Ⅰ
元宵節、一月十五日。最も盛大に祝われるこの夜、都の空は澄んでいる。
きんと骨まで染みるような寒さの中、白狐は司旦と、他の護衛の者たちを引き連れて遊びに出掛けた。着込んだ格好に頬をほんのり上気させ、白狐は雪原に咲いた百合のような趣があった。
司旦は笠を被り、この間千伽から貰った上衣を羽織っている。「よく似合っていますね」と白狐はしきりに褒めてくれた。実際裾にぐるりと施された刺繍は司旦の異国的な顔立ちを際立たせて、より華やかに見せている。
どこもかしこも数え切れないほどの金色の提灯が灯されていた。薄紙から透ける暖かな色の光が、風に吹かれると隙間から零れて揺れる。寒空の下、高いところから見下ろせば、幾千もの光が都を明るく彩っている。
地上に落ちた星が一面に燃えているようだ。白い息を吐き、司旦はゆらゆら煌めく黄金の景色を眺める。
都は、碁盤の目のように路や水路が交叉し、どこを見ても人々が楽しげに行き交う。時折弾けるような破裂音とともに十字路で爆竹が鳴らされる。遠くから笑い声が聞こえる。自分がそこにいるように、白狐は柔らかく目を細めていた。
「本当に、街に下りなくてもよろしいのですか?」
護衛の一人が顔を曇らせる。宣言通り白狐は煙を避けるため、風上の高台に腰掛けて都を見下ろすに留めていた。「ええ」と主は瞼を閉じる。
「また肺を悪くしては迷惑が掛かりますし、奥向の件で質問攻めにされるのも避けたいので」
そこまで言って、白狐はふと護衛の顔を覗き込む。
「もしかして、街へ遊びに行きたいのですか? 構いませんよ。僕はここで待っていますから」
子どもを送り出す母親のような口調に、思わず笑い声が広がる。つられて司旦も笑いながら、周囲をちらりと見やった。昼間に少し溶けた雪が、今は凍っている。青白い積雪がなだらかに地面を覆い、そこに松の木の影が落ちていた。
賑やかな街から少し離れたこの丘は、貴族が使う路がある程度で周囲に人気はない。周囲を囲う木々は若干視界が悪いものの、風除けには丁度いい。地面から突き出た岩に敷物を敷いて座った白狐は、影家の邸から眺めるよりもずっと鮮明で明るい都の景色に、純粋に喜んでいるように見えた。
「白狐様、何か食べるものをお持ちしましょうか。酒は?」
司旦が問うと、白狐はああと声を出す。「そういえば千伽が何か言っていませんでしたっけ」
「花柳街の冸横丁にお勧めの店があるそうですね」
「甘い湯円が食べたいです」
「承知しました。探してきます」
司旦は丘を下って使いに出る。湯円ならば元宵節に欠かせない縁起物、千伽の言っていた店は探せなくともどこでも買える。
街中に入ると、そこは雑多で仄かに暖かな空気に満ちていた。泥に汚れた雪が脇に避けられ、舗装路を人々が行き交う。首を伸ばせば、あちらこちらに見知った貴族の顔が見え隠れする。きゃあと甲高い女の声。閃光が弾け、爆竹が立て続けに鳴らされた。もうもうと立ち上る煙に、やはり白狐はここに来なくて正解だと納得する。
首飾りのように吊り下げられた提灯を潜ると、いい匂いが漂っていた。食べ物や酒を出す店の周囲は真昼のように明るい。酔っぱらった男たちとぶつかりそうになるのを避け、薄暗い路地に入って司旦は花柳街へ向かった。
細い水路にも四角や丸の提灯が浮かぶ。どこからか歓声が上がり、頭上を仰ぐと天灯が上げられたところだった。人々の手を離れ、次々と空に浮かび上がる提灯。百、いや二百。まるで魂のような炎の明かりがふわりと舞う。遠目から見れば蛍にも似た光の粒。眩しく目を細めた。あのどこかに朧家や影家が作った提灯も混ざっているのだろう。
「あ、おいそこの人!」
はっと脚を止める。近道をと思って通った裏路地に、人がいるとは思わなかった。
振り返り、げ、と声が出そうになる。それは相手も同じだったようで、歪んだ表情がそこにある。司旦と同じように笠を被った下に、化粧っ気のない気の強そうな女の顔が覗いた。
冴家の近習である。三の姫のところにいた男勝りの女だ。
「……何か用か?」
「お前だと分かっていたら声を掛けなかったさ」
苦々しく向けられた視線の先には、どうやら司旦の上衣がある。
「後ろ姿だけ見て女かと思ったんだ」
「なるほど」
じゃあ用はないな。踵を返そうとすると、「待て」と戻された。肩越しに窺うと、女近習は酷く苦しそうに眉根を寄せている。
「お前にこんなことを訊ねるのは全く本意でないが、致し方がない。どこかで姫様を見なかったか?」
「は?」
