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神なき世界  作者: みやす
2/2

中編

 それから数刻の後、エリオールの部屋の扉がノックされた。

 昼食にしてはいつもより少し早く、何より普段ならばエリオールの事情など関係なしに部屋に入ってくる看守がノックをするはずがなかった。

 不審に思い扉に近づけば、扉の向こうから話し声が聞こえた。


「返事がありませんわ。本当にここであってますの?」

「ええ、そのはずですが」

「なんで開きませんの。たかが扉の分際で、この私を馬鹿にしてますの。ええい、このっ」


 ガチャガチャドアノブを回した後、何かが扉にぶつかった音と共に「キャッ」という悲鳴が聞こえた。


「ダメです、お嬢。この扉には結界が張ってあります」

「キィー、フトレ、貴方何をやっていますの。早くこの扉を壊してしまいなさい」

「お嬢~。待ってくださいよ~」


 キィキィと小猿のように騒ぐ女と落ち着いた男、そしてのんびりとした男の声が聞こえる。


「ほら、早くしなさいな」

「え~っと、これはこ~で~」

「どうですの、開けられますの、開けられませんの」

「う~んと~、たぶんだいじょ~ぶですよ~」

「そうですの、では早く開けなさいな」

「は~い。ここはこ~で~、ここをこ~して~、これで~・・・」

「もう、いいんですの。それでは開けますわよ、ぷぎゃっ」


 のんびりした男の声が途切れると、ドアノブを回す音と共にカエルが潰れたような音が聞こえた。


「こ~すると~、よ~しこれで~いいよ~。って、あれ~、お嬢~、ど~したんですか~」


 立て続けに数発鈍い音が響き、「いって~」という本当に痛いのか疑問に感じる呻き声がし、パキンと甲高い音とともに扉が軋みながら開いた。


「ふっふーん。待たせたわね」


扉の向こうには金髪縦ロールの女が仁王立ちしていた。

凶悪なドリルのせいか小さくみえる顔、こぼれそうな瞳は一番星のごとく輝く金色。

やや太めの眉はりりしく、雪のように白い肌に深紅の紅が際立つ。

まだ美女よりも美少女と呼ぶ方がふさわしい少女だったが、少し釣りあがった金色の眼には他者を威圧できそうな目力があるような無いような。

波打つ縦ロールを優雅に振りながら歩く美少女の年齢はエリオールと同じくらいだろうか。

身長は厚底のブーツを履いているおかげで目線は女の方が高い。


「貴方が、ここに捕まっているという方でよろしくて」

「・・・たぶん」

「ふーん、聞いていたのとは少し違うようですわね」


事前に何を聞いていたのか、女は左手を右肘に添え右手で顎を触り、いかにも考え中ですよというポーズでこちらのことをじろじろと見た。


「お嬢、美女はどこです?」


扉の向こうから黒い服を着込んで黒いハットを被りサングラスをかけたチビデブが現れると、お嬢と呼ばれた女は振りかえりざまに厚底の重量を乗せた見事な回し蹴りを放った。

女の一撃はチビデブがその外見からは想像できない俊敏さで避けたことで、チビデブの後ろをのろのろと歩いていたひょろのっぽのみぞおちに直撃した。


「うげ~、お嬢~、なんで僕蹴られたんですか~」

「こちらが、噂のお姫様らしいですわ」


 女はひょろのっぽを完全に無視して親指でエリオールを示した。


「男じゃねえか!」


 チビデブはがっくりと肩を落としたが、すぐに顔を上げでエリオールに突っかかってきた。


「この嘘つきめ、よくも男の純情を踏みにじったな。男だと知っていたらこんなところまでわざわざ助けになんか来なかったさ」

「落ち着きなさい、イトラ。噂なんてこの少年が流したものではないでしょう」

「・・・そりゃそうですがね、あっしのこの煮えたぎった思いは何処にぶつければいいんですかねぇ」

「そんなのは、知りませんわ」


 頭を抱えていたイトラはいい事を思いついたとばかりにエリオールを指差す。


「おいお前、一発殴らせろや」

「何言ってんだおっさん。てめーの勝手な勘違いで人を殴ろうとすんなよ」

「おっさんじゃねぇ。あっしはまだ二十三でさぁ」

「いや、絶対見えないから」

「そうでしたの!?」


軽く手を振りながら否定するエリオールの隣では、女が驚きで開いた口元を手で隠していた。


「お嬢~~?」


ガックリという音が聞こえてきそうなくらい肩を落としたイトラは部屋の隅でいじけてしまった。


「それで、あんた達は何者なんだ」

「私は義賊『光の導』のユニですわ。後ろの二人はイトラとフトレ」


ふふん、と自慢げにユニが胸をはると、豊かなお胸様がより強調された。


「『光の導』?知らないな」

「そうでしょう、そうでしょう。光の導と言えば悪を挫き弱きを助ける正義の味方・・・って、何ですって『光の導』を知らないなんて、あなたどんな世間知らずですの」

「・・・うるせえな、知らねえもんは知らねえんだよ」


 ユニの物言いにはカチンときたが、エリオールが世間知らずかどうかと問われれば、里の外の世界を知らないエリオールは世間知らずだった。


「・・・。まぁ、いいですわ」


 全然納得できていない顔で話を切り上げると、散らかっている部屋を見回した。


「それで、貴方がこの塔に閉じ込められて、アーティファクト作りを強要されているかわいそうな美少女、でよろしいですの?」

「あっしは美幼女と聞いていましたぜ!」


 涙を流しながら叫ぶイトラをドン引きしたユニは生ごみを見るような目で見ていた。


「美少女かどうかは置いておいて、まあ見たとおりだな」

「そうですの。それでは、私達『光の導』が貴方を助けに来て差し上げましたわ。泣いて感謝するといいですわ」

「はあ?」


あまりにも押し付けがましい台詞に呆気にとられたが、助けてくれるというのであればのらない手はない。


「それで、どうやって逃げるんだ」





 エリオールが幽閉されている塔は何かの建物の一部なのだろう、周りは見張りが立ち、定期的に巡回もしていた。


「秘密の抜け道を使いましてよ。これで誰にも見られることなく町の外の一本木まで出られますわ」

「なんで、そんなもんがあるんだよ」

「この建物はここら一帯を治める領主の屋敷でしてよ。こういう建物には、主しか知らない抜け道と言うものが往々にしてあるものですわ」

「なんでお前らがそんなもの知ってんだよ」

「つべこべ言わずてめぇはついてこりゃいいんで」


 いつの間にか近くにいたイトラが苛立ちを隠さず言った。


「そうですわね。いつまでもここにいても仕方ないですし、見つかる前に行「何だ、お前ら」きますわよ」

 

