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命散るとて、月は冴ゆ  作者: こく
第六話 煙し夏時雨
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 廂から滴る雨粒の音を追うよう、筝を爪弾く。弦の上を自由に滑る白狐の指先は踊るようで、動きにつられて微かな衣擦れの音が続いた。

 雨が降ろうと関係ない。どうせ外に出られないのだから、と言った通り、雨続きの夏は日常に何ら影響を及ぼしていない。屋内で、それも一人で楽しめる趣味の多い白狐は、ここしばらく起き上がれる日には何かを思案するよう筝や笛など音楽にばかり興じている。

 その筝は朝廷でも一目置かれる腕前だが、曲ともつかないゆったりした旋律はどこか物悲しい。雪のような髪を曲線の描くまま垂らし、部屋着姿の白狐は病的なくらい精彩を欠いて、それでいて不思議と人の心を惹きつける何かがある。


「よお」


 声を掛けられて初めて白狐は顔を上げる。深い青色に濡れた雨の庭に、幼馴染が佇んでいた。いつの間にそこにいたのか、或いは白狐が自分の世界に浸りすぎていたのか、草を踏む足音も、風のそよめきひとつしない。


「入っていいか?」


 邸に、というより白狐の時間に、という意味である。白狐は微笑んだ。


「どうぞ」


「体調はどうだ?」


 隣にどっかりと腰掛けた千伽と白狐は並んで庭を眺める格好になる。灰色に澱んだ空。長雨に草臥れた草木。雨水を含んだ葉の先端が、ぽたり、ぽたりと透明な滴を落とす。葉陰で小さな鳥が羽を濡らさないように隠れているほか、生き物の気配はない。


「ここしばらくは随分良いです」


「痩せたんじゃないか」


「ふふ。今月の初めは寝込んでいましたからね」


 着物の袖から覗く白い手首は骨のように見える。痛々しそうに一瞬顔を顰めたものの、千伽はそれには触れない。不治の病に対する本人なりの気遣いであることは白狐も分かっている。


「退屈して腐っているのではないかと思ったが、案外そうでもなさそうだな」


 顔を覗き込まれた。実はいい暇潰しがあるのです。そう告げる自分の声がいつも通りであることに安堵した。


「暇潰し?」


「さゆ……冴家の三の姫と文通をしているのですよ」


 僅かに見開かれた千伽の目が、瞬きの後には意味ありげに眇められている。ほう、ほう、と梟のように鳴く声は千伽らしい挑戦的な笑みを含んでいた。骨っぽく美しい指を折り曲げ、肩肘をつく。


「三の姫とな? それはそれは」


 白狐は筝爪を外しながら苦笑した。


「あなたは実に楽しそうな顔をする」


「当然だろう。朝廷でも屈指の美女と文通とはお前も隅に置けない。で? どうやって口説き落とした?」


 どう考えても早計な幼馴染の反応は想定の範囲内だった。


「別に口説いてなんていませんよ」あの強情な娘が男からの甘美な誘いに耳を貸すとは到底思えない。


「じゃあ何だ。ああ、お前の顔に一目惚れという訳か。だとすればあのこましゃくれた姫君も少しは見る目があったという訳かな。結構じゃないか」


「ちょっと」白狐の笑みは苦味を深める。「そういうのではないのですよ。ただの友人としての文通です」


 千伽は鼻の上に小皺を寄せた。文を交わす男女がただの友人なはずがないだろう。そう顔にありありと書いているのが分かる。

 世の中には目ぼしい女がいれば即座に情を交わす仲になってしまう類の男がいて、白狐の知る限り千伽はその筆頭だった。本人の手癖というより、最早そういう天運に近い。千伽は自身の体質を上手く乗りこなしているようだが、経験豊富な癖に男女間の友情には疎いことこの上なかった。


「友人ねぇ」眼差しを傾ける。「あれで絶世の美女になるであろう将来有望な女だぞ。一切の下心がないなんて、いくらお前が言っても疑わしいね」


 白狐は緩く唇を結んだ。彼女の容姿について議論するのは賢明ではなかった。千伽のように女の美しさを装飾品のように愛でるか、或いは色欲に任せて浪費するしか頭にない男がこの世にいる限り、さゆは日に日に増してゆく美貌を長所として認めることはないだろう。

