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命散るとて、月は冴ゆ  作者: こく
第四話 火は天焦す
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 げほげほと白狐が咽ている。誰も口を利かなかった。

 街から離れた高台で、司旦は顔や髪に着いた煤を払う。着物の裾が若干焦げたが、幸いどこも怪我はない。無理矢理ここまで連れてきた三の姫も同様だった。

 爆竹を投げ込まれた酒楼は災難だったかもしれないが、元宵節では珍しいことではない。馬鹿騒ぎの末、爆竹で死人が出ることさえあるので多少の怪我くらいは大目に見てくれるだろう。人気のない路を通って逃げたので、この奇妙な顔ぶれを目撃した者もほとんどいないはずだ。

 丘の上は静かだった。あの喧騒と怒号と笑い声が嘘のようだ。真っ暗な空に、ほとんど消えつつある天灯の光がぽつり、ぽつりと揺蕩っている。

 ちらと三の姫の横顔を窺えば、白くなるほどきつく唇を結んで沈黙していた。女近習はどんな言葉をかけたらいいのか躊躇しているようで、姫の無事を確かめてからは何も言わない。


「一体、何があったんですか?」


 咳を落ち着かせた白狐が訊ねる。奇しくも巻き込まれたこちらにはそれを知る権利があるように思われた。


「……」


 重々しい静寂。不貞腐れたように俯く三の姫はまた素っ気なく顔を背けるのかと思ったが、意外にも彼女はゆっくり口を開いた。誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。


「喧嘩を売られたから買っただけ」


 それが強がりであることは誰の目から見ても明らかだ。「酔っ払いに絡まれたのですか?」と問う白狐の声は優しい。


「……金で神職を買ったと言われた」


 そういえば、あの輪の中にいた男が言っていた。天院に金を渡して、巫として悠々自適に暮らす、と。本当なのか? と女近習に横目をやれば、曖昧な表情をしている。


「姫様は断固として反対しているが、御当主の意志が固い」


「父親として、娘に楽をさせようとしているということか」


 どうやら冴家の当主は娘が巫になることを許しはしたものの、いずれ入ることになる天院に献金をして娘に冴家の肩書きを残そうとしているらしい。巫とは身も心も天に捧げた神職。天院に入れば当然血筋や社会の立場を捨てることになるが、時々そうやって金を使って世俗の力を介入させようとする者がいる。

 門閥貴族に生まれながら、突然清貧を美徳とする祈りの世界で生きて行くのは厳しく、額の多少に関わらず賄賂が行き交うのも珍しいことではない。


「父は私のやろうとすることに干渉してくる。自分の将来すらも金で買われるなんて、これ以上惨めなことはない」


「結構じゃないですか」司旦はわざと軽い調子で言う。「貰えるものは貰っておけば」


 何の後ろ盾もなく生きようとする三の姫の在り方は如何にも理想的で、現実味がない。白狐は少し考える素振りを見せ、首を傾げた。気持ちは分かりますが、と前置きをして。


「わざわざ厳しい道を行く必要もないのでは? 天院に貴族が献金することは別に珍しくないですし、娘に苦労をさせたくないという、ひとつの愛の形のように思えますが」


「ふざけているの?」


 ぴしゃりと音がするほどの冷たい声。顔を上げた三の姫は白くなった美しい唇を震わせている。


「男の庇護の下に置かれて、満足して──その居心地の良さを愛だと勘違いして? そんな人生、冗談じゃない」


「……」


 司旦はそのときになってようやく、三の姫が自分に向けていた蔑みの正体を正確に理解した。白狐の下で安穏と生活する自分は、まさに彼女が嫌悪する護られる弱者そのものだったのだろう。

 女は生まれてすぐ父親に仕え、嫁げば夫に仕え、息子が生まれればそれに仕える。常に男に従属する道から外れた巫という神職すら、父親が干渉する。愛情ゆえに。


「……あなたの家での騒動を聞いた。毒殺未遂があったと」


 腕を組んだ三の姫が息を吐く。「結局それは苦痛が生んだ空想で、女たちはそれぞれの家に帰ることになったということも」


「……」


 白狐は黙っている。元宵節では聞きたくない話題だったに違いない。


「あなたは何とも思わなかったの? 苦しんでいる女を見ても、それがよくあることで、珍しくもない、自分には関係ないことだと斬り捨てたの?」


 思わず司旦は顔を顰めた。聞こえようによっては正論に聞こえるかもしれない三の姫の言い分は、その実的外れだ。男が女を搾取する社会の構造をつくったのは白狐ではないし、視野を広くすれば白狐もまた誰かに搾取されている。