声のほうを見るとクソまずい昼飯を持ってきた衛兵がいた。


「チッですわ、見つかってしまいましたわ。イトラ」


 声をかけられた時にはすでにイトラは駆け出し、いつ手にしたのかわからないナイフで衛兵の喉下を切り裂いていた。


「ああ見えて、イトラはナイフの達人ですのよ」


 我が事のようにユニは自慢するが、憎い相手とはいえ顔見知りの。満更ではないイトラは照れ隠しでハットの位置をなおした。


「侵入者だー」


倒れた衛兵の影にはもう一人小柄の衛兵が立っていた。

衛兵の叫び声に反応する声が階下から聞こえてくる。

イトラがナイフを振りかぶるが、振りかざしたナイフは衛兵が突き出した水差しに偶然当たって防がれた。

イトラは間髪いれず衛兵の鳩尾に蹴りを放ち、後ろによろめいた衛兵はそのまま螺旋階段を落ちていった。


「「「よし」」」


義賊を名乗る三人は同時に親指を立てた。


「よし、じゃねえだろ。どうすんだよ、見つかっちまったら、もう階段で下には降りれねえじゃねえか」


「まあまあ、少し落ち着くんすブラザー」


 エリオールの肩を叩いたチビデブイトラは、いつの間にかスキットルをポケットから取り出して口にしていた。


「あっしらが他に方法を考えてないわけないっしょ」


 イトラはエリオールの顔にわざとプハァと息を吹きかけた。


「クッサ!!」

「くさくねっす!!はぁ、だからしょんべん臭いガキは嫌なんす。いい酒と悪い酒の区別すらできない」


イトラはゴミを見るような目で見てきた。


「そんなことどうでもいいですわ。フトレ、お願いしますわよ」

「で、でも~、三人同時はちょっと~」

「つべこべ言わず、さっさとやりなさい」

「わ、わかったよ~~」


 ユニの怒声で雷に打たれたように動き出したフトレは、長い手で三人を抱きかかえると窓から飛び出した。

 フトレが何かを叫ぶと、四人の体は何かに包まれ、ゆっくりと落下していく。


「ちょっと、何処を触ってますの」

「んんんんん~~~」


突然フトレが近づいてきたことで身構えたエリオールは、ユニの豊満な胸に顔を埋める形になった。

必死に体勢を整えようとするが、ガッチリと抱きとめられているせいで身動きはとれず、ただいたずらにユニの体をまさぐる結果になった。

地上に足が着くと、四人を包み込んでいた風はどこかに飛んで行った。


「最低ですわ、このけだもの」


フトレの腕から開放されたエリオールの頬を、パンッと乾いた音と共に激しい痛みが走り抜けた。


「畜生、お嬢の体をまさぐり、撫で、揉みしだくなんて、クソガキ羨ましすぎるっす。もとい、許さんっす!!」

「イトラ~、本音が漏れてるよ~~」


パンパンッと立て続けに甲高い音が鳴り、三人の男はそろって頬を押さえるはめになった。


「貴方達、こんなときに何を言ってますの。もうホント最低ですわ」


顔を真っ赤にしてユニが吠えた。


「なんで僕まで~~」


頬をさすりながらフトレが呻いた。


「連帯責任ですわ!」


ユニは悪びれもせず言い切ると、エリオールに人差し指を向けた。


「全部貴方が悪いんですわよ。いくら私が魅力的だからといって、やっていい事と悪いことがありますわよ」

「な、てめぇ、あんなもん不可抗力だろうが。別に好きで触ったんじゃねえぞ」

「まあ、あれだけ強く、いやらしく私の体を触っておきながら、それは通用しないと思いますわよ」

ユニが両の腕で自分の体を抱きかかえると、腕に挟まれた豊かな胸部が強調された。エリオールはその双丘に目を奪われ、柔らかさを思い出してしまい言葉に詰まる。

ユニがいぶかしげにエリオールを見て口を開こうとするが、それよりも早く声が聞こえてきた。


「こっちに降りたはずだ。なんとしても探し出せ」


四人は顔を見合わせると、そろって走り出したが、少し遅かった。


「こっちだ、こっちにいるぞ」

「やばいですわ」


四人が走り出した方から追っ手が現れ、Uターンして来た道を戻る。


「待て、お前達。止まれ」

「止まれと言われて止まるバカなんていませんわ」


イトラが先行し、その後を見るからに鈍そうなフトレが続いた。ユニは後ろの様子を窺いながら走っているが、スピードは落とさず二人の後を追った。

エリオールの鈍った体では何とか必死で食いついていくのが精一杯だった。

追っ手は次第に数を増やし、気がつくと十人近くの男達が後ろを走っていた。

四人が走る道は本通りに突き当たり、方向転換したエリオール達は行き来する人間の間を縫って走る。


「おい、奴らを、振り切る、方法は、何か、ねえのかよ」


半年にも及ぶ監禁生活で運動不足のエリオールの体力は限界、すでに息が上がっていた。

ユニは少し考えてから真剣な表情でエリオールを振り返る。


「そうですわね、振り切る手段も無いことは無いですわよ」

「なら、頼む、悪いけど、俺、もう限界だ」

「これは最終手段なのですけど」

「それでいい、頼む」


すでに限界が近いエリオールは、ユニに頼りきりになり考えることを放棄していた。


「そうですわね。どうしてもと言うのであれば、仕方ありませんわね」


そして、エリオールはユニが一瞬だけ浮かべた微笑を見逃した。

次の瞬間、死に物狂いで走るエリオールに並走していたユニの体が沈み、彼女の地を這うような回し蹴りがエリオールの足を捕らえる。


「え」


自分の身に何が起こったか理解できないまま、エリオールの体は地面に向かっていく。

反射的に伸ばした手は何かを掴んだが、プチッと頼りない音をさせただけだった。

全力疾走していたエリオールは受身を取ることすら出来ず十メートル近く転がって止まった。


「悪りぃなクソガキ。生きてりゃまたどこかであえるさぁ」

「ご~め~ん~ね~」

「ここからは別々の道を行くことにしましょう。健闘を祈りますわ」


イトラはニヤニヤ笑いながら人差し指と中指を立てて敬礼し、フトレは申し訳なさそうに両手を擦り合わして、ユニはウインクと投げキスをして走り去っていった。


「ちっくしょう、この、へっぽこ義賊。てめえら、覚えてろよ」


上半身を何とか持ち上げ、エリオールは走り去る義賊たちの背中に、どちらが悪役なのかわからない台詞を投げかけた。

追っ手を押し付けられたエリオールは、横道へ駆け込んだ。

先頭の男はエリオールがこけた所まで来ると立ち止まり、すでに走る背中が小さくなっていた三人組の方を向いて舌打ちした。


「スモール、フライは奴らを追え。残りはこっちだ」


はっ。男の号令で二人の男は三人組を追い、残りは男に続いた。



裏通りに続く横道は人気が無かった。

四人並べば塞がってしまう狭い路地を男達は連なって走る。

人っ子一人いない路地を進むと、裏通りに抜ける直前に人が座っているのに気がつき足を緩めた。

路地に座り込んでいる人間は薬箱にもたれかかり、敷物の上に数点のアクセサリーを並べている露天商だった。

商人は目深にフードを被り顔を隠していて怪しかったが、並べられている商品は、装飾品一般に疎い男の目から見ても見事と思えるような一品で、思わず目を奪われてしまった。

商人の風体からは、どう見ても盗品などの訳あり商品にしか見えなかったが、男は完全に魅了されていた。

男は手を伸ばそうとするが、商人のわざとらしい咳払いで我に帰り、何とか本題を口にすることが出来た。


「おい、お前。水の民の小僧がここを通って行ったと思うのだが見ていないか」

「・・・あぁ、あの頭の悪そうな小僧のことじゃな」


商人は少し首を傾げてから思い出したように手をポンと叩いた。その声はしゃがれていたが確実に女性のものだった。


「そうだ。どっちに行ったかわかるか」

