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やめだ。どうせうまく慰められやしない。
「俺に話して気が楽になるなら」
話していいよ、どうせ『安全圏』の男なんだろうし。
「………」
「…だよな、助けにはならないよな」
「……ふ」
ふいに、百合香が小さく息を零した。
「どうして…」
「え?」
「どうしてそんなに優しいの、滝くん」
「?」
「昔からそうだったわよね」
百合香はふいと目を上げた。起きたまま夢を見ているような、甘くて柔らかな、けれど目の前の俺は映していない瞳だった。
「捨て猫の側で、ずっと傘をさしかけてたこと、あったでしょ」
「あったっけ?」
そもそも俺が自由に使えた傘なんか、あったっけ?
「そう、あったわよ」
百合香は淡く微笑んだ。
「寒い雨の日だった……捨て猫を見つけたのは滝くんだけじゃなかった。他にも何人も…腕に抱いたり温めたり、家に連れて帰ったりして…でも、反対されたんでしょうね、結局みんな、そこに戻すしかできなかった。でも、あなただけは」
視線が動いて、ゆっくりと俺の顔に焦点が合った。
「あなただけは、猫を抱き上げなかったけど、みんなが帰った後もずっと何時間もそこに立ってたでしょ? 夜になって九時を過ぎても、まだ立っててびっくりした。十時になってもまだじっと立ってて……十時半になって、やっとあなた帰ったけれど、傘を残して帰った…」
百合香は一口、ミルクティを口に含んだ。
「なんて意気地なしなんだろう。そう思ったのよ、その時。あんなことしてないで、抱っこしてやればいいのに。家に連れ帰って飼ってやればいいのに。そう思ってた」
いきなりの罵倒かよ!
そう突っ込みたくなったのを我慢してコーヒーを飲むと、それは思わぬ形で俺の元へ戻ってきた。
「でも、最近気づいたの、抱き上げなかったのも……一つの優しさなんじゃないかって。その時だけの温もりを与えるより、もっと長い間見守ってやる方を、雨から守ってやる方をあなたは選んだだけじゃないかって……抱き上げてやれば何かした気にはなるけれど、結局戻されるんだから同じことよね。傘を残してやることは自分が濡れることと引き換えよね。ひょっとしたら、その傘は雨が上がるまで冷たい雫から守ってくれるかも知れない。体が濡れなくて凍えなくて、だから体力をなくさずに、ひょっとしたら拾ってくれる誰かと巡り逢うまで守ってくれるかもしれない…」
ごめんね、滝くん。
百合香は小さく謝った。
「私、あなたの強さに気づかなかった」
「そんな…いいもんじゃないよ」
うろたえて思わず反論した。
「俺は濡れてるのが冷たそうだなって思っただけだ」
連れ帰ることはできなかった、自分もまた施設に拾われたようなものだと思ってたから。抱き上げるにしても五匹全部は無理だと思った……順番に抱きかかえていくという発想はなかったのだ。
どうしよう、どうしようと迷いながら、傘を差し出したまま考えていた。考えて考えて考えて、どうしてもいい答えが見つからなくて、気がついたらとんでもない時間で慌てて帰ろうとしたら、にぃん、と小さな声で鳴かれて、そいつをもう濡らす気にはなれなくて。
「そうだよ、で、結局晩飯は抜かれたし傘をなくしたってこっぴどく叱られたし」
お前はみんなの傘を一つ、放り出してきちまったんだぞ!
怒鳴り声が頭に響いた。
そうだそうだ思い出した。自分の傘ならまだしも、あれは施設の共有の傘だった。男物の大きいのは数本しかなくて、いつも大きい兄ちゃん達が取り合っていたが、たまたまあの時は俺が使うことができたのだ。
「ああ、そうか…」
思わず呟く。滅多に使えない、大人物の大きな傘をさしていて、俺は自分が少し大人になった気がしていた。傘の広さの中に誰でも入れてやれるような気がしていた。けれど、あの時の俺には、傘に入れたり入れてもらったりするような友達は一人もいなくて、そうだ、俺も寂しかったんだ。
だから傘をさしかけた。濡れて捨てられた小猫に。俺のものではないけれど、十分相手を包める大きさの、その傘に。そうやって、自分が傘にふさわしい大人になった気がしてた。
もっとも、飯抜きになったところでやらなきゃよかったとひどく後悔し、次の日慌てて傘を探しに戻ったのだが、百合香はそれを知らない。知らないからのヒーロー伝説というわけだ。
「それより、よくそんなこと知ってたなあ」
俺は話題をすり替えた。お由宇と周一郎に一年以上付き合っていると、俺でもこれぐらいの裏技は使えてしまうのだ。
「あの捨て猫の前の家」
くすりと百合香は笑った。
「私の家なの。二階から見てたのよ」
「え、そうなのか」
「そう。ひどい話よね」
あの場所は、捨てやすいのかしらね、ほんとによく子猫や子犬が捨てられてるの。保健所に電話しても、すぐ場所がわかるぐらいなの。
「だから、私も慣れちゃってたのよ」
だめね。
掠れた声が笑った。今度は胸を引っ掻くような切なげな声だった。
「ああまただ、仕方ないななんて、命に対してそんな気持ちしかなかったから、こんなことになるのねきっと」
「え?」
「ううん……ねえ、滝くん」
百合香が不意に口調を変えた。がぶがぶとコーヒーを呑み干した俺をまっすぐに見つめ、
「また会ってくれる?」
これは何だ、どういうギャグだ。それとも素人どっきりか百合香はそこまで酷い女になったのか……そんなわけあるか。
「何で?」
それでも口を突いた問いに、百合香は小首を傾げる。
「だめ?」
「何で、俺なんか」
そのお腹の子の父親はどうしたんだ? 一体どこの誰なんだ? そいつは今、こんなに頼りなく落ち込んでしまっている百合香を放って、どこで何をしてるんだ?
捨て猫の話をしたせいか、百合香が高級そうなシャム猫に見えてきた。ツヤツヤの毛並み、鮮やかな瞳、きっと大事に飼われていたのだとわかる安心しきった人への信頼。なのに、そいつはたった一匹、誰も振り返らない街に放り出されている。
「……滝くんがいい」
百合香はそっと応じた。
「側にいたい」
必死に訴える小さな願いを、俺は無視出来た覚えがない。
「うん、いいよ」
精一杯明るく笑ってみせた。