3 彼女とファミレスとそこにある危機
梱包材に使われる、例のプチプチした、空気の入ったやつ。
あれをひたすら潰すような感覚なのかな。
意味なんてないけれど、なんとなくやっちゃうんだ。
言ってみれば、ただの暇つぶしってやつでさ。
* * *
死神に指定された四日後、約束の日――川除澄との顔合わせは夕方と連絡が来たので、日中は丸々時間が空いてしまうことに気づいた。
それでなんとなく、これが最後だからと、学校に行ってみることにした。
特別な何かを期待していたわけじゃないんだ……でも。
さすがに最後だし……じんわりと胸の奥から熱いものが込み上げてきて、感慨深い気持ちにはなるかな、なんて予想していた。
それで結局、がっかりしたんだ。
ノートを取りながら、急に馬鹿馬鹿しさが込み上げてきて。
……来なきゃよかったな、と思った。
友達と喋るうちに寂しさが込み上げてきたり、通い慣れた校舎を見上げて名残惜しい気持ちが湧き上がってきたり……全然、そんなことにはならなかった。
もう学ぶ必要もないんだな……悟ったのは、まずそれ。
どうせもうすぐ死ぬんだし、知識を役立てる機会もこの先ない。
決定的に何かが変わってしまった。
なんていうか――自分という存在が異分子のように感じられた。手違いで学校に紛れ込んでしまった、ここにいてはいけない者。
笑っている学生たちを見たら、『いいよな、未来があって』と鬱屈した思いが込み上げてきた。
いっそ腹いせに、校内すべての窓ガラスでも割ってやろうか。
そうしたら今笑っている彼らも、真顔に戻るだろうし。
……なんてね。
窓ガラス割るなんて、疲れちゃうから、やらないけどさ。
* * *
死神に指定されたファミレスで彼女と会った。
ちなみにセッティングした張本人(死神)は来る気すらなくて、いきなり当人同士のマンツーマン対面だ。ひどいもんだよ。
それで肝心の川除澄であるが、彼女はなんていうか――干からびたリスみたいな目をした女の子だった。
「……今さぁ、あたしの顔見て、失礼なこと考えたでしょ」
意外に鋭いのか、彼女は瞳を細めてそんなことを言ってきた。
声に温度がなく、すべてがどうでもよさそうに感じられるのに、他人から馬鹿にされるのは嫌なのかな。
そしてどうでもいいことだが、すごく猫背。……背筋が十分に発達していないのだろうか。彼女、とても華奢だしな。
十代ならこれも個性で通せるだろうけど、年を取った時、歪んだ骨格の影響で体形が崩れそうだなと考え――ああ、年を取ることはないのか、と気づいた。
僕の親はいわゆる『意識高い系』の人たちで、彼らは昔からよく言っていた――『この悪い癖を続けたら、十年後どうなるかを考えなさい』『今はよくても、それが積もり積もって』――その刷り込みが効いて、僕も知らぬうちに、そういう思考回路になっていった。
姿勢が悪いと十年後スタイルが崩れるかな、日に当たりすぎると十年後しみになるかな、他人を憎んでいると十年後人相が変わりそうだな。
そこそこの人気者という、人生で楽をできる地位をこのままキープしたかったから、常に頭をフル回転させて、頑張ってきた。
だけど、むだだったな。
彼女も、僕も、どちらも年を取ることはない。僕たちに未来はないんだ。
……だったら目の前の彼女みたいに、頑張らないで、のんべんだらりと生きてくりゃよかった。
いつもならね。初対面の人と話す時は、もっと気を遣う。
だけど愛想笑いを浮かべる気分にもなれなくて、僕は口を閉ざしたままでいた。
あとさ……どうでもいいことなんだが、彼女の右側頭部の寝ぐせが妙に気になって。
……死ぬ運命を知って、こうなのか? それとも元々だらしないのか?
なんというか、在り方、所作に、美しいところがまるでない女の子だなぁ……。
「ねぇ」
膝に軽い衝撃。
驚いたことに彼女、僕の膝をローファーの爪先でスコンと蹴ってきた。
軽い接触ではあったものの、あまりに礼を欠いたこの行動には、かなり驚いてしまった。
「あんた、頭良さそうだね。顔も良い。あー、なんつーか、王子系だよね。モテた?」
モテた? って『過去形』なのが妙に引っかかった。
……僕はまだ死んでいないぞ。
あの子はいい子『でした』みたいな。繰り返すが、僕はまだ死んでいない。
「そうでもない」
とりあえずそう答えておく。こういう時、謙遜するのが礼儀というか、ルールのようなものだと思ったから。
「嘘つきだね」コンコンコン、とノックするように靴先を膝に当ててくる。「あたし嘘つきは嫌い。会って数秒で、あんたがこちらを見てマウントしたのが分かったよ。ねぇ言ってみ? さっき失礼なこと、考えたでしょ。言うまで蹴るよ」
彼女の身に着けている茶系のブレザーは、ここら辺では『馬鹿高校』として有名な学校の制服である。
可愛い子が多いという、都市伝説みたいな謎の説が出回っているけれど、それはどうかな。
正直、実感したことはない。
目の前にひとり実物がいるわけだけれど、彼女は――川除澄は、まるで野良猫みたいな女の子だった。
きちんとすれば、顔立ち自体は整っているほうかもしれない。
けれどなんというか、そこはかとなくダラしない感じがする。
それはたとえば、寝ぐせがついていかにもブラシを通していなさそうな痛んだ髪だとか、皺だらけのシャツだとか、曲がったリボンだとか――そういう所に表れているのだ。
僕は数パターンほど、これから取るべき行動を素早く思い浮かべたのだが、結局、どうすべきか悩むのも馬鹿らしくなって(悩むほどの人間的価値を彼女から感じなかったというのが大きい)、問われた内容に正直に答えることにした。