「その小僧なら、左に曲がって住居区の方に向かったが、その小僧は何かやらかしたのかや」

「奴らはこの国に仇なすレジスタンスの一味だ。見かけたら知らせるように」

「まあ、気が向いたらの」


 男は一瞬眉を歪めたが、すぐに駆け出し、他の者も後に続いた。


「・・・それで、お主らは一緒にはいかんでいいのかや」


 駆けていった男達の後ろ姿を目で追いかけていた商人だったが、その姿が見えなくなると、目の前に陣取る二人組みを見た。


「ああ、俺達はいいんだよ。どうせ捕まえても俺達の手柄にはならねえんだ。それよりババァ、いいもん持ってんな」


二人組みはじろじろと商品を物色すると、商人をにらみつけた。


「・・・そうじゃな。おぬしら如きでは一生働いても手が出んじゃろうな」

「ハハ。言うじゃねえかババァ。それは、てめえが持ってても宝の持ち腐れだ。だから俺達如きが有効活用してやんよ」

「有効活用してやるんだ。ありがたく思えよ、ババァ」


男が商品に手を伸ばした。


「勝手に触るな馬鹿者め。おぬしらのような汚い手で触れたら、商品の価値が下がるじゃろうが」

「んだと、ババ・・・」

キレた男が、商人に掴みかかろうとしたが、いつの間にか喉元に剣を突きつけられていた。

いつの間に剣を抜いたのか、そして、いつの間に喉元に突きつけられたのか。男にはまったく理解できなかった。

剣を突きつけられていた男は、己に突きつけられた見たことの無い剣を凝視する。これまでに見たことの無い形状をしているそれの刀身はしなやかに反り、光沢のある鋼は怪しく黒光りしていた。

こんな形状の剣は一度も見たことがなかったが、なぜかこれまでに見たどんな剣よりも切れるだろうと、男は本能で悟った。

冷や汗を流しながら、男はゆっくりと両手を上げた。


「ハハハ。悪かったよ。もう何もしねえから、この剣を下してくれねえか」


商人はフードの下からのぞくまったく興味なさげな目線を外し、剣を鞘に戻した。


「んな訳ねえだろ。甘いんだよ、ババァ」


もう一人が商人の隙をついて殴りかかるが、その拳は空を切り、男はそのまま地面に倒れこんだ。

両手を挙げていた男は目の前で起こった出来事を理解できず、目を丸くするが、次の瞬間には相方と同じように地面に熱烈なキスをすることになった。


「もう出てきていいぞ、小僧」


商人が言うと、怪しく揺れ始めた薬箱が独りでに倒れ、中からエリオールが出てきた。


「助かったよ、ばあさん」


よっこらしょっと立ち上がると、埃だらけの服をパンパンと叩いて身を整える。


「ありがとな。それじゃ、俺も用があるんで」


エリオールは手を振って立ち去ろうとしたが、剣の柄で頭を叩かれた。


「何処に行くつもりじゃ、おぬし」

「いってーな、ばばぁ。何処に行くって、奴らに見つかる前に逃げるんだろ」

「そんなもんは知らん。おぬし、もしやただで助けてもらえるなんて思っておらんじゃろうな。世の中はそんなに甘くないのじゃ」

「おいおい、感謝はしてるが、ばあさんが俺を一方的にあの箱ん中に押し込んだだけだろうが」

「ふーん。そんなことを言ってもいいのかや。今ここで大声を出そうかのう。先程の男にも頼まれたことじゃしのう」


ろくに顔も見えないのにニヤニヤと笑っているのが感じ取れた。エリオールが溜息をついた。


「わかったよ。それで、何をしたらいいんだ」

「それじゃ、酒でも一杯おごってもらおうかや」

「・・・悪い。俺金持ってねえんだ。他のことにしてくれねえか」


ある日突然半年の幽閉生活にピリオードを打ち、着の身着のまま準備すら出来ずに逃亡生活が始まったエリオールに所持金なんていうものは無かった。

エリオールは正直に言うと、商人は首をかしげた。


「何を言っておるのじゃ」

「何って」


理解できずにエリオールも首を傾げる。首を傾げて見つめあう二人だったが、商人は指を刺した。


「おぬしが握っておるそれは何なんじゃ」


エリオールは自分が肩掛け紐の切れたガマ口財布を握っていることに今はじめて気がついた。

ずっしりと手応えのあるガマ口の中身はそれなりのものだった。


「んじゃ、何処に行く?」


悔しがる金髪縦ロールの少女を思い浮かべると、自然と笑みがこぼれた。

俺、今悪い顔してるな、と自制して気を引き締めるが、商人のローブの下からクスリという笑い声が聞こえた気がした。


「それなら、いい所を知っておる。付いてこや小僧よ」


慣れた手つきで商品を片付けると薬箱を担いでスタスタと歩き出した。

意外と速い商人の後を追って裏通りに出ると、本通りほどではないにせよ、それなりに人通りがあった。

本通りには食料や衣服、薬などの生活必需品を売る店が多かったが、裏通りには酒場や宿が目立った。

そのためか、血気盛んなキャラバンの商人や明らかに怪しい男達、ゴロツキなどもちょくちょく目に付く。

角を曲がろうとすると、物珍しさでキョロキョロしていたエリオールの目に一瞬見覚えのある姿を見かけた気がした。

再びそちらに目を向けると、趣味の悪いシルク素材でピンクのテカテカしたジャケットを羽織った男が目に付いた。

その脂が乗りきってヌメヌメしていそうな男の後ろを歩く水の民の少女の後姿はやはりエリオールのよく知る女の子にそっくりな気がした。

声をかけようとしたとき、よそ見をしていたエリオールは何かにぶつかって尻餅をついた。

座ったまま見上げるエリオールの前には職人風の火の民の男が荷物を抱えて立っていた。

エリオールはすぐに立ち上がって謝ろうとするが、男は不快そうに舌打ちすると通り過ぎて行った。


「・・・なんだよ」


男の感じの悪さに腹を立てていたエリオールは、ふと思い出して、少女を探したが、見つけることは出来なかった。


「どうかしたかや」


振り向くと、足を止めた商人が訝しげにこちらを見ていた。こんなところにいるはず無いな、押さえ込んでいた何かが溢れ出してしまいそうな気がして、必死に頭を振ってその想いを振り払う。


「・・・いや、なんでもない」

「そうか、ならよい」


再び歩き出した商人の後を追いながら、エリオールはもう一度だけ少女の姿を探したが、やはり少女はいなかった。


エリオールが連れて来られたのは、いくつかの店がある中で他の店よりも一回り大きな酒場だった。

年季が入った机や椅子、カウンターはやや草臥れて傷んでいるところがあったが、手入れは行き届いており、汚い印象は無かった。

昼時ということもあってにぎわう店内を店員が忙しそうに駆け回っている。

行きつけの店なのか、商人は店に入ると慣れた様子で奥のテーブルに陣取り席に腰掛け、後を追うエリオールは商人の正面の椅子に腰掛けた。

商人はエリオールと同じくらいの背丈だったが、腰掛けると目線はずっと下にあった。エリオールの心は少し傷ついたが、商人は気にする様子も無く手を上げて店員を呼んだ。

商人に気がついた店員が急いでエリオール達のテーブルにやってきた。

頭は大きめの三角巾で隠してあったが、まだ幼さが残る少女の瞳は明るい水色で確実に水の民の少女だった。

エリオールは火の国で水の民が働いていることに驚き目を丸くするが、少女の方は気まずそうに目を伏せた。

エリオールがいぶかしんでいると、少女は気を取り直して商人にメニューを書いた紙を渡すと立ち去ろうとした。


「ちょっと、俺の分が無いんだけど」


少女のエリオールを無視した振る舞いに腹が立って、口をついて出た言葉には少しとげがついてしまった。

少女は、えっ、という顔をして、エリオールをまじまじと見ていたが、商人の「私の連れだが」と言う言葉で我に返ると、顔を真っ赤にしてメニューを手渡し、すみませんを連呼して去っていった。


