Ⅱ
夏の宵は青玉のような紺碧に塗りこめられ、空気は透き通っている。見上げた山々の稜線は薄っすらと白銀を冠し、あの嶮しい嶺の頂は、夏の暑さなど縁のない別世界なのだろうと白狐は思う。
司旦に言われるまま着替えた白狐は、朱色の軽装に真っ白な外衣を羽織り、影家の血縁を象徴とする絹糸のような白い髪を踝まで垂らしていた。しきたりに従って結うことも切ることも滅多にない髪は、透き通るほどの白皙も相俟って精巧な人形のようでもあり、不気味な幽霊のようでもある。
生まれながらに白い髪を持ち、女のように華奢な体つきの白狐はいつも年齢や性別の境目を気まぐれに漂っている。少なくとも司旦にはそう見えた。主の浮世離れした立ち居振る舞いは朝廷でも目を惹き、なよなよしい容姿を指して女狐などと陰口を叩かれることも少なくない。
「司旦、本当にあなた一人で良かったのですか?」
白狐は、自分で行きたいと言い出した癖に暢気な声を出す。蛍狩りの伴についたのは司旦だけだった。要するに白狐の護衛、という立場でもある。自覚があるならしっかりしてくれとため息が出た。
老人紛いの白髪を美しいと思うかは人によるだろうが、それはそれとしてこの暗がりで刺客にでも狙われたら一溜まりもあるまい。実際真っ白な格好をした白狐は、手提げの提灯を手に歩く司旦に連れられ、冥府に向かう亡霊のように目立っていた。
「まあ、大丈夫でしょう。ここは冴家の御膝元ですから」
司旦の言葉に、白狐は合点がいったように頷く。
冴家。この最北の省を治める門閥貴族は古くからひっそりと中立を守り、朝廷の舞台では目立たないものの、ちょっかいをかけてきた相手にはきっちりと痛い目を遭わせることで知られている。
省都の北から東にかけて横たわるこの冰浬山脈の麓を避暑地する貴族の誰もが、ともすれば皇帝でさえも、領主である冴家の顔色を窺っている節があった。能天気に蛍狩りへと出かけた儲君を狙うより、この地で面倒を起こして冴家の不興を買う方が余程厄介である。
「足元に気を付けて」
手を差し伸べると、白狐は如何にも危うい足取りで司旦の先導を頼った。ひやりと、その体温は冷たい。舗装されていない自然の径など滅多に歩かない主のこと、蛍がいそうな水場が存外近くて良かった、と司旦は安堵の息を漏らす。
辺りは背の高い植物に囲まれ、標高の高い冴省にしては珍しいくらい鬱蒼としていた。足元の草を掻き分け、どうにか径と呼べる程度の平坦なところを往く。影家の離宮の庭からは随分離れ、向かう先は暇を持て余した貴族たちが稀に行楽に足を延ばす程度で知られる、ただの自然の山野だった。
徐々に視界が開け、青葉を茂らせる野生のツツジを横目に斜面を登る。司旦には何てことない山道も、白狐は滑稽なほど苦戦した。水の流れる静かな音が聞こえてきて、もうすぐだと悟る。
あ、と白狐の声。風に乗り、目の前を淡い光が過った。一匹の蛍が弱々しく明滅しながら飛んでいる。群れから逸れたのか、じきに死んでしまうのではないか、と思うほど儚い光だった。
「上流に集まっているんでしょう。あと少し登れば着きますよ」
振り向いて声をかける。と、思わず司旦は足を止めた。白狐はぎょっとするほど哀しげな目をして一匹の蛍を見つめていた。それは細い植物の枝に留まり、死期を待つように翅を休めている。
虫の命は短い。泡沫の夢のようなその生き方は、病弱な白狐と重なるところがないでもなかった。顔を上げた白狐と目が合う。「行きましょうか」と微笑む主に、司旦は頷くほかない。
白狐のいない未来など司旦は想像もしたくないが、時折子ども返りしたような我儘を見せるのは自分の行末を何となく感じ取っているためではないか、などと不穏な考えが過る。
やがて辿り着いた水場は、白狐にしては頑張って歩いた方だが、蛍の数は思ったより少なかった。細長い葉を垂らした笹薮の根元を、黒々と濡れた水が這うように流れ、その上を十数匹の蛍が揺蕩っている。川上には小さな段のある滝が白い飛沫を上げ、近付くだけで涼しかった。
