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とっさに頭を掠めた輝かしい五百七十二円。奢りたいもんだろう、男なら。奢れるもんだろう、俺ぐらいの年齢なら。けれど、さすがにその額じゃ足りないとわかるぐらいは、頭はきちんと働いていた。
俺の顔に浮かんだ困惑を読んだのか、城本は悪戯っぽく笑った。
「奢るわ、バイト代入ったから」
そうとも、俺の一文無しは中学の頃から筋金入りだ、自慢にならないが。
「でも、女の子に奢らせるなんて…」
「相変わらずね、お人好し」
城本は溜め息まじりに俺のことばを遮った。
(何だ?)
ほんの一瞬、見過ごしてしまいそうなその一瞬、城本の目を妙に気怠そうな色が過ってどきりとした。それは捨鉢な気配、ここまでやっちゃったんなら後はどうでもいいというような、人生に倦み疲れた気配だ。
(城本?)
確かめる間もなく切り出された。
「じゃ、明日『ロード』で会いましょ。わかる?」
「あ、うん」
「ちょっと話したいことがあって」
「あ、うん」
「じゃ『ロード』に13時半ね」
「あ、はい」
じゃあね、と城本はスカートを翻して去っていく。
後ろ姿を見送りながら、今あった出来事は夢じゃないだろうな、と不安になった。そっと頬をつねってみる。痛くない。やばい、痛くないぞ。これはやっぱり夢か、夢だったのか、いやどうか夢ではないと誰か言ってくれ。
俺はもっとはっきりした答えを求めて周囲を見回した。いつもならこういう時には、電柱に一発ごんとぶつかれば、すぐに夢かどうかわかるはずだ。
なのに、こういう時に限って手頃な電柱が見つからない。
「あ」
少し離れた所にぶつかりやすそうな電柱が一本あるのを見つけて、そっちへ向かってふらふら歩いていく、と、
「ぎゃ!」
次の瞬間、俺は嫌というほどアスファルトに叩きつけられた。
「…おじちゃん、大丈夫?」
「ぐ、うぁ」
のろのろと体を起こし、足に縄跳びの縄が絡んでいるのを見つけた。ちかちかした視界を必死に瞬いて周囲を見回し、声をかけてきてくれた女の子と、その子に向かって止めときなよ、おかしいよあの人、と不安そうに忠告する友達連中に気づいた。子ども達の遊んでる最中に突っ込んでしまったらしい。
「あ〜ごめんな、すまんすまん」
「う、うん…」
謝る俺からそそくさと縄を取り返す女の子に、重ねて詫びようとしていたら、
「くっくっくっ……」
必死にこらえてるけど漏れちゃった的な笑い声が響いた。
むっとして振り返ると、道のもう一方の端を歩いている男が顔を背けつつ、くつくつ全身で笑っている。
「んなろ…」
「くくっっ」
俺が苛ついて立ち上がったのがまたおかしかったのか、今度は半分振り向いて男が笑った。人なつこそうないい感じの男だったが、普通そこまで見知らぬ他人の失敗を笑うか? 絶対一言言ってやろうと一歩踏み出したが、そこで男の向こうにあるものに気づいて立ち止まった。
そうだよな? この場合、あえてこっちだけ人道的に振舞わなくちゃならないわけはないよな?
男は俺が諦めたと思ったのか、にやにや笑いつつ横目で眺めながら歩き続け…。
ごん!
「っっ!」
こっちまで聞こえるぐらいの音で電柱にぶつかった男が、悲鳴を噛み殺して踞る。
「ひっひっひっ…」
俺は快く笑いながら向きを変え、踞ったまま泣きそうな顔で電柱を睨みつけている男を傍目に歩き出した。気のせいだろうか、どうも男の姿というか雰囲気というか、そういうものをどこかで見たような気がするんだが。
「知り合い、じゃないよなぁ……一体どこの誰だったっ……ひっっ!」
じゃぶっ!
「……おじちゃん……」
「やめときなよ、ちえちゃん…」
「でもさあ…」
おそるおそる側に寄ってきてくれた「ちえちゃん」は俺が飛び散らした泥はねを踏まないようにしゃがみ込みながら、両脚をドブに突っ込んだ俺をじっと見る。
「あのね、前を見て歩いた方がいいと思う」
「うん、俺も今そう思ってる……ありがとな」
心配そうな相手に、俺は必死に笑みを返して応えながら気がついた。
あいつは、俺にそっくりなんだ。