2 僕と死神と割れたグラス
指をパチンと目の前で鳴らされたら、手の中にしっかり握りしめていたはずのコインが、跡形もなく消えていたような感じ。
良くできた手品を見せられているような、巧妙なペテンにかけられているような、とにかくそれは奇妙な感覚だった。
ふと気づけば、僕は喫茶店の一隅に腰を下ろしていて、対面にはグレーのスーツを身にまとった、機嫌の悪そうなひとりの女性がいた。
年の頃は三十代半ばだろうか。取り立てて目立つ容姿でもない。
骨格がしっかりしているタイプで、着席しているので座高で判断するしかないが、そこそこ大柄であるように見受けられる。
女は腕時計をさっと一瞥してから、早口で説明を始めた。
「時間がもったいないから、早速始めるわね。――規則上、あなたは説明を聞かなければなりません。進学校に通う頭の良い学生だって聞いているから、一度でしっかり理解してね」
とっつきにくい外見に反して、声はどことなくユーモラスである。少し鼻声のせいでそう感じるのかもしれないが。
特徴的なのがウサギを連想させる鼻と口の造形で、ここだけは、見ようによっては可愛らしく見えなくもなかった。
……まぁそれもすべて、ギスギスした表情がプラス要素をことごとく打ち消してはいたのだけれど。
「……あなたは誰ですか?」
それは当然の疑問であったと思う。
「私が誰か――それがあなたに関係ありますか?」
喧嘩口調というほどでもないけれど、決まった順番を邪魔されたことに苛立ったのか、硬い口調でまくしたてられた。
あなたに関係ありますか? って……そりゃまぁ、あるでしょうね。
「あの……おかしなことを言うやつだと思われるかもしれませんが、記憶がすっぽ抜けているんです。ふと気づいたら、あなたとここでこうして向かい合っていた……というわけで。ここがどこかも分かりません」
「ああ、それはそのはずです。私が記憶を操作したので」
女はそう答えて、せっかちにグラスを持ち上げ、背筋を伸ばしたままストローでアイスコーヒーをすすった。
……ちなみに僕の前にはホットコーヒーが置かれている。
これって誰が頼んだんだ? 手をつけていいのかすら分からない。
女はグラスをテーブルに戻し、ふたたびマシンガントークを始めた。
「色々面倒なんです。とにかく色々面倒。学校帰りのあなたを捕まえて、なんとかここに連れて来たの」
「学校帰り……ですか。言われてみれば、校門を出たのは、なんとなく憶えていますが……」
「校門を出たあと、少し歩いてから、あなたは私に会いました」
「憶えていません」
「だからね? 普通、知らない人にホイホイついて来たりはしないでしょう? そうなると、ちょっとした意識の操作は必要なわけで、夢の中にいるみたいな――つまりなんていうか――操られている状態? にして、ここへ連れて来ました。だからふと気づいたら、あなたはその席に腰かけていて、見知らぬ女が対面にいるという、この奇妙な状況が出来上がった。これで全部よ。――ねぇ、もう、本当に時間がないの。事務的に進めたいんだけど、いいですか?」
僕は「いいです」と答えた。
もちろん良くはない。だけど何を言ったところで、訳の分からない文句を延々と返されるだけだと悟ったから。
流されながらもなんとなく、この状況はこれまで培った常識が通用しない事態なのだなと感じていた。
だからまぁ仕方ない。
とりあえず体験してみて、大雑把な輪郭を掴むことが重要だろう。
――新しいゲームを始める時、僕は取説を読まないタイプの人間だ。
初めは訳が分からなくても、導入部分を終えれば、なんとなく理解ができるようになっている。ゲームに限らず、リアルだって、意外にそういう側面があるものだ。
そんな訳で僕は、女が語るに任せることにした。
「当事者となるのは、あなた――新宮候さんと、同い年の女の子、川除澄さんの二名です」
女はポケットから小さなメモ帳を取り出し、テーブルの上に置いた。
そこへ手早く、『When、Where、Who、What、Why、How』と書き出した。
そして余白に川除澄の名前も。
どうでもいいが、字がわりと汚い。
女は5W1Hの内、『Who(誰が)』の部分を横線で消し込んだ。
「川除澄さんて、誰です?」
「あなたが知るわけない。会ったことがないんだから」
女は順序を乱されるのが、とにかく嫌らしい。質問を挟んだら、また機嫌が悪くなった。
僕が黙ると、威嚇するかのようにペン先でトントン、とメモを叩いてから続ける。
「あなたはこれから、ある役目を果たさなければなりません。――役目の内容は? それは川除澄さんにぴったり張り付いて、彼女が死ぬまで状況を監視することです。あなたは彼女が死ぬ瞬間を見届ける義務を負っています」
女はメモの『What(何を)』を横線で消した。
ちょっと待て……今「死ぬ」って言ったか? 冗談だろう?
