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「どーせオレはドジだよ!」
喚いて思わず引き攣った。びい…ん、と爪先から頭の天辺まで傷みが駆け上がる。
「っててて」
ベッドの上で、大の男がそこら中にカットバンを貼り付けてひっくり返ってるんて、ほんと様にならない。
「英、かあ…」
ずしりとまたもや頭上に降ってきた劣等感。ただし、今度は千トンぐらいあるんだろう、払いのける気力がなかった。
そりゃあ、今まで俺が周一郎の役に立ったとは言えない。どちらかと言うと、あいつの生活を引っ掻き回しているだけに違いない。
けれど、一般人には一般人なりに、微妙な問題を見ないふりして突っ込めるという特技もあるもんだし、あれこれ考え悩んで,つい身動き取れなくなってしまうあいつのどこかに風穴を開けていた気がしたのだが。
ただ、英みたいに、能力もある配慮もある、ついでにほどほどの抜け加減でおせっかい心もあるとなると、俺が周一郎にしてやれるほんの少しのことさえなくなってしまう。
(今の俺に、あいつに何がしてやれる?)
何もない。
いやそもそも、何かしてやれることなんて、初めからなかったのかも知れない。
コンコン。
軽いノックの音。何となく高野じゃないと気づく。
それでも俺は動かなかった。
「滝さん」
控えめな声が届く。
「……」
沈黙は返答を待っているとわかっている。けれど応えない。一応これでもまともに落ち込んでる。落ち込んでる最中に、その元凶に会いたがるほどマゾじゃない。
「…寝たんですか、滝さん…?」「!」
声に重なって聞こえたかちゃかちゃという音に俺は跳ね起きた。傷みを忘れてドアに突進する。扉を開くと予想通り、銀の盆に夕食を載せたのを掲げた周一郎が立っている。両手で支えるのも限界なのだろう、震える手が食器を鳴らしている。
「この…ばか!」
思わず怒鳴りつけた。慌てて盆を奪い取ると、巻いた包帯を緩ませた細い腕が現れる。盆は俺の手にさえずしりと重い。
「怪我してんのに、こんなの持ってくる奴があるか!」
部屋のテーブルに盆を置きながら、声を張り上げる。
「高野は何をしてんだ!」
「…ぼくが」
ふ、と妙にたどたどしい声が応じて振り返る。
「…ぼくが持ってきたかったから…」
「…え?」
右手首を押えて俯いた周一郎の表情がよく見えない。
「痛むのか?」
「………大丈夫です」
少し黙った後、周一郎は顔を上げた。弱々しい笑みを張りつけている相手の側へ近寄り、顎をしゃくる。部屋に入れと促した。
「ほら来い、でさっさと手を出せ」
包帯は俺が盆を取る時に引っ掛けたのか、端が外れていた。
「巻き直すくらい自分で出来ます」
「人がやってやろうってんだ、たまには大人しく受けろ」
「……」
口を噤んで椅子に腰を降ろす周一郎の手の包帯を少しだけ解く。全体が緩んでいたんじゃないことにほっとして固めに巻き付けていく。びくりと体を震わせる相手を覗き込む。
「本当に大丈夫なんだろうな」
「はい」
「ちゃんと寝てるんだろうな」
「はい」
間髪入れずにそっけなく答えを返す周一郎が、一瞬嬉しそうな子どもっぽい笑みを浮かべる。が、本当にそれは一瞬で、すぐに醒めた表情に戻って包帯を見つめた。
「心当たりはないのか?」
「僕を狙った犯人ですか?」
周一郎相手なら、俺はほとんどしゃべらなくて済みそうだ。
「あり過ぎてわかりませんね」
「呑気に構えてる場合じゃないだろう!」
明らかに狙われている、余計なお膳立てまでして。
「慣れてますから…こういう騒ぎには」
周一郎は淡々と応える。
「殺されかけるのも初めてじゃないし」
声がいきなり虚ろに響いて、思わず顔を上げて周一郎を見た。ついと目を逸らした相手は今の今まで俺を見ていた気がした。
包帯を巻き直す手を止めて、まじまじと動かない横顔を見る。
側に居ても何もできない。心配しても届かない。手を伸ばしても拒まれ、声をかけても無視される。
けれどやっぱり側に居てやった方がいいんだと思う。
こいつの中にある見えない傷が、普段はしっかりガードされて隠されているのに、こういう時には剥き出しにされて陽の光に晒され灼かれている気がする。優しい部分を切り捨てようとして捨てきれなくて、そういう自分の甘さにうんざりしてて、見つめてしまった人の闇に身動きできずに立ち竦んでいる、そんな風に見えてくる。
「……仕事はどうだ?」
話題を切り替えた。
「…まあまあですね」
不自然な間合いに周一郎は乗った。こいつもまた、そこの部分には触れてほしくないんだろう。
(英は?)
ああ、英は違うのかもしれない。こいつの隠している部分に近づけ、何かしてやれるのかもしれない。けれど、俺は英じゃない、望んでもそうはなれない。だからと言って、何もできないなどと愚痴ばかりも言いたくない。
「海部運輸のルートは八十パーセント組み込めましたし、後は…」
周一郎の唇が吊り上がる。魔王を思わせる昏い微笑だ。
「どこまで手を伸ばすか…っつ」
「悪い、きつかったか」
止めかけたテープを外し、少し緩める。
「けどな、周一郎」
「はい?」
「お前独りで背負い込むなよ?」
「っ」
「へ?」
思わぬタイミングで相手が体を強張らせて驚いた。慌てて周一郎を見ると、今度は問いかけるような視線に捕まった。
「どういうことですか」
「は?」
「今のことばの意味」
「いや、お前いつも独りで何でもやっちまうだろ? 今回は…英も居るし、な」
「…そうですね」
周一郎は曖昧に目を細めた。
「彼はそれなりに優秀です」
ほう、それなりに。
あれでも、周一郎にとっては『それなり』なのか。
何となく溜め息をつきながら、テープを止め直した。
「ほらよ」
「すみません」
他人行儀に殊勝らしく礼を言った周一郎に、もう一度溜め息を重ねた。
(こいつは永久にそこから近づいてくる気はないんだろうな)
結局、俺を頼ってくるのは朝倉周一郎としての意識がないときばっかりだ。
背負った荷物の重さに耐えかねて俺を振り返りはするくせに、手を伸ばさないまま無言でぶっ倒れるなんつー、人の心臓の強さを試すようなことばかりする。いつも気づいてやれるならいい、ときどき全く気づかない俺が、倒れたこいつを見てどれだけたまらない気持ちになるかなんてことは、わかってないんだろう。
「滝さん?」
動かない俺に訝しげな声をかけてくるのに、溜め息を追加した。溜め息バーゲン大安売りだ。
「何でもない」
「…そうですか」
何かを尋ねようとした、けれど尋ねるのを諦めた。
そんな間合いで周一郎は答えを返す。立ち上がり、
「では……お休みなさい」
「ああ、お休み」
無難な笑みを返してきて、周一郎は部屋を出て行く。ぱたりと閉まった扉に、身体中の打ち身の痛みがぶり返し、引き攣りながらベッドにひっくり返った。
「……」
視線を投げたのは部屋の隅。脳裏に浮かんだのは、たった一つの荷物、ボストンバッグのことだった。