れそうだと白狐の元を訪ねてきた千伽は、匂いを嗅ぐように目蓋を閉じた。
「いい季節だな」
「ええ、本当に」
「祝言を挙げるのは暖かくなってからだろう? 独り身でいられる最後の春という訳だ」
くすり、と白狐は微笑む。千伽らしい言い方だと思った。
さゆに一途であったことは良いことか、白狐には未だに分からない。他の道も多くあったし、幼馴染のように妻を複数娶っている男を見ても不愉快には感じなかった。貴族の男としての在り方、というのはこの半年嫌というほど議論を戦わせたが、答えは出ない。在るべき道は私たちがこれから作っていけばいい、と文を寄越してくれたさゆの前向きさが白狐には眩しかった。
実は今日これからさゆが白天宮を訪れる予定があって、白狐の機嫌も体調も明らかに良い。二人の仲が公認になったとはいえ、逢瀬には気を遣うし、年末年始は否応なしに忙しく、顔を合わすよりも文のやり取りを通じて近況を報告し合うことの方が多かった。
ふと、千伽が口元を緩めているのに気づき、白狐は顔を上げる。
「良かったな」
「え? 何がです?」
「いや何」ふ、とその口から笑みが零れた。
「実は少しばかり懸念していたことがあったのさ。あのとき、さゆをお前のところに連れて行ったのは野暮なことだったのでは──とな。男と女のことに嘴を挟み込むのは私の趣味ではないし、荒治療というのは名目で、お前がうじうじと悩んでいたのが気に食わなかっただけだったんだよ」
白狐は僅かに片眉を上げる。「あなたがそんなことを気にしていたとは」
「しかし、杞憂だったな。お前の顔を見ていたら安心したよ」
良かったじゃないか。千伽はそう言って腰を上げた。そのときちらりと司旦に目配せをする。お前もそう思うだろう? と。司旦は頷く。異論などあろうはずがない。
「もっとゆっくりしていけばいいのに」
白狐は名残惜しそうに言うが、千伽は喉の奥で笑う。
「逢瀬の邪魔までしようとは思わないさ」
肩をどやされて白狐はよろめいているが、照れ笑いしている顔は幸せそうだった。そのまま帰るのかと思われた千伽は、ふと何かを思い出したように振り返る。間近で目が合った白狐はぱちりと目を瞬かせた。
「言い忘れるところだった。この度の誠めでたきこと、心よりお祝い申し上げる。二人の縁が末永く続きますよう」
「……」
少し呆気にとられたように白狐は黙っていたが、頬を赤らめて相良を崩した。
「──ありがとうございます」
その気恥ずかしげな微笑みは、司旦にも向く。
「司旦も、色々とありがとうございました。改めて言うのも何ですが、二人がいなければこうしていられることもありませんでした。この恩は忘れません」
司旦は肩を竦め、千伽はまた鼻を鳴らしてとっとと踵を返すので、白狐は慌てて後を追った。「そんなことより早く会いに行ってやれよ」と廊下から聞こえる照れ隠しのような千伽の声に、司旦は知らず笑っている。




