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「…ごめんね、滝くん」
ハンバーガーショップから離れていく俺の隣をとぼとぼと歩きながら、百合香が項垂れた。
「いいよ、仕方がない。いつか馘になる運命だったんだ」
アルバイトは終った。二度と来なくてイイから、て言うか、二度と顔を見せてくれるな金輪際できたら客としても。主任はほとんど俺を見ないままに言い放ち、さすがにちょっと傷ついた。
それとなく察しているのだろう、百合香はしょんぼりと沈んでしまっているばかりか、俺を独りにしておけないとか、私のせいだものとか、つまりは帰りたくないと言い続けていて、ちょっと持て余す。
「さて、どうするかな」
「どうしても……いい」
「ひ」
ぽつりと百合香が応じて、たぶん内臓の幾つかが外宇宙にテレポートした。
(こ、怖えええ)
泣きたくなる。女の怖いところはこういうところだ。いきなり過激なことを口走るくせに、きっと自分が何を約束しようとしているのか全然考えてないんだ。もし、こっちが真に受けて本気で狸になったらどうする気だ。月夜でもないのにぽんぽこぽんぽこと踊り狂ってだなあ……あれ?違うな?月夜に踊るのは狼だっけか?
「……とにかく、家まで送るよ」
「家は嫌。独りになりたくない」
いやいやと百合香は小さく頭を振った。可愛らしくて頼りない仕草、絶対独りで置いとけない、けれど、俺だって絶対二人っきりで居たくない、第一自制が保たないに決まってる。ぽんぽこ月夜に踊ってるぐらいならまだしも、指先に触れて、柔らかい腕に抱えられて、潤んだ瞳に見上げられて、熱っぽく吐息をつかれたら、俺の自制は蜘蛛の糸だガラスの花だ割れる寸前のゴム風船だ、彼女いない歴二十数年を甘く見るなよ。
「…滝くん」
ふいに百合香が立ち止まった。
「え」
「私」
隣でじっと俺を見上げて、ゆっくりと睫毛を伏せていく。
(ひえええええ)
慌てるうろたえる息を呑む。こういう時には応じた方が傷つかないんだろうか、応じない方が傷つかないんだろうか。誰か恋愛手引書を完成させてくれ、俺は絶対買う。
「滝くん……私が嫌い?」
切なく囁く。絶句している俺を、薄く開いた目で射抜く。捕まる、ような、気が、する。
「あの…その、子の、お父さん…」
思わず口走った。びくりと百合香は震え,見る見る瞳に涙を溢れさせた。
「……酷い…」「ご、ごめんっ!」
はっとして必死に謝る。
「ごめん、ほんとっごめんっ」
「私…私……っ」
涙を零れさせながら、今にも崩れそうに百合香は俺の腕の中へ身を投げてくる。
「わたし…っ」「ごめんっ」
悪気はないんだ、そう言いかけて口を噤んだ。
(違う)
本当は引っ掛かった。悪気じゃないにせよ、百合香に罪はないにせよ、引っ掛かった。今俺の腕の中に何のためらいもなく身を任せてくる百合香に、浮かれている想いが一瞬ぎゅっと縮こまった。
(きっと前にも)
君はこうやって誰かの腕に身を任せていたんだろう?
(じゃあ、今のこの俺は)
一体百合香にとって『何』なんだろう。
脳裏を掠めたのは周一郎の側に寄り添う英の姿。
(俺じゃなくてもいいんだよな? 周一郎も、きっと百合香も)
突き放せばいいんだろう、俺のことはどう考えてるのか、と。はっきり尋ねればいいんだろう、今こうやって甘えてくるのは、この先も許してくれるってことなのかと。
百合香は俯いたまま俺の顔を見ない。それが全ての答えのような気がした。ゆっくり唾を呑み込み、そっと百合香の肩を抱き直す。軽く震えた百合香がどこか観念したような表情で顔を上げる。こんな顔を見たいわけじゃないって、百合香はいつかわかるんだろうか。
(大事な奴には笑ってて欲しいよな)
周一郎の冷めた表情がまた脳裏を過って苦笑した。
「…そういうことだ」
「…え……っ」
百合香が眉を寄せて次の瞬間固まる。俺はそっと静かに、百合香の滑らかな頬に唇を当てた。小さな赤ん坊にするように。
「…ごめんな」
もう一度謝る。
「俺にできるのは、こんな程度だ」
「…」
震えた百合香が静かに目を開ける。潤んでいても明らかにそれとわかる微笑を浮かべ、百合香はそっと指先で頬を押えた。
「城本?」
「……捨て猫ね、私」
低く呟かれてどきりとする。
「それも『優しさ』でしょ、滝くん」
くすり、と笑った声が妙に細く響いた。
「女に示すには残酷」「え」「いいの、もう」
百合香は指先で目元を拭った。俯き、ぎゅ、と俺の手を抱え、大きく一歩足を踏み出す。
「散歩、しましょ」
「…うん」
保護を求めるように腕を抱く力の強さ、それと裏腹にことばは軽く。
散歩なんてしていない。百合香はどこへも帰れない。どこへも帰れない者は散歩なんてできない。当てもなく、倒れるまで彷徨うだけだ。
その心細さを,俺は知っている。
(どうする…?)
一晩中歩いていることは、妊娠中の百合香にいいわけがない。かといって、俺が戻る場所は人の家だ。
(けど)
周一郎もまた、わかってくれるんじゃないだろうか、どこにも行き場がない辛さを。一部屋一晩ぐらいなら、貸してくれる気になるかもしれない。
「…城本」
「…何?」
「俺の下宿先に来るか?」
「………うん」
ためらった声は甘く濡れた。