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命散るとて、月は冴ゆ  作者: こく
第六話 煙し夏時雨
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「あの姫は、男になりたかったそうです」


「何だ、それは」


「男の真似をするのが()()()の条件だと思っているのです。悲しいことだと思いませんか?」


 千伽は息を吐く。言わんとすることは分かった。だが、所詮は世間知らずの盲言だ。女を見下すことを()()()()だと勘違いしている人間は多い。男だけでなく、女でさえ時折そう思い込む。


「何だか面倒くさい女だな」


 ずけずけした言い方に、枕に頭を預けた白狐が小さく笑う気配がした。同意を示す、ため息のような笑い方だった。


「それでも、何故僕があの姫に惹かれたか分かりますか」


 目を瞑ったままの白狐の顔を覗き込む。やがてゆっくりと瞼が開き、硝子のような瞳が千伽をそっくり映した。千伽はなるほどと呟く。


「恋だな」


「千伽。あなたはいつも簡単に言ってのけますね」


 さすがの白狐も声を出して笑った。肯定も否定もする気になれなかった。


「どうせ文を交わせるのは夏の間だけですよ。それに彼女はもう巫になると決めているのです。来年か再来年になれば、僕と関わることはないでしょう」


「面倒くさい女に惚れたかと思えば、お前も大概面倒くさい」


 付き合っていられないとばかりに千伽は首を横に振る。白狐は顔を背けていた。明確な言葉さえ使わなければそれが存在しないも同然と思っているような沈黙だった。どうかそれ以上は何も言わないで、と。揶揄も忠告も無意味と悟ると、千伽は片足を膝に持ち上げて座り直した。


「もし持論を語ることが許されるならな」そう前置きする。ぴくりとも動かない白狐の肩は、先を促しているようでもあった。


「三の姫とはこの夏限り、とお前が考えているなら別にいいさ。そういう縁もある。だが、無欲を装った生き方がいつまでも出来るとは思えんな」


 男のように振る舞うだけで本当の自由は手に入らないと三の姫が気付いたように。そう付け足された言葉が水のように染みてゆく。それから千伽は独り言のように少し調子を変える。


「お前と三の姫を足して二で割れば丁度良くなりそうなものだが」


 世の中はそう上手く回っていない。そういう例を目の当たりにしている気分だった。生きにくい人間の標本。不名誉な称号を幼馴染に掲げてみて、いや笑い事ではないなと思い直す。

 白狐のゆったりした呼吸の上下を傍に感じる。もう何も言わないつもりだろう。

 ふと千伽は床に置いた筝に手を伸ばし、その長い桐の楽器を慎重に膝に乗せた。重さに傾かないよう脚を広げながら、おもむろに素手で弦を弾く。くぐもった音が手元で響いた。遠い異国に住む動物の鳴き声のようだった。

 千伽は流麗な水を描いた頭の部分を持ち直し、高音、次に低音、人差し指と親指で交互に爪弾く。眠りに落ちそうな白狐を慰めるように、寂しい空間を埋めるように。筝爪のない音は籠っていたが、雨粒を弾く小気味よさもあった。

 瞼を閉じた白狐は、ゆらゆらと重力にも似た眠気に誘われる。被膜の向こうから千伽の筝の音が聞こえた。

 お前には遠く及ばない、と謙遜する幼馴染の奏でる音色は、白狐のそれと同じ楽器とは思えない溌剌とした生気に満ちている。ああ、奏者の手によってこんなにも音楽は変わるのか。椿の花がぽとり、と凋落するように、不意に白狐の意識は微睡みに沈んだ。幾重にも隔たれたどこかで、まだ筝が鳴っている。


 ほんの一瞬、意識を手放したつもりだった。目覚めると千伽はもう隣に居なかった。目を擦り、頭を持ち上げる。眠るつもりはなかったのに、病を患わった生活は否応なしに白狐から体力を奪っていた。

 冷えないよう布団を掛けてくれたのは千伽か、司旦か。今は無人の室を見回し、白狐は再び枕に頭を預けた。手足が重くなったような、冗長な気怠さが体に残っている。

 頭にあったのは、先程千伽と交わしたやり取りのことだった。恋という一字が掻き混ぜられるようぐるぐると廻っている。

 白狐にとって初恋というものはとうの昔、沈黙の内にあやふやになった記憶の断片でしかない。誰であったか、というのは然程問題ではなく、ただ思い出すたびに心に何かが引っ掛かるような感覚を残す、小さなささくれ。恋とはいつもそういうものだ。

 その手の懸想に陥った経験がない訳ではない。雲の上に浮くような甘い夢心地や、焦がれるような気持ちを味わったこともある。季節の花を愛でるような──この喩えはさゆを怒らせるかもしれない──ひとときの愉しみ。時が去れば消えゆく蝶の戯れ。

 影家の奥向に集められた娘たちは、残念ながらそんな恋の相手にすら為り得ない。結婚生活は必ずしも愛や幸福に結びつくものではないという従来の価値観に白狐はおおよそ倣っている。興味がない、とさゆに伝えた通り、白狐は自分の幸福に関心を持たない代わりに、他人の幸せに責任を持つこともしなかった。誰に強いられた訳でもなく、自然とそういう考えになっていたに過ぎないのだが。

 のろのろと寝返りを打ち、白狐は恋と簡単に宣った幼馴染に少し腹を立てたりした。あの姫との関係はそんな大層なものではない、という気持ちと、なるほどその通りかもしれないという気持ちで割れ、不均等な心を持て余す。

 いずれにせよ、千伽が指摘しなければそれが形を為すことはなかったのに、という思考に駆られるのが気に入らない。その一方で、だからどうしたという開き直りもある。

 だからどうした。どうせ夏までの関係だ。都に戻れば互いに文を交わすこともなくなる。例え、万が一にも本当に恋だったとしても、残りのひと月ほどを何事もなくやり過ごす自信が白狐にはあった。

 女を前に、聖人君子ぶるのは確かに不健全かもしれない。無欲で在ろうとしていることは決して嘘ではないものの、事実とも言い切れない。白狐が僅かに懸念していたのは、さゆに対して仄かに感じる罪悪感だった。他の女であればさして気にしなかっただろうが、小さな世界で生きてきたあの姫を相手に誠実さを欠くことは、心の裏を針で刺されたような痛みがある。

 しばらく煩悶としたが、眠気が冷めるにつれ取り留めなく考えることも億劫になった。体を起こしてみると、傍らの筝に先程は気付かなかったものが挟まっていることに気付く。折り畳まれた紙だった。


「……」


 開いて見ると、見慣れた幼馴染の達筆が綴られている。立ち去る前に書置きしていったのだろう。簡素な内容を上から下に読み、小さく顔を顰める。白狐の体を気遣う文面の最後に、余分とも言える一文が付け足されていた。


 ──しかし、三の姫から文の返事があるという時点で、お前も少しは自惚れていいと思うがな。


 千伽、あなたという人は。頭の奥で燻っていた悩みが再び煙を上げ始めたのを感じ、白狐は額を抑える。

 考えたくない。そんなこと、考えたくないのだ。届かないと知りながら空の月に手を伸ばす莫迦がどこにいる。手に入らないのなら初めから(めくら)のままでいたかった。そんなどうしようもない悩みに、振り回されるのは御免だというのに。



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