 幼馴染の在り方を非難するつもりはない。男とは往々にしてそういうところがある。白狐は庭に目をやり、慎重に言葉を選んだ。


「下心がないなんて別に言っていませんよ」


 ある、とも言いませんけど。千伽の黒々とした瞳が鏡のように雨粒を映す。ほう、と声に出さずに呟いた。白狐の居心地の悪そうな横顔をじっと見る。


「そういうものか」


「やめてください」


「時折浮かぶ邪な考えを微笑みで濁し、無欲を装う方が私には余程不健全に見える」


「分かっているなら言わないでください、千伽」


 眉を下げ、白狐が本当に困っている表情をしていると分かると千伽は黙った。同時に幼馴染の不器用さを目の当たりにして少し困惑もしていた。

 かなり長い間沈黙が流れる。青葉が雨に打たれて撥ねる、ぱん、ぱぱん、という小さな音が、不規則な鼓動のようにあちこちで鳴っていた。空の光は翳り、そこに太陽があることも疑わしいほど鈍色の雲は分厚い。白狐は手元の筝に張られた弦にそっと手を置く。筝は冷え切っていた。


「馬鹿なことを」


 ようやく千伽が口を開く。熟考の末、やはりそこから出た言葉には棘があったが、優しさもあった。


「聖人君子などこの世にはいるまいよ。少なくともお前はそうではないだろうに」


「出来ればそう在りたいと思うのですが」


「愚かな」顔を顰める。「欲望を穢らわしいものと考えているならそれは間違いだ。希望のない人間は凋むぞ。水の枯れた花のようにな」


 分かっている。白狐は反論しようと口を開くが、力がなくて続かない。欲望を忌み嫌っている訳ではなかった。ただ、それに振り回される方が今の白狐には辛い。


「あの姫もあの姫だ。本気で白狐と良き友になれると思っているなら生娘という病は大したものだな」


「千伽」


「まさか、白狐が私利私欲のない高尚な人間だと頭から信じているのか? だから文を交わすまで心を開いたと?」


 馬鹿な、ともう一度呟き、千伽は思わず片手で顔を覆う。白狐は肩を落とした。幼馴染の言っていることはおおよそ、半分くらいは当たっていた。

 さゆは、白狐を他の我欲に塗れた男とは違うと見込んでいる。直接言われたことはないが、そうした尊敬にも似た感情が文面から滲み出ている。

 あなたはその辺のつまらない男とは違うのね、と。

 だが、それの何がいけないのだろう?


「僕は、自分を偽っている訳ではないのです」


 少なくとも、それだけは幼馴染に分かって欲しかった。彼女のために、或いは彼女の気を惹くために聖人君子ぶりたい訳ではない。


「幸せになることや、自分の人生の行末に興味がないのは、残念ながら本当です。それが誰かの関心を引くなんて思いもよらなかった──」


「幸せ? 何の話だ」


 眉を顰めた千伽に、白狐は年明けの元宵節での出来事を話す。幸福に関する意見の相違。それがどのように収束したかを。途中でだんだん息が続かなくなった白狐は、話が終わる頃には顔が青白くなっていた。


「横になれよ」千伽が気遣う。「何もお前と喧嘩をするつもりはないんだ」


 支えられて寝所に横になると、白狐はしばらく目を閉じていた。透明な目が円い瞼に覆い隠されると、本当に生気を感じさせない人形のようだった。

 微かに呼吸の度に震える白いまつ毛、美しい唇を眺めては、三の姫がこういったありきたりな良いものに対して寛大でいてくれたら良かったのにと千伽は思わずにはいられなかった。そうすれば、話はもっと単純だっただろう。

 寝台の傍らに腰掛けると体が沈み込む。もう眠ってしまったかと思うほど長い間白狐は黙った後、おもむろに口を開いた。


「あの姫は、男になりたかったそうです」




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