古書店の悪魔
薬師寺真奈という女について話そう。
彼女は一応のところは私の妻であるわけだが、彼女のことを説明するのは夫である我が身からしても容易いことではない。
普通、ある人物の人となりを端的に伝えるときに用いるのは、その人の容姿か仕事か性格かであろう。真奈の場合、その全てが十分に個性的であるのだが、実際のところはそのどれもが彼女の本質を言い表してはいない。
例えば、宇宙人がいたとしよう。彼を紹介するのに美形だとか、仕事が外交官だとか、センチメンタルな一面があるとか、そんな言葉は使わなない。単に宇宙人である、とだけ言えば十分だろう。
そもそもが異質な相手には普通の枠組みの中での差異など些末なものでしかなくなる。
つまるところ薬師寺真奈もそれくらい特殊な人間だ。
私が彼女を紹介するなら、ただ一言、こう言う。
彼女は、悪魔のような女だ。
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悪魔のような女、と聞かされていた結婚相手を目にし、私の父と母は奇妙に納得したような表情を見せた。
それは真奈との結婚が決まり、彼女を両親に紹介するために設けた食事会でのことだった。
真奈は見た目、大人しそうな妙齢の女性で、平々凡々な私の伴侶としては不相応にさえ思える程の美人である。線が細く、整った色白の容貌の持ち主で、良家の令嬢のような育ちの良さを伺わせる。
この日は立ち襟の黒いフォーマルブラウスに、同色のスカートとストッキングという格好で、近世の華族のような古風なファッションがこの上無いほど彼女に似合っていた。
しかし、真奈の容姿は見る者に独特の違和感を覚えさせた。端的に言えば、わざとらしい。美貌といい服装といい、一貫していて出来過ぎている。まるで誂えられたような、映画の登場人物が現実に現れたかのような不自然さ。
それは、何か得体の知れないものが人間の姿を真似ている、そんなおぞましい連想とさえ分かちがたいものだった。
「薬師寺真奈と申します」
父母たちの言いようのない不安を気にした様子もなく、淑やかに折り目正しく彼女は名乗った。
端正な顔に浮かぶ微笑はやはり作り物めいており、何か隠された、計りがたい悪意や酷薄さのようなものを予感させた。
食事会の会場に選んだのは私の実家からほど近いフレンチレストランで、以前から家族の祝い事の際などにしばしば使っていた店だった。料理の腕は勿論、ホスピタリティにも信頼のおける店で、馴染みのある店での食事に、両親は徐々に普段の調子を取り戻していった。
真奈の第一印象はたしかに独特だが、それも所詮は第一印象に過ぎず、慣れてしまえばそれまでのものだ。私の家族たちは、真奈のちょっとした仕草や言動から、彼女が血の通った一人の人間であることを実感し始めていた。
事前に彼女があまり自分から話をする性格でないことは伝えていたため、両親は積極的に話題を振ってくれた。
「真奈さんは、お仕事は何を?」
そう尋ねたのは母だった。
薬師寺真奈という女性は働いている姿を想像しにくい人だ。同様に、家事をしている姿もイメージしがたい。浮世離れした彼女がどのような日常を生きているかは当然興味を引くところだろう。
「古書を扱う店を営んでいます。寂れた商店街の、小さな店ではありますが」
「はあ、古本屋ですか」
古い書物に囲まれて静かに暮らす姿は彼女の雰囲気とよく合っている。面々は納得したように首肯しながらも、その違和感の無さにやはりかすかに不安を募らせた。
真奈は柔らかく微笑んで、話を続ける。
「稀少な本、高価な本も取り扱っていますが数はそれほど多くありません。
それよりも本懐としているのは――客人の心の在り様に相応しい一冊を個人的にお譲りすることですね。
人にはそれぞれ縁のある本がございまして。
そうしたものに導かれるように私の店を訪れる方もいらっしゃいます」
人と本の縁。
唐突に語られたその話を父母たちがどう思ったか。彼女にはスピリチュアルな話を好む一面があると思っただろうか。いや、それよりはむしろ、何か言語化し難い、彼女の職業上の信念のようなものと受け取ったようだった。