「──ああ、綺麗ですね」
息を整えた白狐は、柔らかく目を細める。他の誰かが言えば薄っぺらな世辞も、この人は心から感動しているのだと司旦には分かった。宴席で見る蛍に比べれば華々しさに欠けるものの、ただ自然の赴くまま夏の夜を飛ぶ無数の黄緑色の光は、ひっそりと染み入るような美しさがあった。
清流に幾つもの光が映り、揺らめいている。水の音や虫の声は絶え間なくあるが、それが却って薄暗い静寂を感じさせた。束の間、自分たちを取り巻く煩わしい地位や慣習が消えたように錯覚する。司旦は邪魔にならないように提灯を足元に下ろし、白狐が蛍を眺めている様子をじっと見ていた。
無数の火の粉が舞うような、光の明滅。命の輝き。そういったものをじっと目で追っていると、暗闇が引きのばされ、時間の感覚が失われていく。どれだけそうして立っていたか、司旦は白狐を呼ぶ。そろそろ行きましょう、と。
そうして声を掛けなければ、白狐はずっとそこに立って蛍を目で追っていそうだった。優しいがときに頑なな主は、疲れようが暑かろうが、放っておけばいつまでも同じところでじっとしていたがる。そんな主を現実に連れ戻すのも司旦の役目だが、そうする度に深い森に咲いていた花を摘み取ってしまったような仄かな罪悪感を覚える。
「そうですね。行きましょう」
頷いたものの、白狐が動きだすまでしばらくかかった。どこか休める場所はないか、司旦は周囲を見回す。河畔は涼しく、濁った物音や気配を吸い込んでいた。
空は晴れていて、銀を削ったような星が疎らに散っている。新月の夜で、だからこそその人が現われたとき、不意に隠れていた月が地上に現れたかのように錯覚したのだ。
こんなところに、人がいるはずない──気の緩みを自覚したときには、誰かが向かいの川岸に降り立っていた。
「──」
目を瞠る。刺客か、と背筋を強張らせた司旦でさえ、思わず固まった。
女だった。ひやりと寒気を覚える。真っ先に目についたのは、豪奢な着物に似つかわしくない短い髪の毛だった。男かと紛うほどのそれは、髪の長い女性は美人という価値観が根付いた白狐たちを存分に竦ませた。
顔を上げた一瞬、ちらりと目が合う。美しい、と思ったのは、彼女の素晴らしい色白の肌に目が眩んだためか。遠目から見える小ざっぱりとした目鼻立ちは、余計なものがないという点では好ましいが、何かが足りない。
司旦よりも年下だろう。綻びかけた花に喩えられる、そういう年頃特有の半端さがある。
白い雪になずむような肌も、大人になりかけた柔らかな腰つきも、身勝手に先走るばかりで、まだ美しさが体に馴染んでいない──花というより、娘は薄い刃物のようだった。魅力的ではあるが、瞳には男を委縮させる気迫が宿る。
顎のあたりでざんばらに切った毛先は、そんな彼女の見目を明らかに損ねていた。それが妙にこちらをどぎまぎとさせる。何か言うべきことがあるはずなのに見つからない。そういう沈黙が長く続いた。
ふわり、場違いなほど優雅に一匹の蛍が舞う。水の音。低く震える虫の鳴き声。口を開いたのは娘だった。
「誰」
朝廷で数々の舌戦や機知に富んだ駆け引きに晒されてきた白狐も、さすがにこの一言には面食らっただろう。
男女が目を合わせることすらはしたないとされる慣習も、女が男側に話しかけてはならないという常識も、そしてそもそも初対面の人間にあるべき最低限の礼儀も軽々と飛び越え、その娘は眉を顰めてそう言ったのだ。
誰、と。
「──影家の白狐と申します」
それでもにこやかな笑みを浮かべて名乗る白狐は、どこまでも白狐らしかった。司旦は家柄を明かすことで娘の態度が変わることを少なからず期待したが、白狐にはそんな意図はこれっぽっちもない。その鷹揚さが誇らしく、また憎らしくもある。
「……」
娘は答えなかった。返事すらしなかった。宝石を削ったような青い瞳を逸らし、何かを考えている。