訝しく思う僕にかまわず、女は矢継ぎ早に先を続ける。
「ええと次は、Why、なぜ……なぜ……背景には、世界人口の増加があります。それにより、私たちの仕事が追いつかなくなってしまった」
「あなたたちの仕事って?」
「死を看取る仕事」
睨み据えるように女が答える。……ペン先をトントンしながら。
「え、あなた、死神?」
冗談でそう言ったら、思い切り睨まれた。
「そういう言い方は好きじゃない。でもあなたに私が何者かを教える気はないし、ビジネスライクに進めたいので、お好きに呼んでください。――それで」
おい、なんだこいつ――何も解決していないのに、話を進めようとしているぞ。
呆れたものの、わりと気の長い僕は、もう少し相手を泳がせることにする。
「人口が増えたので、因果律の計算が難しくなっているの。つまり――死が迫った者は一応リストアップできているのだけれど、その一部に、具体的にいつどうやって死ぬかの計算が追いついていないものがあるわけです。昔話などで、『死神』がもうすぐ死ぬ人間の枕元に現れて、しばらく付きまとったりする描写があるでしょう? 今日中に死ぬと分かっていれば、その人に関わる時間は一日で済む。だけど三日後かもしれないし、一年後かもしれないとなったら、どう? 下手すると一年もの長期間を、たったひとりのために割かなければならなくなるの。加えて世界の人口は増え続けていて、私たちの仕事はただでさえ、てんてこまい。どれだけ手が足りていない状況か、理解していただけましたか?」
「……なんとなく」
と僕は答えた。
女は『Why』の項目に線を引いて消した。
「死の瞬間が近づくと、魂と体の結びつきが弱くなる傾向にあるので、突然魂が抜けてしまう現象が起こることがあります。体が死んでいないのに、魂が出てしまう――この現象は放っておくと、そのうちに体が弱って死に至ります。そうなった場合、その人の『運命』――本来の死に方とは違う形で旅立つことになってしまう。これは非常にまずいことです」
「なぜですか? どうせ死ぬのに」
カップラーメンを食べる時、お湯を注いで三分待つか、フライング気味に二分で食べ始めるか……そのくらいの誤差なんじゃないか?
女がふたたびペン先をトントンする。
「あなた、本当に進学校の生徒ですか? ああ、もう、面倒臭い――いいですか? Aという人がいるとして――Aは四月一日に、高速道路で玉突き事故を起こして死ぬとします。その事故に巻き込まれて、Bさんも死ぬ予定です。ところがAさんが三月末に魂抜けで突然死したら、どう? 事故はAさんを起点として始まるわけだから、Bさんは事故に遭うこともなく、結果的に生き残ってしまうでしょう? Bさんは巻添えとはいえ、四月一日に死ぬことは決定事項なの。つまりBさんは、何があっても、四月一日に死ななければならない」
「その場合はどうするんですか?」
「私たちの仕事は、因果律の監視――まずAがちゃんと四月一日に死ぬように、調整しなければならない。私たちが一番恐れるのは魂抜けだから、それが起こらないように間近で観察して、ことが起きたら即座に対応し、元に戻す必要がある」
「魂って戻せるんですか?」
「私たちならば、問題ない」
詳細を説明するつもりはないようで、女の返答はにべもなかった。
「戻し方はどうでもいい。とにかく――魂抜けは、どれだけ早く発見できるかが鍵なの。だけど私たちが忙しくてAに付いていられなかったとする。それで三月末にAの身に魂抜けが起こってしまったとすると――誰にも知られることなく、本来の死因以外でAは死んでしまうことになるわね? そうなったらもう最悪で、Bを四月一日に本来の運命に近い状況で死ぬよう、工作をしなければならなくなる。たとえば中央分離帯に単独で突っ込んで即死させる、とか。その場合、ほかに余計な巻添えが出てはならないし、施す細工は非常に面倒、かつ、複雑になってくるの。だから魂抜けしたら、すぐ復旧させるのが一番良い手なわけです。これで――看取り役の仕事がいかに重要か、分かっていただけたかしら」
「ええ、なんとなく……」
さっきから「なんとなく」ばかり口にしている気がする。
「あなたの仕事は、川除澄を看取ることです。それで彼女が魂抜けする事態に陥ったら、即刻、私を呼び出してもらいたいの」
「どうやって呼ぶんです?」
看取り役とやらをするつもりもなかったが、どうやって死神を呼び出すのかは気になった。
彼女はポケットから名刺を取り出し、それをテーブルの上に置くと、こちらに滑らせてきた。
「これが私の番号です。普通にスマートフォンで呼んでください」
……あ、そうなの? 謎の笛とかくれるわけじゃないのね。
女は手元に置いたメモ帳の、Howに横線を引いて消した。
あと残っているのは、WhenとWhereだ。
「いつから始めるか? それは四日後から」
Whenを消す。
「それまでに、家族とのお別れなどもあるでしょう。ゆっくり過ごしてください」
「家族とお別れって、なんですか?」
なんだか話がきな臭くなってきたぞ。
「繰り返しますが、あなたの仕事は川除澄の看取り役なのです。二十四時間付き添って、と初めに申し上げましたよね? これまでの家で、これまでどおりの生活が送れるはずもないでしょう? あなたは川除澄の自宅アパートで生活する必要があります」
Whereに取り消し線が引かれた。
すべて消し込まれたのを眺めおろし、女が初めて口元に笑みを浮かべた。
「さて、説明はこれで終わりです。ふー……もっとゴネられるものと想定していましたが、物分かりのいい方で、助かりました」
物分かりのいい方だと思われていたのか……あれで?