 言いたいことが顔に出ていたのだろう。三の姫の凍てついた眼差しに一睨みされた。


「責めているんじゃないの」あなたを責めてもどうにもならないでしょ。三の姫の口調はどこまでも冴え冴えと冷たい。


「どう思ったのか訊いているの。あなたに人の心はないの? それとも他の男と同じように、平凡に、幸せな生き方を望む人を指さして笑うのかしら?」


 挑発的に眇められた三の姫の青い目に、ううん、と白狐は眉を下げる。しばらく視線を空に泳がせ、言葉を探しているのが見てとれた。夜更けの暗がりに、ぽつりと青い満月が取り残されている。


「興味がありません」


 白狐は困ったように言った。「生憎僕は、幸せというものに、興味がないのです」


 付け足された言葉には、幾分申し訳なさのようなものが含まれている。ああ、と司旦は声を出しかける。思い出した、主はこういう男だった、と。


「難しい話だと思います。人によって考え方が違いますから」


 松の木を潜った風が、白狐の髪を音もなく靡かせる。無情なくらい青い暗闇が、一帯に満ちていた。


「奥向の娘たちは気の毒でした。……本当に。でも、誰が不幸で、誰が幸福かなんて、いずれにせよ僕には縁のないことです」


 長い、長い沈黙があった。


「そう」


 三の姫はようやくそう言った。何かを考えあぐねているような、少し息苦しそうな声だった。失望、というより困惑に近い。

 それから随分経って、去り際に彼女は一言だけ疑問を口にした。


「あなたは、幸せになりたいと、望むことさえしない?」


「多分、僕にとっての幸せは地上に用意されていないんです」


 朗らかに微笑む白狐の顔は、見るものを物悲しくさせる。司旦は黙って、やがて三の姫が女近習とともに歩き去っていくのを見守った。

 あの姫には理解できただろうか。この白狐という男が抱えた、深い暗闇を。鼻歌交じりに地獄を歩くような、絶望がもたらす陽気さを。

 自分が幸せになることを諦めると同時に、誰かを幸せにする責任も負わない。そういう生き方を。


「──司旦」


 振り返ると、打って変わって真剣な面持ちの主がいる。ああ、怒られるのだなと肩を落とす。


「先程のやり方は感心しません。危うく怪我をするところだったでしょう。自分を顧みないのはあなたの悪い癖ですよ」


「それは白狐様だって」


 言いかけ、残りの言葉をため息に替える。常ならば甘んじて受けるところを、あの姫に触発されたせいかつい口を滑らせてしまった。白狐は悲しげな目をして、司旦の汚れた頬に指を伸ばす。


「どうか自分を大切にしてください。自分なら傷ついても構わないなんて、間違っても思わないでくださいね」


「……」


 どの口がそれを言うんだよ。司旦は主の手を掴み、冷えた指を握る。

 如何に献身的に白狐に寄り添っても、その孤独を癒すことは難しい。司旦に白狐の立場を変えてやる力はないし、例え無理矢理解放したところで白狐の魂は檻に囚われたままだ。

 普段は見て見ぬ振りをしている虚無感と寂しさが不意に胸を締め付けた。目蓋の裏に三の姫の姿が浮かぶ。自由と無責任を履き違えたあの小娘──白狐に救われ、世間の理不尽に対して不器用に抗う生き方からとうに解放されたはずの司旦は、今その気力が自分にないことが何だか酷く虚しく頼りなかった。


「……そういえば湯円を買い損ねました」


 苦し紛れに話を変えると、白狐は目を細める。「構いませんよ。邸に戻れば食べられるでしょう」


 言い終える前に、白狐は背を枉げて咽る。煙が肺に入ったのが良くなかったらしい。もう戻りましょう、と司旦はその華奢な体を支える。見下ろす街も、心なしか灯火が消えつつある。三の姫を探させた他の護衛の者たちも、そろそろ帰ってくるだろう。

 肩に凭れる白狐の体重を感じながら、司旦はこの人の心が俗世の荒波に揉まれて損なわれたり、不当に傷つけられるのは見過ごせないと考えている自分に気付く。白狐が己の幸せに興味がないのは今に始まったことではないし、司旦もそれをとうに受け入れている。

 しかし、関心がないというのは心を閉ざしたということだ。それは何か間違いを引き起こしてはいないだろうか。あなたには分からない、と言いながらきっと誰かに分かってもらいたがっている冴家の三の姫の滑稽な姿が、頭にこびりついている。

 ああ、やはり。やはりあの姫に関わるべきではなかった。最初に感じた直感の正しさとともに、司旦は三の姫の在り方の中に白狐に欠けている正しさを認めた。


 幸せになろうとして何が悪い? という素朴な問いに、白狐も司旦も答えられない。




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