Ⅱ
深い海底にいるかのような夜気。雨に洗い清められた空は菫色に澄んでいる。硝子を砕いたような銀河に、満月は夏の草木をくっきりとなぞり、それを踏む度にちらちらと光った。精霊が宿っているかのように。
川べりに佇む三の姫は、目を瞑り、周囲の樹木と一体になっていた。実際は川の音を聴いていたのだろうが、白狐の目にはそう見えた。その周囲を、数匹の蛍の光が明滅していた。
「今晩は」
三の姫はこちらを見る。少し沈黙があった。
「あなた一人?」
感情が窺えない。白狐は手短に、司旦を近くに控えさせている旨を話した。ちらりと気配を窺うが、他に人の姿はない。清流の水が月光を砕いて煌めいている。暗い草叢のどこからか虫の声がする。
三の姫の目は暗闇と月を映していた。水面のように静かに揺れる瞳が白狐に向けられる。
「この一年間、ずっと考えてきた」
何を、とは訊かなかった。彼女がどうして自分とまた関わりを持とうとしたのか、白狐は知っている。
「考えて、ひとつだけ分かったわ。私には必要なものがある」
「ええ」
「一年前、あなたが私に渡さなかった文が読みたい。だからあなたにお願いをしに来た」
白狐は微笑んだ。自分の肩からさらりと髪が零れたのを感じる。着物の懐に手を入れ、折り畳んだ紙を取り出す。それを見て、三の姫は驚いたようだった。そんな顔が出来るのか、とちょっと怯んでしまうような、可愛らしい表情だった。
「きっとそう仰ると思って、持ってきました」
「……そう」
文を手渡す。きちりと紐で結わえた端を指で触れ、三の姫は何かを考えている。白狐は口を開いた。
「実は、それは一年前に渡そうと思っていたものとは違うんです」
「え?」
「書き直しました。あなたの文の返事をするのに、僕も考え直すことがあったので」
目を丸くしていた彼女は、そう、ともう一度小さな声で言った。伏せたまつ毛が上下している。何かを言いあぐねているような、煮え切らない眼差しだった。
「あなたは僕に訊きましたよね。じゃあどうすれば良かったのか、と」
一年前。冷やかしに送った白狐の文に、来るとは思わなかった三の姫からの返事。その内容を思い出し、くすりと眦を緩める。
神経質な細い字で綴られていたのは、じゃあ自分はどうすれば良かったのかと問う、八つ当たりにも似た怒りだった。白狐との対面のことではない。彼女は社会の構造、世の中の理と呼ばれるものにひたすら怒っていた。
それは父親に決められた許婚を振り、勢い任せに巫になると宣言した鬱憤の裏返しであることを白狐も良く理解している。男の庇護が付き纏う人生に失望した三の姫には、階級の頂点にいるはずの白狐がふらふらと司旦を引き連れて遊びに出掛けている様子が無性に苛立たしかったのだろう。
訳もなく当たり散らしたくなるような、目障りな能天気。自分の在り方が、ある面ではそう映ることも白狐は知っている。かつて近習が、大人に虐げられて屈折した思考と抑制の利かない十代の自尊心を持て余していたのを間近で見てきたから。
そして不条理に推し負け、圧迫され、歪んでしまった心の持ち主に対し、白狐は相応しい言葉を持ち得ない。憐憫は相手をより一層惨めにするだけだし、励ましや忠告は無暗に傷つけるだろう。「じゃあどうすれば良かったのか」という三の姫の心の叫びのような問いに、白狐は「自分に言えることは何もない」と正直に、丁寧な文で書いた。
「あなたの目から見れば、僕はさぞ神経を逆撫でするような男なのでしょう。何故力のある立場に居ながら、弱き者がより苦しむこの世を変えようと努力しないのか腹も立つでしょう。それを承知の上で、僕から申し上げることは何もないと書かせていただきました」
「……」
「でも、元宵節であなたと話して少しだけ気が変わりました。僕から申し上げる言葉はありませんが、あなたに共感はします。その意味をどう取っていただいても構いません」
僅かに目を見開く。三の姫が見せた反応はそれだけだった。怒ることも、笑むこともなかった。そもそもこの氷の仮面を被った三の姫がいつ笑うのか白狐には想像もつかないのだが、きっとそれは月に手を伸ばして指で触れるほど、途轍もなく難しいことなのだろう。
「……しかし、元宵節のように、或いは今日のように女性が一人で出歩くのはあまりお勧めしません」