いずれにしろ初対面の相手にするには言葉足らずな話だ。
その不器用さに、私の家族たちはようやく彼女の人間らしいところを見出したらしく、安心したように息をついた。
一方で、それを聞いていた私の表情は険しかった。
私からの無言の圧力に気づいているのかいないのか――彼女のことだから気づいていてやっているのだろう――彼女は早々に話題を変え、次なる雑談に話を移したのだった。
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食事会が終わり、生暖かい笑みを浮かべた両親に彼女を送っていくように促された私は、真奈と二人、電車に揺られていた。
二人の真奈への印象は、最終的に悪くはなさそうだった。多少なり測り難いところがあったとしても、礼儀正しく見目好い息子嫁を歓迎しない理由になりはない。そもそも、自立した子供が選んだ結婚相手を認めないような両親でもないのだ。
とはいえ、薬師寺真奈という女性に関して言えば、第一印象に従う方が正しいと言っていい。
程良い酔いの心地を味わいながら、横目でそっと真奈の姿を見やる。
息が届きそうな距離にある白い美貌。黒い衣服に象られた体の輪郭はいかにも華奢だが、肩幅以上にウエストが細いため整った逆三角形のスタイルを描いている。
この人形じみた造形に感じる違和感と恐れこそが、彼女の本質におそらく最も近い。
「気さくで良いご両親ですね」
真奈がこちらに視線を向けないままそう口にした。
「…家族の誰かが店に来ても、『特別な本』は売るなよ?」
私は努めて声を低くした。これだけは断固として、言っておかなければならない事だった。
そうなってしまえば私と真奈との関係は確実に終わってしまう。どれほど自分が彼女を愛していようとも、である。
「承知していますよ。貴方に嫌われるのは本意ではありませんから」
と、気軽そうにのたまう真奈。こういった言葉が本気なのかよく分からないのは彼女の欠点だ。私は諦め半分に、それ以上言及することをやめ、目を閉じて微睡みに身を委ねた。
異変が起きたのは電車を降りたときだった。
「見つけたっ!」
女の、鋭い声がした。声の方へと目をやると、若い女が一人立っていた。
彼女が尋常な精神状態ではないことはすぐに分かった。こちらに、真奈の方へと向けられた、狂気を感じさせる笑み。
「あの本を頂戴!」
女はそう叫んだ。
「まだあるんでしょ!? お願いよ!」
切羽詰まった、媚びへつらうような声。下手から頼んでいるようで、同時にこちらが意に沿わない返答をすれば瞬時に暴力と狂気に訴えるつもりであることを隠しもしない、危険な懇願。
(この女、真奈から本を買ったのか…!)
私はすぐに事情を察した。それがどのような本なのかまでは分からないが、まず間違いはあるまい。
「ねえ、出してよ! あれが無いと私は…」
女はヒステリックに叫んでいた。言葉面だけでも頼む風であったのが、徐々に口汚い台詞が混ざり始め、はっとしたようにそのことを自覚して、急に甘えた声で頼み始める。それでも望む返答が得られないと分かれば、やはり怒りをあらわに罵詈雑言を吐く。必死で、支離滅裂。ただならぬ雰囲気に、何事かと人々が集まり始めても女には躊躇する様子すらない。
対する真奈の調子はあくまで涼し気だった。微笑さえ浮かべながら、鬼気迫る形相の女にも事務的に対応する。
「ご忠告申し上げたはずです。あの本に短編は四編限り。よく考えてお読みになるように、と」
そんな言葉の繰り返し。その態度は冷静を通り越して、酷薄ですらあった。
女はついには怒りを抑えきれず、意味不明な金切り声をあげて何かを投げつけてきた。
「っ!」
私は咄嗟に真奈を背後にかばい、飛んできたものをはたき落とした。だが地に落ちたのは別段危険なものではなく――単なる一冊の文庫本だった。
「何をやってる!」