てっきりこの人、僕に対して、ハイパー苛ついているんだと思っていたよ。
と、そんなことより……。
「僕はあなたの提案を受け入れてはいませんよ」
相手の目を見て静かに口を開く。
初めは目的がよく分からなかったし、とりあえず話を聞くくらいはしてもいいかなと考えて、ただ泳がせていただけだ。
「そもそもあなたが本当に死神かどうかも、正直、疑っています。僕の記憶が一部抜けているのは、直前になんらかの薬物が使われたのかもしれませんよね。それに――百歩譲って、あなたが本物の死神だったとして、だからなんです? 死神不足も人口の増加も、僕には関係ない。それってあなたたちの問題でしょう? アルバイト要請なら時給を提示すべきだし、給金が発生するとしても、僕が引き受けないと言えば、それまでなんですよ」
本人がやりたくないと言っているものを、どうやってやらせるというのか。
これに女は怒り出すかと思われたが、どうしてだか……一瞬気の毒そうにこちらを眺め、改まった口調で次のように告げたのだった。
「ああ、そうよね。すぐに納得するわけもないと思った。……私、本当に時間の余裕がなくて、焦っていたの。肝心の情報を言い忘れていたことに、今気づきました」
女はポケットにメモ帳をしまいこんでから続ける。
「とりあえず私が『死神』――であることを証明しますね。私の後ろを見てください。ふたつ離れた席に、初老の女性が座っていますね?」
女の体で視界が遮られているので、僕は体を右に倒し、言われたとおりにふたつ離れた席を確認した。
確かにそこには六十代とおぼしき女性が座っていた。ふくよかで健康そうだ。顔色も悪くない。
「彼女、あと」
女が腕時計をチラリと見て、
「二分で倒れます。のたうち回って苦しむ。原因は急性心筋梗塞よ」
そんなことがあるわけない。時間までピタリ予告するなんて。
大体――言っていることが矛盾してはいないか?
「因果律の計算ができなくなったと、言っていませんでした? 人口が増えて追いつかないって」
「全部が全部、成り行き任せなわけないでしょ。曖昧なのはごく一部よ。システムのバグみたいに捉えてもらえれば、分かりやすいと思う。実は、バグが出る割合は昔から一定なの。だけど――人口が増えれば、割合は一定でも、数は跳ね上がってくるわよね? そのせいで私たちの仕事が回らなくなっているという話」
なるほど……たとえばバグの発生確率が1%だったとして(実際はもっと低いのだろうけど……)、世界人口が十億人だった時代ならバグ発生件数は一千万件だったが、人口が七十億に増えたら七倍の七千万件起こる計算になる。
エラーが出た際のリカバリーには手間がかかるものだから、世界人口が増えれば増えるほど混沌は増し、てんてこまいになっているという主張も、理解できなくはない。
ただし――死神なんてものが本当にいるとしての話だが。
僕のほうも時計を見て、きっかり二分が経過したことを確認した。
「何も起きませんね」
馬鹿馬鹿しい、と席を立とうとして身じろぎした時だった。
あの女性が苦しみ出した。
切羽詰まったように呻きながら、グラスをなぎ払い、そのまま椅子からずり落ちるようにして、通路に転がり出る。手足を滅茶苦茶に動かしながら、もがき苦しんでいるのが見えた。
店内にいた客は皆一瞬呆気に取られていたが、すぐに近くの席に座っていた中年女性が助けに入った。
「救急車を呼んでください!」
その女性が叫んでいる。
店内の騒然とした気配につられて椅子から腰を上げかけた僕の手をぐっと掴み、対面の女が低い声で告げる。
「座りなさい。まだ話は終わっていません」
「だけど――」
「あなたと会うのに、今日この場所を選んだことには意味がある。あなたはあれを見ても、私が毒を盛ったとか、おかしな陰謀説について考えを巡らせるかもしれない。だから駄目押しにもうひとつあるのよ。すぐにもうひとり、死にます」