何か言いかけた三の姫に先んじて、白狐は飛び交う蛍を目で追うようにして言う。
「僕でさえ心配性な近習が付いてきます。無力であることは決して恥ではないんですよ」
三の姫は半ば開いた口を閉じる。紅の引いていない、素っ気ない唇だった。
「あなたは誰に対してもそんな口を利くの?」
「それは僕の台詞なのですが……」
「いつも丁寧だけど賢しらで、却って馬鹿にされているような気がするのだけれど」
思わず笑った。「そうかもしれません」と。
「あなたがそう思うのなら、きっとそうなのでしょう。気分を害したのなら謝ります」
それから少しだけ眼差しを真面目に戻す。
「こう言って更に気を悪くしなければ良いのですが、あなたは僕と少し似通ったところがあります。囲われて育ったから外との関わり方が分からない。無力であることが歯痒く、無知である自分を隠したがっている。違いますか?」
三の姫は沈黙したが、おおよそ的を射ているような手応えがあった。他者との関わりを通じた失敗や羞恥は誰しも経験のあることで、ただ箱入りという望まぬ閉鎖は年齢と中身の乖離を起こす。必要以上に。いい歳の癖に、男の癖に、女の癖になどと陰口を叩かれるもどかしさは、当人同士にしか分かり得ない。
「でも、あなたと僕はそれ以外のところがほとんど違っていますね。正反対と言ってもいい」
掌に目を向ける。体温に引かれるふよふよと蛍の光が漂って、遠ざかっていく。
「あなたは何かに為りたがっている。しかし、僕はそうではありません。僕は何にも為りたくないのです」
「……それの、何が悪いの?」
ちらりと眉を顰めた三の姫に、白狐は眉を下げて首を振った。
「どちらも悪くありません。僕からあなたに強いるものは何もないですし」
それに、僕は何が悪で、何が善かについて語るつもりなど更々ないのです。白狐がそう述べたとき、三の姫の中に燻っていた敵愾心の最後の火が消えたように思えた。残されたのはまだ大人になり切らない、直線から逸脱した美しい娘だ。
「……この返事は書くべきなのかしら?」
三の姫は自身の手の封を切っていない文を見て、それから顔を上げた。白狐は笑う。
「どうぞ、お好きに」
それきり、会話はなくなった。柔らかな風が蛍の群れを波打たせる。黄緑の光が優雅な波状を描いて広がった。空も風も水音も、何もかもが透き通っている。夏の草の匂いが、蟋蟀の声が、夏の夜気に溶けてゆく。
「──白狐様」
司旦に呼ばれ、白狐は目が醒めたように目を向けた。いつの間にか控えていたはずの司旦はすぐ後ろで手持ち無沙汰にしていた。そろそろ戻ったほうがいい、ということなのだろう。司旦と視線が合うと、本当に男女の逢引を邪魔したような気まずそうな顔をするのが白狐には可笑しかった。
三の姫は黙って佇んでいる。通り過ぎる蛍が、着物に縫い止められた銀糸を照らし、また遠ざかっていく。白狐は振り返り、「それでは」と言った。
「……」
彼女は静かに頷き、踵を返して立ち去っていく。一歩足の位置を変えると、くらくらと眩暈を覚えた。倒れかけた白狐に、司旦は咄嗟に近寄る。
「ねえ、白狐様」
辺りは静寂に包まれていた。三の姫の姿が消えた後、司旦は曖昧な表情で白狐の顔を覗き込む。
「言っていただければ、俺が代わりに伝えることも出来たでしょう。何故わざわざご自分で?」
白狐は僅かに血色を失った笑顔で、ただ首を振る。きっと司旦もこの感覚は何となく感じ取っているはずだ。
魅力の薄い女である。機知に富んでいる訳でも、人から好かれる器量もない。美しいが、ただそれだけだ。にも拘らず対峙していると不思議と興味深く、共感を掻き立てられる。その感覚を上手く言い表す形容は見つからなかったし、無理に言葉にする必要もないのだろう。
何かの答えを待つような気色の司旦に、白狐は話題を変えた。
「彼女から、文の返事が来ると思いますか?」
「え?」
微妙な顔をする。主の心証を測りかね、かといって期待を持たせるようなことは言いたくない。そういう表情だった。白狐は目を細めて月を仰ぐ。皓々とした満月の暈が、頭上で輝いていた。
「返ってくるか分からない文を待つのって、何だか素敵だと思いません?」
面食らった顔をする司旦に、じゃあ帰りましょうと微笑む、白狐の髪は柔らかな光を帯びている。