すっと線の通った鼻筋は大人しそうで、物言いたげな唇は紅も引かずに素っ気ない。まだ成人もしていないだろうに、華奢な体に豪勢な着物を着せられ、不格好に重く引き摺る様子はかつての白狐を彷彿とさせた。
「……ふうん」
娘はそう言ったきりだった。呆気にとられた二人を置いてさっさと踵を返し、どこかへと去っていく。露に濡れた草叢をものともせず、男のような足取りで遠ざかる背を何も言えずに見送った。煌びやかな銀の髪飾りが微かに光を弾いたのがちらりと見える。
白狐の笑みが強張る瞬間は、いつも傍にいる司旦でさえ滅多に見られるものではない。そういう意味では、娘の無礼な態度は怒りよりも先に感心してしまうくらい清々しかった。
やがて娘の姿が見えなくなって、川のせせらぎの中に取り残される。先に口を開いたのは司旦だった。
「油断していました。あれが刺客だったら、危なかった」
緊張を解くため、わざと言いたいことの主軸をずらせば、白狐は大らかに笑う。
「まあまあ。結果的に無事だったのだから良いではありませんか」
そうは言ってもですね。言葉を継ごうとすると、主は足元をふらつかせた。咄嗟に腕を支え、司旦は自身の羽織っていた綿の外衣をその場にふわりと敷く。座り込んだ白狐の顔色は悪い。長く立ちすぎたのだろう。
「しかし、随分と高飛車な方でしたね」
白狐は、脈を取られながらも話を続ける。自分のことなどどうでもいいのか、虚勢を張っているのか分かりにくい。
「上等な着物を着ているのに、中身は相当生意気そうな……」僅かに弱った脈を確かめながら司旦は同意した。「どこの家の娘でしょうか」
「さあ……」白狐は首を傾げる。その仕草の方が余程幼気な娘じみていた。「きっと、巫でしょう。あんなに髪が短かったですから」
確かに、女で髪を短く切ることは誰にも嫁がない、つまり後宮に仕えるか、生涯神に仕える意思表示とされる。良家の出でありながら俗世を離れて巫という生き方を選ぶ女も然程珍しくはない。というのも、神に身を捧げるというのは、上流階級の女に許された数少ない人生の選択肢なのである。
政治の世界で女は誰よりも不自由を強いられる傀儡だった。かつて奴隷だった司旦には、そういった狭い人生への憐憫がないでもない。
白狐がくすりと笑うので、ふと顔を上げる。
「ふふ、あなたが誰かを生意気と語るのは何だかおかしいですね」
え、と漏らすと同時に意味を理解し、思わず顔を赤らめた。白狐の目には優しげな揶揄が浮かんでいる。
「出会ったときのあなたも、随分と生意気でしたよ」
「それは……」
司旦は口をぱくぱくとさせる。
「……恥ずかしいので、俺の話は忘れてください」
忘れるものですか。白狐は足に気を遣いながら、如何にも平気そうに立ち上がった。蛍の光を映す瞳が、飛び交う羽音に合わせて光を透かす。
「今日はここに連れてきてくれてありがとうございました、司旦。とても綺麗でした」
「……」
優しい微笑み。司旦は俯き、真っ向から投げて寄越される好意を受け取ることの恥ずかしさを堪える。
「礼には及びません」
さあ、帰りましょう。弱々しい足取りに、いつもの笑み。清らかな水辺でしか生きられない蛍の明滅。主の生き様は、司旦にとって妄信でもなくただ尊い。そう思えるようになったのは、大人になったからだ。
ふと、あの娘の氷のような目付きに、過去の自分を顧みる。彼女が何者かは知らないが、何か名状しがたい鬱憤を抱えているように見えた。それは特別なものではなく、誰しも経験する未熟な若さの証なのだろう。
司旦にとって、娘との出会いはその程度の感慨でしかなかったし、白狐にとっても似たようなものだったに違いない。長く時間を掛けた帰り道、白狐が娘のことを一度でも口に出すことはなかった。
たかが一瞬の非日常として消化されるはずだった娘との邂逅が、やがて二人の運命を変えていくことになる。