「なんだ、あれ」


店員の対応にエリオールは呆気にとられたが、目の前の商人は何事も無かったかのようにしていた。

メニューを見ている商人はぶつぶつと何かをつぶやいていたが、エリオールにはそれよりも気になっていることがあった。

町中を逃げ惑っているときには気がつかなかったが、エリオールは酒場まで移動する間に多くの水の民を見た。

商人以外の民は他の国に行くことは少ない。

それも、対属性の国に行く民はまずいない。

エリオールは幼い頃に物知りな爺さんに聞いた言葉や、よく本を読んでいたリラの言葉、闇商人の言葉を信じきっていたが、無知なエリオールはもしかしてだまされていたのだろうか。

そうも思ったが、明らかに町で見かける水の民は皆みすぼらしく、疲れきった顔をしていた。

どう見ても好きでこの町にいるようには思えず、エリオールと同じような境遇の民がいるのかも知れないと思うが、それにしても多すぎた。

この町には何か特別な事情があるのだろうか。


「おぬしは頼まんのかや」


商人に声をかけられ、エリオールは自分がメニューを手にしたまま考え込んでいたこと気がついた。

すでに商人は注文を終えたのか、先程の少女がメモを手にしたままエリオールのことをちらちらと見ていた。


「あーと悪い。それじゃ、水牛のステーキとサラダ、あと水を頼む」


エリオールはメニューに目を通すと、その中から自分のよく知る名前を見つけて注文した。

塔に閉じ込められていたときは見たことも無い謎の料理が出てきて困惑したが、この店では水の国の食材もかなり扱っているようだった。

水牛のステーキなんて村にいたときにすらほとんど食べたことが無いご馳走だったが、かなりリーズナブルな値段で売られていた。

少女は小声で注文を確認するとエリオールと目を合わすことなく逃げるように去っていった。


「俺、何かしたかな」

「・・・さあのう」


エリオールの独り言に何か知っていそうな商人が返すが、それ以上は何もしゃべらなかった。


「そういえば、あれ聞いたか」


お互いに黙り込んでしまい静かになったテーブルに隣の男達の声が届いた。


「おうおう、聞いた聞いた。あれだろ、パームの腰ぎんちゃく魔獣に襲われてひどい怪我したんだって」

「そうなのか、俺はデストの野郎、商人に喧嘩を吹っかけたらこてんぱんにやられてショックで魔法が使えなくなったらしいって聞いたぞ」

「いやいや、あの荒くれが商人にやられるってことは無いだろ。確かにあんだけ偉そうにしてたのに商人にやられました、なんてことになったら恥ずかしくてもう外を歩けないかも知れないがな」

「ハハハ、違いない。まあ、そのおかげで今日は奴のいないこの店で楽しく飲めるんだ。魔獣だか商人だか知らないが、デストに焼き入れた奴に乾杯だな」

「乾杯」


男達は笑いながらエールの入ったジョッキを高らかにぶつけた。

パームのお付が代わっていた理由をなんとなく知って、今まで散々痛めつけられた溜飲が下がった気がした。


「はい、お待ち」


しばらくして、恰幅の良い火の民の女店主が料理を運んできた。

女店主は運んできた料理を全て商人の前に置き、エリオールのことを煩わしそうに見てから目の前に泥水のような濁った水を置いた。


「・・・おい、何のつもりだ、ババア」


意味がわからずポカンとしていたエリオールだったが、沸々と湧いてきた怒りを押さえ込んで静かにつぶやいた。


「何って、そっちこそ何言っているんだい。奴隷は黙って主人の食事が終るのを待っていればいいのさ。水を出してやっただけでもありがたく思いな」

「ふざけんなババァ、誰が奴隷だって」


エリオールはテーブルを叩き付けて叫んだが、女主人は訝しげにエリオールを見てから商人に向く。


「旦那、こいつの言っていることは本当かい」

「ああ、こやつはただの連れじゃが」

「ふん、紛らわしいね。まあ、奴隷だろうが無かろうが、うちとしては御代さえ貰えれば文句は無いからね」


再びエリオールを見た女店主は悪びれる事も無く言うと、厨房の方へ戻っていった。


「おい、何なんだよこの店は。人のことを見るなり奴隷とか、ありえないだろ」


エリオールが怒りをあらわにして商人に突っかかると、フードを目深に被ったまま、チビチビと酒を飲んでいた商人が首をかしげた。


「もう、水の国は無いんじゃ、こんなところで水の民がウロウロしておったらそう思われても仕方ないじゃろ」

「・・・は?何言ってるんだお前。水の国が無くなるなんて、あるわけ無いだろ」


商人の突拍子もない話に、エリオールは怒りも忘れてキョトンとした。


「おぬし、何も知らんのか」

「おい、冗談だろ。なあ、そうなんだろ」


エリオールにすがるような目を向けられて商人は黙り込み、手元の酒を一口飲み下して口を開いた。


「半年くらい前じゃったかな、突然、火の国が水の国に攻撃を仕掛けた。

 理由は多々あるようじゃったが、一番の理由は水不足じゃろうな。元来水資源が少なく、その領土の大半が砂漠や荒野で占められ、荒涼たる風景が広がっておる。火の民は少ない水を求めオアシスに集い、鍛冶や細工で収入を得、雨期に降る水だけを頼りに家畜を育て生きてきたんじゃな。

 じゃが、ここ数年は、雨期にすら十分な雨が降らんようになったようじゃ。牧草は育たず、家畜はやせ細り、民は餓え、ついに餓死するものが現れるようになった。

次第に民は自分達の境遇を憂い、裕福な隣国を恨むようになったのじゃ。

火の国が水の国を攻めた。そんな噂が聞こえてきたのは、そんな折じゃった。

反属性の国に攻め込むなんぞ所詮は無理な話、そう皆が思っておった。

しかし、火の国の軍には土魔法を使う者が幾人もおった。

元々水魔法は守りや癒しを得意とする魔法形態じゃ。火の国の猛攻に苦戦する水の国は次第に攻め込まれていった。

そして、その日はそれからすぐ訪れたのじゃ。

水の国が鎮圧に軍を差し向けると、手薄になった王都を火の国の軍が急襲し制圧した。

元々交易が盛んだった国じゃ、事前に伏兵が送り込まれておったのじゃろうな。

王城は焼け落ち、水の国は滅びた。食料や財産は火の国に運びだされ、多くの水の民が奴隷として連れ出されたのじゃ。

じゃが、女王はまだ死んではおらんと言う噂もある。

それを信じて水の民の中にも未だに抵抗を続ける集団も多いようじゃ。

実際、火の国には依然として雨の気配も無いようじゃし、女王の力は奪われておらんのかもしれんな」

「おい、半年だぞ。たった半年。俺の捕まっていた間にどうしてこんなことになんだよ」

「じゃが、まあ、たとえおぬし一人がそこに加わったからって何も変わらんかったじゃろうよ」

「だけど、もしかしたら何か出来たかもしれねえだろ」

「まぁ、今更たらればと言ったところで仕方が無いんじゃがな」


そう言って、商人は口をつぐんだ。

その後、二人とも黙り込んだまま昼食を食べた。

この半年、見ることも無かった豪華な食事だったが、エリオールには何を食べても味がしなかった。

食事が終ると、商人が席を立ち、エリオールも後に続いた。

会計ではエリオールの差し出したコインを女店主は何度も何度も裏返し、コイン同士をぶつけて音を確認した。「どうやら偽物ではないようだね」と言い捨てる無礼な態度にも今のエリオールは怒りすら湧いてこなかった。