「……なんだって?」
勘弁してくれと思った。
たぶん――僕はほとんど女の言葉を信じかけていた。
だからこそ、もう勘弁してくれよと思った。こんなのを見せられるのは御免だ。
「あと数秒で、店員が慌てて駆けつけてくる」
視線を巡らせると、レジに立っていた従業員の女性が慌てて走ってくるのが見えた。
「十九歳のアルバイト店員である彼女はすっかり慌てていて、あの割れたグラスを踏む。結果――足を滑らせて、テーブルの角で頭を打って、死にます」
髪をきっちりまとめた、いかにも仕事ができそうな若い女性だ。
彼女もう、倒れた女性のすぐ近くまで来ている。
制止する間もなかった。
踏み出した足が不自然に滑って――そう、きっと足をついた場所に、割れたグラスがあったのだろう。
彼女は体勢を崩して転び、傍らのテーブルの角で頭を打ち、そのまま通路に倒れた。
ピクリとも動かない。
動かない――……
「さぁ、座りなさい」
女がぐっと僕の手を引き、無理やり着席させる。
今や店内で席に着いているのは僕らくらいのものだった。
皆慌てふためきながらも、一応は助けに入ろうという、なんらかの意思表示を見せている。
そんな中、僕と死神は睨み合っていた。
「これで私が死神であることは、間違いなく理解いただけたことと思います」
「僕はやらない……看取り役なんて絶対にやらない!」
なんでだよ、なんでそんな嫌な役目を引き受けなくちゃならないんだ!
ふざけんなと思った。
「あなたに拒否権はない。――なぜか? それはあなたが、川除澄が死亡したあと、きっかり二十四時間後に死ぬ運命だからよ」
はぁ? 川除澄って誰だよ、と苛立ちを覚え、遅れて思い出す。
僕が看取るはずの女の子の名前か。
ていうか、え? 今、『あなたは死ぬ』って言ったのか?
「そう、あなたは死ぬ。遠くない未来に。これはね――死期の迫った者同士を引き合わせ、あとに死ぬ者が、先に死ぬ者を世話するという新しい試みなの。決まっているのは、あなたと彼女の死期が近く、たった一日の誤差で死ぬということだけ。だけどどうやって死ぬのか、いつ死ぬのかは、はっきりとは分かっていない」
そんな馬鹿な。
そこがグレーなのに、なんできっかり二十四時間後に僕が後追いするって分かるんだ。
「疑問は多いでしょうが、そういうものだと割り切るしかない」
「……看取り役を断ったら?」
「あなたは断れない」
女がそう言った途端、とてつもない激痛が頭に走った。
この時、僕は絶叫していたと思われる。前後不覚になるほどの、味わったことのない責め苦だった。椅子から転がり落ち、床をかきむしり、わめいた。
失神しかけたところで、負荷が急に軽くなる。
ぼんやりする意識の中、これって孫悟空の緊箍児みたいだと僕は考えていた。
悪さをすると締めつけられる、あの頭の輪っかと同じだ。
「分かった? あなたは断れない。断った場合、いっそ殺してくれと自分から懇願したくなるような苦痛を味わってもらうことになる」
すでに頭の圧は消えているのに、動くことができない。それほどのダメージを受けていた。
そして僕がこんなふうに喚き、床に倒れ伏しても、店内にいる誰ひとりとして、こちらを見ようとしない。
あの苦しんでいる老女と、頭を打った店員にかかりきりだ。
「職務上、面倒がある時は、周囲の意識を逸らす操作もできるのよ。――立てる?」
立てるかを問いながらも、女は手を貸そうとすらしなかった。
こちらもこんな女の手は借りたくなかったから、別にいい。座面にすがりながらなんとか床から体を引きはがし、椅子の上に戻る。
「じゃあよろしく。四日後、川除澄と合流してもらうけれど、待ち合わせ場所などはあとでメールします」
そう事務的に告げて、死神は去って行った。
僕は目の前に置かれた白いカップと、そこに注がれた黒い液体を、しばらくのあいだ、ただぼんやりと眺めおろしていた。