「君を見て、干からびたリスみたいだと思った」
「干からび……え?」
「干からびたリス」
「な……は? あんた、干からびたリスを見たことあるの?」
「ないけど」
「あたしもない」
きゅっと眉間に皺を寄せ、視線を彷徨わせている。
「……ただのリスじゃねぇのかよ。干からびた、てなんだ、おい」
干からびた……干からびた? 何度か繰り返したあと、やがてどうでもよくなったのか、元の空虚な目に戻ってこちらを見据えてきた。
「……何か食べよっか。お腹空いた」
夕食には早い時間であったが――だってまだ四時半だ――このあとどうなるかも分からないので、僕も食べておくことにする。
メニューに視線を落としながら、「……干からびたリス?」もう一度彼女が小声で呟いたのが聞こえた。
いや別に、傷つける意図はなかったんだ。口に出すつもりはなかったし。……君が強要したんだぜ。言うまで蹴るって脅してさ。
「一応確認しておきたいんだけど、君は、僕が看取り役をするという現実を受け止めているの?」
気持ち悪い、付きまとわないで、とかストーカー扱いされても面倒だ。
こちらは看取り役を務め上げないと、孫悟空の緊箍児の刑に処されるのだから、死活問題なのである。
あれは地獄だ。
今世で悪いことをしたわけでもないのに、生きているうちに地獄のバーチャル体験をするなんて絶対に嫌だ。
そのくらいなら、このだらしない女の子を観察しているほうがマシだと思う。
「すごくキモいおっさんが来たらやだなーと思ってたけど、ま、それでも別にいいっちゃいいんだけど、でもあんたマトモそうだし、ちょっと性格悪そうだけど、それは別にいいや。あたしも性格いいとは言えないし」
だらだら喋るし、内容があまりないし、頭悪そうだなーと思う。
しかも調子に乗ったていでこれを言ったなら、痛いやつだな、でもまだ可愛げあるかなで済むけれど、彼女は例の生気の抜けたような無気力な調子で、わりとどうでもいいように語るのだ。
でも……なんだろう。不思議と聴き入ってしまう。
ふと気づいたのだが、彼女は『声』だけは素敵だった。
少しハスキーなのに、耳の奥で残響し、しばらくそこに留まるような艶がある。
淡々と語っていても、どこか意識が引きつけられるのは、声の質のせいかもしれない。
そのまま食事をしていると、向こうから鉄板を持ったウェイトレスが歩いて来るのが見えた。
唐突に、死神に告げられた内容が蘇る。
――どうやって死ぬのか、いつ死ぬのかは、はっきりとは分かっていない。
分かっていない……?
そうじゃなくて……分からないのではなく、まだ決まっていないのだとしたら?
一定の割合でバグが発生する原因は、それで説明がつかないだろうか。
僕と彼女の運命が紐づけされていることだけが決定事項で、現状、ほかは未確定なのだとしたら……。
彼女の傍らを通り過ぎる時、ウェイトレスが足を滑らせた。
くそ、ひねりがないな!
熱々のミックスグリルが乗った鉄板が宙を舞う。このまま放っておけば、彼女の頭の上にあれが落ちるだろう。
ソファから立ち上がりながら、素手で鉄板をはたき落とす。
一瞬のことだったので、熱いとか痛いとかは感じなかった。
払われた鉄板は上手いこと通路に落ちて、誰に当たることもなく、誰ひとり怪我もしなくて済んだ。
対面の彼女がさすがに目を丸くしている。
しかし――鉄板ごときで死ぬかな? とこの時の僕は考えていた。
ほとんど勘だった。
窓のほうに視線をやると、黒い大きな塊が映って――
身を乗り出し、彼女の胸倉を掴んで、思い切り引き寄せる。
火事場の馬鹿力というやつだろう。
ソファから引っ張り出された形の彼女は、机の上を膝で滑るようにしながら、僕の懐に納まった。
テーブル上の皿は押しやられて床に落ちたし、散々な有様だ。彼女のスカートにケチャップがべったり付着したのが見えた。
その途端、先ほどまで彼女が座っていた場所に、車が突っ込んで来た。
まるでスノードームを引っくり返したみたいに、キラキラと、ガラスが砕けて周囲に降り注ぐ。それらの破片は一瞬で重力に従い落下し、視界がクリアに戻った。
すぐ目の前には、宙に浮いて空回る車輪。
そしてひしゃげた窓のフレーム。
机の上に正座するような形で、僕に襟元のシャツと肩を掴まれた彼女は、くるりと首を回し、突っ込んできたセダンを眺めた。
次いで運転席に視線を移せば、そこにいたのは高齢者ドライバーで、泡を食った様子が見て取れた。
よくある、ブレーキとアクセルの踏み間違え。
たまたまそれが、ここで起きただけ。
死神が指定した店で、偶然起こっただけの話。
彼女が視線を僕のほうに戻し、呟く。
「せ……せっかちな客だね。お腹空いてたのかな」
……ギャグのつもりか?
真意を探ろうと彼女の顔を見つめてみたけれど、本人はふたたび振り返るようにしてぼんやりと車を眺めるばかりで、今どんな心境でいるのか、それを窺い知ることはできなかった。
僕は僕で、このとき別のことに気を取られていた。
強烈な違和感を覚えた――といったらいいのだろうか。
それは「彼女には看取り役がいるのに、なぜ僕にはそれがいないんだろう?」ということだった。
彼女が死んだあと、きっかり二十四時間後に死ぬから? 彼女が死んだあと、僕のことは考えればいいと思われている?
だけどそんなの、まるきり不公平じゃないか。
彼女ばかりが手厚くされ。
彼女ばかりが得をしている。