酒場から出ると、商人は「ご馳走様じゃ。それではの」と去っていったが、エリオールは黙って見送るだけだった。

塔を脱出できたら、何とかなる気がしていた。

しかし、実際は自分の生まれた国は無くなり、故郷の仲間も無事かはわからない。

極め付けはエリオール自身が故郷の村の名前を知らない。

村の名前がわからなければそこに帰ることは難しく、一度も村から出たことの無いエリオールには周辺の土地を手がかりにしてたどり着くことも出来ない。

ただわかるのは、自分が住んでいたのは水の国のどこかの村であり、その水の国はすでにこの世に存在しないという事実だけだった。

途方に暮れたエリオールは正体無く町をふらつき、そして活気に満ちた市場にたどり着いた。


「安いよ安いよ。今日入荷したばかりの水牛の肉だ。柔らかくてジューシーな肉だよ。火馬なんかの肉より断然うまいのに今ならその半額だよ」


火の国にありながら、この町の露店では水の国の特産品が並び、二束三文で売り叩かれている。

きっと、水の民が手間暇かけて愛情を注いで育てたものを奪ってきたのだろう。

半年前には餓死する者もいたと聞いたが、今では水の民を搾取することで贅沢を極めていた。

そんな市場を通り抜けようとすると、エリオールの目に今までとは違う異様な活気に包まれた場所があった。

人だかりの先には鉄で作られた牢があり、中には水の民の少女達が捕らわれていた。少女達はその細い手足に錠をはめられ、鎖につながれていた。

まるで動物を競にかけるように少女達の値段が興奮する男共に決められていく。

それは、奴隷売買の会場だった。


「旦那ァ~、それ以上は出ないかい。そうじゃないと、旦那のお気に入りのこの娘は、あちらの旦那のものですぜぇ」

「うーん、しかし、これ以上は」

「そうですかい。それは惜しいですねぇ。この娘はまだまだ処女なんですが」

「なに、それでは、あと百・・・いや二百だ」

「それなら、こっちはさらに百だ」

「グヌヌヌヌゥ~。じゃあ、さらに五百だ」

「なにおぉ~~」


男達の醜い争いの末に少女は骸骨のような小汚い男が落札した。

奴隷商人は、泣きじゃくる少女を捕らえる鎖を引っ張り上げると新しいご主人様に挨拶をさせた。

その場で現金と交換された少女は、犬のように鎖を引かれながら悲痛な面持ちで連れ去られた。

エリオールは同じ水の民の少女が売買される、その光景をただ呆然と眺めていた。

舞台にいた奴隷商人はボルテージが上がっていたため脱ぎ捨てたのか、落ちていたジャケットを拾うと、仕切りなおして着た。

胸焼けがしそうなピンクのジャケットを着た奴隷商人の顔は脂汗でテカっており、その姿はつい先程エリオールが見かけた男と酷似していた。

あの中にノーティがいるかもしれない。

そう思うと、エリオールはいても立ってもいられなくなった。

エリオールは熱気がこもり汗だくの男達を押しのけ、舞台近くまでたどり着いた。

牢にはまだ十人近くの少女達が捕らえられていたが、ノーティの姿は見当たらなかった。


「ノーティは何処だ」


頭に血が上ったエリオールは、いつの間にか舞台に上り奴隷商人の首を締め上げて叫んでいた。

初めは客もアシスタントもポカンとしていたが、エリオールは我に返ったアシスタント達に引き離され、床に押さえつけられた。


「ゲホッゲホッ、何ですか貴方は」

「ノーティを、ノーティを何処にやった」

「ノーティ、何ですそれは」

「お前が捕まえた女の子の中にノーティがいたはずだ。忘れたなんて言わせねえぞ」

「ノーティ、はて、商品に名前など必要ありませんからな」

「畜生、このクソ野郎。離せ、この」


エリオールは全力で暴れるが、地面に押さえつけられたまま振り払うことは出来なかった。


「まったく、威勢が良いガキですね。一体誰の奴隷ですか。躾がなっていませんよ」


奴隷商人は迷惑そうに会場を眺めるが、どよめきがきこえるだけだった。誰も名乗りでないと奴隷商人は溜息をついた。


「ハァ、誰か憲兵を呼びなさい。まったく、これだから水の民って奴等は」


奴隷商人はエリオールを見下ろし唾を吐きかけた。

ゴミを見るような目でエリオールを見ると、奴隷商人はアシスタントに手振りで片付けるように指示し、次の商品となる少女の元に向かおうとした。


「ちょっと待てよ、ジジイ。まだ話の途中だぜ」


振り返った奴隷商人の足元にはエリオールを押さえつけていたはずのアシスタント達が転がり、アシスタント達に押さえつけられて、動けなかったはずのエリオールが立っていた。