そこでようやく駅員たちがやって来た。駅員たちは、騒動の原因が狂ったように喚き散らす女にあることをすぐに見て取ると、彼女の腕を掴んで拘束した。女は振り払おうとわずかに暴れたが、すぐに無駄なことを悟ったのだろう、力を抜いてされるがままになった。その様子は諦めたというよりは、何を言っても真奈が思い通りにならないことを知って、最後の望みを絶たれた、といった風であった。
そして彼女は壊れたように笑い出した。聞く者が耳を塞ぎたくなるような狂った声。絶望に身を落とした、自分自身を嘲笑うかのような忘我の笑い。
おそらく、彼女が正気に戻ることはもう無いだろう。
「行きましょう」
女の様子を一顧だにせず、ようやく狂人から解放された被害者であるかのように、真奈は踵を返して歩き出した。
私はそれに付いて行こうとして、ふとあるものに目が止まった。彼女が投げつけた文庫本、おそらくは彼女が狂気に囚われた原因。
私は恐る恐るそれを拾い上げ、ページを開いてゾッとした。
その本には、『何も書かれていない』。白紙だったのだ。
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この夜のようなことは初めてではなかった。私が何度か出くわしているのだから、彼女にとってはきっと日常のようなものなのだろう。おそらく、真奈から『特別な本』を買った人間の多くが悲惨な末路を辿っている。
そして彼女はそれを知りながら本を売り続けている。
理由は分からない。
真奈は私の理解の範疇を超えた人間――いや、人間なのかさえ実のところ分からない。それこそ本当に悪魔なのかさえ知れないのだ。
何せ、はじめて出会った時から彼女の容姿は全くと言っていいほどに変わっていない。まるで年齢を重ねるということを知らないかのように。
実のところ、私は真奈のことをほとんど知らない。
正体も目的も知らないし、彼女が私の求婚に応じた理由さえよく分かっていない。
あの悪魔のような存在が、普通の意味で私を愛しているというのは正直に言って考えにくい。その正体が何であれ、彼女は超然とした、人とは違うロジックで生きている。
だから彼女が私と結婚するのはもしかしたらほんの気まぐれに過ぎないのかもしれない。私は明日にでも真奈からの関心を失うか、あるいは駅で出会ったあの女性のように心を病んでしまうのかもしれない。
だが不思議と私はそのことを恐れてはいない。彼女の正体を知りたいとも思っていないし、あの悪魔めいた古書の商いをやめさせたいとも思わない。
薬師寺真奈という理解できない存在を、私は理解できないままに受け入れている。
多分これは歪なのだろう。だが、私にはこれいいのだ。もしも彼女が私の力や理解の及ぶ相手であったのならば、多分これほどまでに心惹かれてはいない。得体の知れない存在との名状しがたい関係、その頼りない触感を私は心から楽しんでいる。
「本当、変わっていますね貴方は」
いつの間に目を覚ましていたのか、彼女が私の心を読んでいるかのように呟いた。
夜闇の中で、彼女がかすかに笑う気配を感じる。
「貴方のそういうところ、嫌いじゃありませんよ」
いつも通り、本気かも分からない彼女の言葉。その軽薄さがいっそ心地良い。
私も最初は、真奈から『特別な本』を買った人間だった。そして幸運にも、私は心を侵されることなく終わった。
『特別な本』を手にした人物が無事に日常へと帰ること。それ自体は少なくはあっても、稀有というほどではない話。しかし助かった者は皆一様に、彼女を忌避する。薬師寺真奈という女性が、人の形をした、おぞましい何かであると知り恐怖する。
それが当然で、それが普通。
だから私が再び古書店を訪れた時は、彼女も多分本当に驚いただろう。
それから私は何度も彼女のもとを訪れた。同じ時間を過ごし、何気ない話をし、時には遊びに連れ出した。
そんな日々がしばらく続き、やがて私は真奈を愛するようになり、彼女もそれを受け入れた。
そうして今、彼女は私の隣で横たわっている。
私は闇の中でそっと彼女の手を握り、愛おしむようにその感触を確かめた。
今ここにいる女性。
過去も未来も知れない存在。
私が愛する彼女の感触を。