「いなくなったんだ。元宵節に出掛けてすぐ」
沈黙があった。天灯の光が傍らの水路を泳いでいる。路地を挟んだ向こうで、ぱちぱちと爆竹の爆ぜる音が響いて司旦は我に返った。
「知るか」
女近習の顔は血の気が引いて、黒髪が頬の辺りに貼りついている。随分長いこと探し回ったのかもしれない。
「いなくなったって、お前のところの姫様は犬か何かか?」
「失礼な。おひとりになるのが好きなだけだ」
「そんなに困るくらいなら首に鎖でも付けておけよ」
俺は昔そうやって飼われていたぜ。余計なことを言いそうになるのを飲み込み、本来の用事を思い出す。白狐が帰りを待っているだろう。早く行かなければ。
「ちょっと待ってくれ」
三度引き留められ、呆れる。「一緒に探せって言うんじゃないだろうな。お断りだ」
「都のことは詳しくないんだ。さっきから同じような場所を歩いている。姫様も迷っていらっしゃるかもしれない」
「じゃあ何で来たんだよ」
「姫様が来たいと言うから」
あのな、と司旦は思わず腰に手を当てて向き直る。
「前から思っていたが、甘やかし過ぎじゃないか?」
目が逸らされた。
司旦は特段、誰かを甘やかすことが悪いとは思わなかった。ただ、やり方によっては相手の根を腐らせることになると知っている。水をやり過ぎて花を枯らすように、良かれと思ってやったことが裏目に出ることなんてザラだ。
女近習は黒い瞳を伏せた。そうしていると仁王立ちしたときの迫力が半減するようだ。
「ままならないことは多い。特に立場の弱い者には」
お前も分かるだろう? 強められた語気には、そんな問いが含まれていた。司旦は目も合わせない。
「朝廷の女は政治の道具だ。駒みたいに使われて棄てられる。女であるというだけで、やることなすこと見向きもされず、出しゃばれば嘲笑される。男のように気ままに振る舞うことすら眉を顰められる始末だ」
「だから、お姫様を哀れむべきだと?」
「そうは言っていない。ただ、理解してもらいたいだけだ」
「分かるよ」司旦は夜空を見上げる。「この世は、ままならないことが多い。男であれ、女であれ。貴族であれ、奴隷であれ」
よく分かる。もう一度繰り返した後、はっきりと言う。
「だからといって、甘やかす理由にはならない」
相手が口を噤んでいるのを感じる。
「俺は異民族の血を引く奴隷で、昔は殺し屋みたいなことをやらされていたんだ。顔が綺麗な奴隷として金持ちに売りつけられ、頃合いを見て相手を毒殺して金品を奪ってくる、そういう汚い商売道具としてな」
過去のことを思い出すと体の芯を素手で握られたような寒気を覚えた。耳に打ち込まれた奴隷の証も、首に繋がれた鎖の感触も、生々しいくらい思い出せる。
「想像できるか? いや、無理だろうな。あんたらみたいな御綺麗な世界で育ったやつには」
「……」
「自分に降りかかる災難を全部他人のせいにして、どいつもこいつも不幸になればいいと呪いながら、何ひとつ思い通りにならない人生が憎くて悔しくて堪らなかった。実際、今でも世の中は不平等で理不尽に溢れていると思うし、憎悪や嫉妬が心から消えたわけじゃない」
花火が上がった。ぱん、という間抜けなくらい陽気な爆発とともに、空に火花が散る。続けて音が鳴り、色とりどりの光が思い思いの形で空を跳梁した。互いの顔が明るく照らされ、それから翳る。
「でも、それでも、生きなければ」呟くように言う。「地団太を踏んでいても仕方がないだろ。生きなきゃいけないんだ」
「……では、姫様は大人しくどこぞの男に嫁いで、幸せになった振りでもしろと?」
「そうは言っていない。俺に姫様の人生にどうこう指図する権利はないし、嫁に行こうと巫になろうと知ったこっちゃない。だが、今のままじゃどんな生き方をしても苦しいだけだ。それはあんたにも分かっているんだろ」
自分に与えられた善いものも悪いものも全部投げ出して、喚いていただけだ。自分の望みを何ひとつ受け入れてくれない世の中を恨み、不寛容なのは己だと気付かなかった。白狐がいなければ、司旦は今でも泥沼の中にいただろう。
人は苦しみを抱えながら生きている。例え与えられた苦しみの大きさが他人と比べてどれほど不公平に見えたとしても、投げ出してはならないのだ。
でも、と女近習が声を出す。「自分より他の誰かがより不幸だったからといって、自分の苦しみが埋もれてなくなる訳ではないだろう」
それは正しい。司旦は頷く。それから突然もぎ取るようにして話題を変えた。
「姫様を探すのを手伝ってやる」