「ほう、なかなかやるようですね。ただのゴミかと思いましたが、なかなか良い商品になりそうではないですか」


醜悪な笑みを浮かべ、舌なめずりする奴隷商人は、値踏みするようにエリオールのこと舐めるように見た。

エリオールは背筋に寒いものを感じて怯みそうになるが、何とかこらえて自分の周りに出来る限りの水球を展開した。

展開された水球はエリオールの怒りに反応するように渦を巻き、次第に細くなり針のようになった。


「うるせえジジイだな。聞いていることだけしゃべればいいんだよ」


エリオールが右手を奴隷商人に向けると、ゆらゆらと空中に漂っていたそれはピタッと止まり、奴隷商人を照準した。


「威勢がいいですね。しかし、アススタント共を倒したくらいで、この陰火のイルドフと呼ばれた私に適うと思わないで欲しいですね」


イルドフが右手を左から右へとなぞるようにかざすと、青い炎が現れエリオールに襲い掛かる。


「青い炎、それは、すなわち私が強いという証拠に他なりません。

青い炎は赤い炎の何倍も高い温度なのですよ。この炎に触れたら、貴方如きの体でしたら、骨すら残さず燃やしてしまうでしょう。

まあ、手足の一本や二本無くなったところで死にはしませんよ」


エリオールの繰り出すウォーターニードルは青い炎に飲み込まれ数を減らしていくが、炎の勢いは弱まる気配が無かった。


「クソッ」


オアシスがある町とはいえ、砂漠からの熱風が吹き込むこの地では水の気は少なく、エリオールは思ったように攻撃を繰り出せない。

青い炎はゆっくりとしかし確実にエリオールを攻めていた。エリオールはイルドフの攻撃から逃げることしか出来ず、いつの間にか舞台の端まで追い詰められていた。

青い炎をぎりぎりでかわしたエリオールだったが、右足の踵は舞台からはずれ、バランスを崩したエリオールに青い炎が容赦なく襲い掛かった。

エリオールは咄嗟に残りの水弾を一つに集め放つ。

苦し紛れの一撃は迫り来る青い炎の一部を打ち消すが、一気に立ち上る蒸気に巻き込まれ、エリオールの足は舞台から離れていた。


「世話が焼ける」


耳元で声が聞こえると、舞台から落下しはじめていたエリオールの体は抱きとめられていた。

そのまま、ふわりと重力に逆らって浮き上がり、イルドフの隣に着地した。

着地の瞬間エリオールは放り出され、尻を盛大に打ちつけた。

痛みで肺の中の空気を吐き出してしまったため、一息ついて「おい」と文句を言おうとしたが、蒸気が消えエリオールの目の前に現れた光景に息を飲んだ。

イルドフの腹にエリオールを助けた商人の放ったボディーブローが刺さっていた。

刺さっていたと言うと言い過ぎに聞こえるかもしれないが、肘から先が完全にイルドフの腹にめり込んでいた。

意外と細い腕が引き抜かれると、何かを握りこんだ手が一瞬見えた気がしたが、すぐにローブの中に引っ込んでしまった。

もしかしたら、内臓の一つでも抜き取ったのかもしれないと思うと背筋が恐怖で引きつった。

しかし、目の前で起こった一瞬のやり取りの後、エリオールの隣に倒れこんだイルドフは泡を吐いてこそいたが、腹からは一滴の血液も流れてはいなかった。

手品のような光景に呆気にとられていたエリオールだったが、相変わらず全身をローブで隠した商人に手をとられると、引かれるままに走った。

背後で誰かが叫んでいるような気がしたが、キャパオーバーでショート寸前のエリオールの頭には届かなかった。


エリオールの手を引いたまま走り続けていた商人だったが、町の入り口まで来ると足を止めた。

手を離して商人は振り返った。

手を離されて初めてエリオールはその手の小ささに気がついた。

今まで握られていたところを凝視していると、商人が口を開いた。


「それで、おぬしはこれからどうするんじゃ?」

「どうするって、何が?」


言葉の意味が理解できないエリオールを見て、商人は溜息をついた。


「あれだけの騒ぎを起こしたんじゃ、このままこの町に留まるなんてことできんじゃろ。まぁ、もともと追われておったようじゃがな」


エリオールはやっとで現状を理解して息を飲んだ。

身につけているのは、水の国から出て半年、身長が伸びてサイズは小さくなったが、なれない環境と質素な食事で痩せたことで何とか着ていられる服と、自分のために作ったアクセサリー数点のみ。手荷物は無く食料も無い。

所持金は金髪縦ロールから拝借したガマ口の中身があるが、旅装を調えるほどの額は無く、例えあったとしても町に戻るわけにもいかない。

途方に暮れるエリオールの様子を見て、フード越しでも商人が苦笑いしているのがわかった。


「何の因果か、わしもほとぼりが冷めるまでは町に戻ることはできんそうじゃ。まぁ、幸いこの町での用事は終っておるし、確か近くに村、と言っても小さな集落なんじゃが、あったはずじゃ。わしはそこに行こうと思うが、おぬしはどうする?」


思いがけない商人の言葉に戸惑いエリオールは町を仰ぎ見て逡巡したが、やがて商人に向き直ると頭を下げた。


「まぁ、そんなにかしこまらんでも良いよ。そういえば自己紹介がまだじゃったな」


そう言ってフードを脱ぐと、その下からまだまだ幼い美少女が現れた。


「わしの名はナギじゃ。よろしくの」


そのしゃがれ声からは想像もできない美少女が現れ、エリオールは仰天した。

ナギが右手を出すが、エリオールは自分に向かって伸びてくる小さな手を凝視するだけで、固まったまま動けなかった。

ナギのくりっとした大きな目は、唖然とするエリオールの顔を見て細められた。

ナギがくすりと笑うと、後ろで一本にまとめられた腰まで届きそうな髪が、さらさらと揺れた。

その髪と瞳は青く、空よりも海よりも青い、真っ青で、ただひたすらに青かった。


オアシスの周囲には緑が溢れていたが、オアシスを取り囲むように広がった町の中ではその量が大分少なくなる。

町のはずれに行くほどそれは顕著になり、町を出ると一面に砂漠が広がるだけだった。

太陽の光を遮るものは無く、灼熱の太陽は容赦なく旅人に襲い掛かった。

そして、例に違わず砂漠を行く大小二人の旅人にも当然のように襲い掛かる。

大きい方の旅人は、長年使い込まれ、あちこち擦り切れ解れた茶色のローブをすっぽりと被り、背中には大きな薬箱を担いでいた。

線は細く背丈もそこまで高くないが砂に足がめり込むところを見ると、担いでいる薬箱が相当に重そうだ。

小さな方の旅人は、真っ黒な生地の端にピンク色の花びらが散らしたような柄のローブを被っていた。少女が歩くと後ろで括った腰まで届きそうな青い髪が猫の尻尾のように揺れる。

