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濡れ鼠になって戻ってきた俺に、高野が素早くタオルを差し出し、体を少し拭ってから英の部屋へ向かう。さすがに下着は予備があった。
「スラックスしかないから窮屈だろうけど」
「この際何でもいい」
いくら寛容な高野とは言え、パンツ一枚で食堂に来させるような無謀なことは考えていないだろう。
「君なら…このあたりかな」
英は俺をちらりと眺めただけで、灰色のスラックスにブレザー、淡い青のカッターシャツを準備してくれた。ただの灰色じゃなくて織りが凝ってて動くと服のイメージが変わる。シャツの襟や手首、ボタンはフォーマルなものじゃなくて裏地を変えてあったり飾り縫いが施してあったりしている。
かくして、俺はここにきて初めて、朝倉家らしい服装をすることになった。似合っているのかどうかというのは多少異論があるかもしれないが、仮にも英が見立てた衣服、二目と見られないという格好じゃないはずだ。
濡れた服は高野に乾かしてもらうために片手に持ち、英と部屋を出る。
「周一郎は」
「え?」
「俺のことを何か言ってたか?」
「…いや、とくに、何も」
「ふうん」
最後の何も、が妙に力強く感じたんだが、気のせいだろう。
「とくに、何も、か…」
そんな程度だったのか。
友人その1。
英は周一郎と同じ階に寝泊まりする。対して俺は未だに一階だ。この差はどこから来るんだろう? 頭か性格かそれとも顔か?
周一郎の部屋の前を通り抜けかけて、ドアが開いているのに気づいた。何の気なしに覗き込むと、机に突っ伏している周一郎が居る。具合が悪くなったのかとひやりとしたが、空気は柔らかく重くなく、どうやら誰もいないと思っての仮眠中、開け放った窓から風が吹き抜け、ふわりふわりと周一郎の細い髪の毛を巻き上げる。
(ちょっと冷えてる)
風邪を引いちまうんじゃないか。
思わず部屋に踏み込んで、体にかけてやれる毛布とかタオルケットがどこかにないかと見回した。
そのとたん、脇から黒いブレザー姿がすいと滑り込む、ばかりか、ソファに載っていた掛け物を手に周一郎に近づき、あろうことか、優しく静かに周一郎にかけてやる。
「っ」
俺のやろうとしていたことそのままを、俺よりももっとスマートにやってのけた英に、しかも俺が近づいてさえ時には跳ね起きる周一郎が身動き一つしないのにぎょっとした。
(周一郎が起きない?)
棒にぶっ刺されたような気持ちで立ちすくんでいる俺の視線に気づいたのか、周一郎の側に寄り添った英が顔を上げ、にっこりと邪気なく笑って見せる。
大丈夫だよ。
その笑みはそう宣言している。
君がいなくても、周一郎さんは僕が支えていけるから。君が居るより遥かに確かに、君が為すより遥かに易々と。それだけの能力がある、それだけの理解を僕は備えている。
「…」
何だか急に、居てはいけない場所に居るような、さっさと出て行けと満面の笑みでののしられたような気がして、思わず向きを変えた。
(あいつ、目を覚まさなかった)
階段を下りながら、一足ごとにめり込むように落ち込んでくる。
(なぜだ?)
いくら仮眠中とは言え、人の気配には誰よりも過敏な周一郎が、あれほど間近に他人が居ても、その他人が自分の体に触れかけても、全く起きないなんてあり得ない。もし、あり得るというのなら。
「頂きましょう」
「……うん」
階段下で、まるで俺の足音を聞きつけていた猫のように待ち構えていた高野を、思わずまじまじと見つめてしまった。
「滝様?」
「…いや、ありがとう」
周一郎は他人を寄せ付けない。寄せ付けるのは、本当に心を許した相手だけ。
いつかの、俺の肩を枕に眠り込んでいた周一郎を思い出す。
ああいうのは『俺』にだけするんだと思っていたが、意外にそうでもないのかもしれない。周一郎が安堵したのは『俺』にじゃなくて、『俺』の中にある何か、間抜けさとか騙されやすさとか生真面目さとか、そういうものなのかも知れない。ならば、今ここにやってきた英の中に、その『同じもの』があるなら、そちらにも反応して当然かもしれない。
つまり、周一郎は『英』にも心を許せるのかもしれない。
(つまり)
俺じゃなくても構わない。
「にゃあ」
「っ」
いつの間に外に出ていたのか、突然足元で響いた鳴き声に飛び上がる。
「…よう」
「に」
ルトがこちらを見上げている。
「……ご主人様についてなくていいのか?」
「にゃに」
まあねと言ったように聞こえた。俺が伸ばした手に飛び込み、英のブレザーに容赦なく爪をたてて胸から肩へと駆け上がり、そこに落ち着く。
「おい」
「にゃふ」
珍しくすりすりと耳元に頭を擦り付けられて苦笑いした。
「慰めてくれてんのか? いい奴だな」
「なーう」
まあいいよ、行きな。
そんな感じで尻尾が背中を叩く。
「あいよ」
俺は溜め息をつきながら、のたのたとお由宇の家に向かった。