「急になんだ」
「元宵節に辛気臭い顔を見せられちゃ迷惑だ。万一何かあれば後味が悪いし、人助けを断ったとあれば白狐様にも合わせる顔がない」
付いてこい。目線で言って走り出す。一拍置いて後を追ってくる足音。女近習を連れて都の喧騒を浴び、司旦はふと考えてみた。こういうとき、白狐ならばなんと言うだろう、と。
ぽつりと青褪めた満月が空に浮かんでいる。今宵ばかりは月も灯火に主役の座を譲ったらしい。冴え冴えとした月の傍に幾つもの天灯が宙に浮かんで、孤独な光に寄り添うかのようだった。
女近習はこの件を大事にはしたくなったようだが、さすがに司旦の一存だけでは動きにくい。一度白狐の元に戻り、人手を増やして探すことにする。
「わざわざ白狐様のお手を借りなくとも」
女近習は恐縮と迷惑を半々にした声で呟いた。司旦は肩を竦め、白狐や護衛とともに都に降りて行く。「顔が広いので、僕がいた方が人に訊ねやすいでしょう」と微笑む白狐は夏の一件を気にしていないのか忘れた振りをしているのか、とにかく冴家の三の姫を探すことを快諾した。
「妙なことに巻き込まれていれば一大事です。早く見つけましょう」
祝い事で酒を飲んで気の大きくなった者たちは手に負えない。花火も上がり、地上はすっかり宴も酣、結ばれた縄が徐々に解けていくよう秩序が壊れて行く頃合いである。
「冴家の三の姫が行きそうな場所にお心当たりは?」
ふらつく通行人を避けながら、白狐は背後の女近習に訊ねる。店先で屯している数人の視線が、白狐の真っ白な髪を追っている。
「普段は静かなところがお好きですが、都の街を歩くのは何せ初めてで、物珍しいものに惹かれてあちこち歩き回っているかもしれません」
「ではまず東の大市を見に行きましょう。あなたたちは西回りでお願いします」
他の護衛の者たちに言いつけ、白狐たちはその反対を行く。司旦はその傍らで早足になりながら、人目を惹くような場所や珍しい出店の位置を思い浮かべた。
東西にある都の大市は昼も夜もなくいつも人出があるが、今日はその比ではない。下賜された酒はもう配り終え、都の人々の胃袋に収まったのだろう。男も女も赤ら顔で、俚俗なざわめきの中を歩く白狐の姿が一際目立つ。
突然、がしゃん、と何かを床に叩きつける音が横から響いた。砕けた硝子の破片が通りにまで飛び散る。咄嗟に司旦は白狐を狭い路地に押し込め、酒楼らしき店の中の様子を窺う。
「おいおい、そんなにカッカするなよ。事実なんだろう?」
揶揄するような声。酔っ払いの笑い。騒ぎの中心に立つ細い影は肩で息をしている。
「あなたたちに何が分かる!」
この声は。息を飲む。女近習が目を見開いて、ひめさま、と呟いた。間違いない。三の姫だ。
駆け出しかけた女近習の袖を掴んで引き留める。その声が周囲の喧騒に掻き消されたのは幸いだった。何をする、と睨みつける目を受け流し、司旦は素早く考える。
何がどうなってこんな騒ぎになったかは知らないが、醜聞を被りたくないし、奥向の件を経た影家の主の機嫌を一層損ねるような真似は避けたい。相手は酔っぱらいだし、女が一人割り込んだところで余計喜ばせるだけだろう。
視線を走らせ、店先に誰かが置きっぱなしにした爆竹の塊を引っ掴む。真上に吊り下がっていた提灯を引き寄せた途端、白狐に腕を掴まれた。
「司旦、駄目です」
「ご安心を。三の姫に怪我はさせません」
「そうでなくて、あなたが」
硝子のような瞳が間近にある。
「僕が話を付けてきます。穏便に済ませましょう」
あなたが傷つくようなやり方はしてはならない、と以前言われたことを思い出すが、首を振った。白狐があの場に出てきては余りに目立ちすぎる。三の姫と白狐は既に夏の一件で妙な印象がついている。両者が一緒にいるところを見られるのは互いのためにならない。
「これを」
千伽から貰った上衣を脱いで白狐に押し付ける。そして笠を目深に被り、手を振り払って人だかりを押し退けた。
提灯の炎を使って、数十本連なった爆竹の導火線に火を点ける。音が鳴るまで僅かに間がある。顔を見られないように伏せ、人々の脚の隙間から爆竹を投げ込んだ。
「天院に金を渡して、巫として悠々自適に暮らすんだろう。いいご身分だって褒めただけじゃないか」
誰かの嘲るような笑い声が聞こえる。三の姫が反論しかけた声は爆竹の激しい破裂音に掻き消された。店の床をのた打ち回る、無数の赤い火花。どよめきが上がったのを見計らって、司旦は煙と爆発の中に飛び込んでいく。