まだ振り返れば町が見えるほどしか離れていないが、大きい方の旅人は立ち止まった。

膝に手をついて俯くと、玉のような汗が額から溢れ、頬を伝った汗は顎から落ちた。

しばらく切っていない伸び放題の髪が肌に張り付くと、鬱陶しいのか髪をかき上げた。


「ちくしょー、暑いー、重てー。なんで俺がこんなもん持たなきゃいけないんだ」

「なんじゃ、こんなか弱い幼女にそんな重たいものを持たせるつもりかや」


炎天下の中、慣れない砂上の行軍で疲労困憊のエリオールが愚痴ると、隣を歩いていたナギがニヤニヤと笑っていた。


「一体何が入ってんだよこれ」

「それは乙女の秘密じゃな」

「何だよ、乙女の秘密って。重すぎるだろ」

「・・・なんじゃ、無粋な奴じゃな。体重と年齢と秘密を訊かないのが男のマナーじゃろ」

「はあ、まあいいや」


ジロリと睨まれ、エリオールは追求を断念し溜息をつく。


「てか、お前今までこれかついでたんだから、持てるだろうよ」

「まあ、余裕じゃな。じゃが、今は無理じゃな」

「何でだよ」

「これがあるから無理じゃ」


ナギは背中を指差した。

ナギの背中には身長よりも長い剣がくくり付けられていた。その先端は地面につき、剣を納めた鞘は地面に擦っていた。


「じゃあ、今まではどうしていたんだよ」

「腰に差していたに決まっておるじゃろ」

「じゃあ、そうしろよ」

「高下駄を履いていない今は無理じゃな。こんな砂地では履けんからの」


街中でエリオールと同じくらいの身長だったのは、高下駄を履いて身長を誤魔化していたからだった。

それは、幼女の身で商売するわけにはいかず、姿を隠して商売をするための手段であり、知恵だった。


「じゃあ、その剣を俺が持っててやるよ」

「剣ではない、刀じゃ。遥か昔、大陸の東にあった島国で作られていた貴重な剣じゃ。おぬしには任せられんよ。何にせよ、おぬしが運ぶしかないのじゃ、大人しく運ばれよ」

「ハイハイ、わかりましたよ」


どちらにしても自分一人では何も出来ないエリオールはナギに従うほか無かった。


それから丘を一つ越えると、砂漠の真ん中に大きな木が生えていた。


「ほれ、おぬし。一本木が見えてきたぞ」


ナギは大きな木を指差していた。

ナギの指差した木の下には木陰で商売をする行商人がいた。


「安いよ安いよ。砂漠越えをするんなら準備はしっかりしないとダメだ。忘れ物は無いかい。水はしっかりと持ったかい」


二人が一本木に近づくと商人の元気な声が聞こえてきた。


「何でこんなところで商売してるんだ?町で売ったほうが人も来るだろ」

「はっはー。そりゃ、関税がかかるからさ」

「うわっ」


エリオールの独り言にいつの間にか隣にいた商人が答えた。


「悪い悪い。驚かせちまったか」

「いえ、別に。それで、関税がかかるって?」

「はっはー。関税は関税さ。商人が町に入ろうとすれば、持っている商品に税金が掛けられ、領主に吸い上げられるって寸法さ」

「でも、町に入らないわけにはいかないでしょう?そもそも、町に商品を売りに来たんじゃないんですか」

「はっはー。その通りだ坊主。だが、俺達も生きている限り水や食料は必要だ。そして、それは旅人も変わらない。そこで、町に売り込む商品だけじゃなく、行商途中で出会った旅人達に売る為の商品も積み込むのさ」

「じゃが、売れ残ったものを町へ持ち込んでしまっては余計な関税を取られてしまうからの。ここで出来る限り売り払ってしまってから町へ入りたいのじゃろ」

「はっはー。お嬢ちゃん、よくわかってるね。そこでだ、この水の国から運ばれた最高級の水を買わないかい」

「そんなものはいらぬ。水ならあそこの井戸の水を飲めばよいじゃろ」

「はっはー。違いねえ。お嬢ちゃん、よく見てるね」


ナギが一本木の根元にある井戸を指差すと、行商人は悪びれることなく笑った。


「まあ、ここで会ったのも何かの縁じゃ。そこの酒を二本貰おうかの」

「はっはー。お嬢ちゃん、お目が高いねえ。これは水の国特産のレインマスカットを使った高級ワインだよ。お嬢ちゃんには少し早いかもしれないが、何かの縁なら仕方ねえ。特別に安くしとくよ。二本でこれでどうだ」


行商人はそろばんを弾いてナギに示した。


「・・・こうじゃの」


行商人の示したそろばんを覗き込むと、玉を二つほど弾いて、ナギは極上の笑顔を見せた。


「はっはー。きっついなー、お嬢ちゃんは。・・・負けたよ、これで手を打とう」


ナギの極上スマイルを向けられて言葉を詰まらせた行商人は、自分の額を叩いて負けを認めた。


「おぬしは良い男じゃな」

 

二人はガッチリと握手を交わすと料金を払い、エリオールの背負う薬箱にワイン二本分の重みが追加された。


その後エリオールはワインを安く融通してくれた行商人から衣類や靴を一式買いそろえた。

その時まではまだ余裕があったがま口の中身も、食料や水筒、カバンなど旅に最低限必要な物をそろえると、すっかり空っぽになり、中には謎の人形が残るだけとなった。

一本木で休憩を取った二人は進路を北にとり、日が暮れかけたころには村にたどり着いた。

特に門や外壁のない村に入るが、多くの民家は傷み、荒れ果てた大地に畑と呼べるようなものは無く、家畜の鳴き声も聞こえなかった。


「お前の言っていた村って言うのは、ここのことか?ただの廃墟にしか見えないが」

「うむ。確かに二、三年ほど前に来たときには、小さいながらも活気のある村じゃったんじゃが。とりあえず人がおらんか見てまわるかや」


二人は一緒に村の中を歩くが、人の住んでいる気配の無い民家は、屋根は朽ち、壁は剥がれ、荒れ果てた様子はまさに廃屋だった。

畑は荒れ、何かの動物に踏み荒らされた跡があった。

家畜がいたと思われる小屋には穴が開き、壊れた策の中には、馬のような動物の骨が転がっている。

沈鬱とした表情で歩く二人は会話も無く散策を続ける。村の中央まで来ると、井戸で水を汲むおばさんを見つけた。


「あの、すみません」

「あらあら。こんなところにお客さんなんて珍しいわね」


エリオールが声をかけると、おばさんは一瞬困惑して周りをキョロキョロしたが、二人の姿を認めると、パッと表情が明るくなった。


「はあ、あの、泊まれるところを探しているんですが、どこかありますか?」

「泊まれる所かい?どの家も空き家だから、どこで寝てもらってもかまわないんだけど、どの家も掃除なんかしていないからね。・・・そうだわ。家に来なさいな。そうだわ。それがいいわ。少し狭いかもしれないけど、掃除がしていないよりはずっといいはずよ。ハイ、決まりね。そうと決まれば、すぐ行きましょ。さあ、ついていらっしゃい」

「・・・あの、水は汲まなくていいんですか?」


テンションが上がったのか、二人の意見も聞かずにズンズンと歩き出すおばさんに、エリオールはおずおずと声をかけた。


「あら、私ったら、久しぶりのお客様だったから、ついついはしゃいじゃって」


振り向いたおばさんは顔を赤らめて舌をチロっと出し照れ笑いした。


「それじゃあ、少し待ってちょうだい。すぐ終らせるから」


そう言って、おばさんは井戸に釣瓶を落とした。釣瓶は井戸の底まで達すると、『ベチャ』と水溜りに何かを落としたような音がした。

おばさんが慣れた手つきで釣瓶を引き上げると、そこには泥水が溜まっていた。おばさんは恥ずかしそうにこちらを見ると、桶に溜まった泥水の上澄みだけを水瓶に移した。


「最近は雨期にすら雨が降らなくてね。日に日に水が少なくなって、今ではもうこの通り泥水しか出ないんだよ。この井戸も、もうダメだね」


あんた方にはわからないかな。おばさんは苦笑いを浮かべると、釣瓶から泥を掻きだし、再び井戸の中に落とした。エリオールは、おばさんが同じ事を繰り返し水瓶の中を少しずつ泥水の上澄みで満たしていくのをただ眺めていた。

エリオールは水が豊富な水の国で生まれ育ち、火の国に連れて来られてからも、喉が乾けば自分で調達し喉を潤した。

水があるのが当然で生きてきたエリオールにとって、水が無くて困るということが、知識としては知っていても理解はできていなかった。

そんな思いをしたことが無いエリオールは、泥水を汲み続けるおばさんをみて胸が苦しくなった。

隣にいたナギも思うところがあるのか、思いつめた顔をしていた。


水汲みが終ると、二人はおばさんの後について歩いた。


「ごめんね、お嬢ちゃん。重くないかい」


水瓶はナギが持ち三人はおばさんの家に向かっていた。


「よい。大した重さではない。それと、お嬢ちゃんではなくナギだ」

「そうかい、それじゃ、お願いするわね、ナギちゃん」


おばさんは笑うと、何かを思い出したか手を叩いて、振り返った。


「そういえば、自己紹介をしていなかったわね。私はメイアよ。よろしくね」

「僕はエリオ・・・」

「・・・僕?」


メイアに促されて名乗ろうとするが、エリオールの言葉に横目でエリオールを見ていたナギが重ねてきた。

エリオールはコホンと咳をついて仕切りなおす。


「僕はエリオールです」

「そう、エリオールね。よろしく」


くすくすと笑うメイアは本当に楽しそうに見えた。


「それじゃ、日が暮れる前にお家へ入りましょうか」


メイアは小さな一軒家の前に立ち止まると、二人を家の中に招き入れた。

家の中は必要最低限のものしかなく小奇麗にしているというよりも、こざっぱりとした印象だった。


「二人はこっちの部屋を使ってね」


エリオールとナギが案内されたのは、ベッドが一つと机、椅子、衣装棚と最低限の調度品が置かれた部屋だった。


「・・・えっと、寝床が一つしか無いんですが」

「あら、兄妹ならかまわないかと思ったのだけれど、ごめんなさいね。後からお布団を一組持ってくるわね」

「すまぬ。兄は寝相が悪くての。一緒に寝ようもんなら、次の朝は痣の四つや五つは覚悟をせねばならぬのじゃ」


エリオールが否定する前に、ナギの口から驚くほど滑らかに嘘が出てきた。

エリオールはメイアと目が合うと、苦笑いでその場を誤魔化した。

咄嗟の嘘にボロを出さなかった自分を褒めてやりたいくらい自然な苦笑いだっだ。


「あらまあ。それはナギちゃんも大変ね。でも、寝相じゃ仕方が無いものね」

「そうなんじゃ。何度言ったところで、こればかりは直らんのじゃ」


楽しそうに語るナギに、オイと目で伝えるが、ナギはどこ吹く風でメイアと話していた。エリオールはこれ以上おかしな設定をつけられないように口を出した


「でも、いいんですか?僕達がこの部屋を使ったら、普段この部屋を使っている人が困るんじゃないですか?」

「・・・ああ、いいのよ。今は私一人しか住んでいないから。と言うより、この村には私独りしか暮らしていないから・・・。そんなことより、ご飯にしようかね。お腹がすくと人間ろくなことを考えないからね」


メイアは遠くを見るような目をしたが、すぐに二人に向き直るとにっこりと笑った。


「まあ、トウモロコシの粉しかないから、村一番と言われた自慢の腕を振るうことも出来ないんだけどね」


メイア寂しそうに笑うと、ナギがエリオールが苦労して運んできた薬箱を軽々と担ぎ上げた。


「食材なら多少の持ち合わせはあるのじゃ」


ナギは薬箱をゴソゴソとあさると、どこにこれだけのものが入っていたのだろうか、明らかに薬箱の体積よりも多い食材が出てきた。


「でも・・・いいのかい?」


豊富な食材に驚きながらも、何も疑問に思っていない様子のメイアがおずおずと口を開く。


「かまわぬ。折角、村一番の腕を披露してくれると言うのじゃ、存分に堪能せん手は無いじゃろ。運が良いことに、上物のワインを手に入れたところじゃし。うまい馳走を頂きながら一緒に飲んではくれんかや」


ナギがニヤリと笑うと、メイアもニヤリと笑い返した。


「そこまで言われちゃ、私も腕を振るわないわけにはいかないね。その可愛いほっぺが落ちてしまうかもしれないからね、覚悟しておくんだよ」


メイアは何かをつぶやき、魔法で一つ目の竈に火をつけると、長い間使っていなかったのか、くもの巣がかかっていた二つ目の竈にも火をつけた。

小一時間の間に、テーブルの上は数々の料理で埋め尽くされた。


「いいのか?この先の食料が無くなっちまうぞ」


メイアには聞こえないように、エリオールは小声でナギに耳打ちするが、ナギはあっけらかんとしていた。


「かまわぬ。食材ならまだまだあるしの。それに、もし無くなったとしても、行商路を歩いておれば、どこかでまた行商人のキャラバンにも出会う事もあるじゃろ」


どうやら、あの薬箱の中にはまだ食材が入っているらしい。

久しぶりの来客に、久しぶりに得意の料理を作れる喜びも相まって、メイアはナギの出した食材を使い切る勢いで調理を続けたが、テーブルの上がいっぱいになったところで打ち止めとなった。

メイアはまだ物足りなさそうな顔をしていたが、三人の豪華な夕食が始まった。


メイアの手料理は絶品で、二人は舌鼓を打った。初めは二人の食べっぷりを嬉しそうに見ていただけのメイアも満足したのか食事に手をつけた。

料理が半分ほどまで減る頃には、ナギとメイアの足元には十本近くのビンが転がり、酔っ払った二人は管を巻いていた。

ナギは理解不能な言葉をまくし立て、メイアは楽しかった昔を何度も何度も繰り返し語った。


「ところで、どうしてこの村にはメイアさんしかいないんですか?」


エリオールはすでに何度も聞かされた話の切れるタイミングを見計らって、疑問に思っていたことを尋ねた。


「そうじゃ、二、三年前にこの村に立ち寄ったときには、活気があってうまい酒のある良い村だったのじゃ」


ナギはメイアのグラスに新たにワインを注いだ。


「あら、ありがとう。そうだね。ここは小さい村だ。村人は多くは無かったけれど、この村は水の国の村と火の国の町の丁度中間にあるからね、たくさんの行商人が立ち寄って、それはそれはにぎやかな村だったんだよ。

この村に来たことがあるナギちゃんなら知っているかもしれないけれど、そんな理由もあって、小村にはこの国には珍しく水の民が多く住んでいたのさ」

「そういえば、そうじゃったな。火の民も水の民も関係なく、みんなが楽しく飲んでおったの」

「そうさ。どこの民だなんて関係なく、みんなが力を合わせて魔獣や盗賊から村を守ってきたのさ。

 私も、昔はキャラバンの仲間と一緒に火の国を巡っていたもんさ。だけど、私も若かったんだね。

ある時、私は仲間を驚かせようと、て仲間から離れ一人で水の国まで仕入れに行ったんだ。それで、自分の力を過信していた私は、仕入れを済ませた帰り道で盗賊に襲われたんだ。流石の私も、あの時はもうダメだと思ったね。

そんな時だった。一人の水の民の男が私の前に立ちはだかり、盗賊たちを一人、また一人と倒していった。でも、一人で何人も相手にするには少し無理があってね、その男は、盗賊を追い払う変わりに、大きな怪我をしてしまったんだよ。

それでも、私がボロボロと泣くとね、彼は『大丈夫だよ、大丈夫だよ』って震える私の頭を撫でてくれたんだよ。

それが、旦那との出会いだった。

それから、二人でこの町に住み着き、子供も生まれたわ。旦那譲りの薄い水色の髪と瞳がとても綺麗な女の子よ。とても幸せな日々だったのよ。

あの日まではね。

何年も雨の降らない日が続くと、井戸は枯れ、オアシスは干からびて、火の国は重度の水不足に陥った。

そうすると、民の心は荒み、終には不満を持った民の中から、水の民が水を奪い取っているんだという、荒唐無稽なことを言う人が現れたわ。

初めは誰も取り合わなかった。でも、水不足が深刻になると、その声は広がったわ。

最終的には、みんなが水の国を倒せって言うようになった。

この村には水の民が多く住んでいるせいもあって、そんなバカなことを言う人はいなかったわ。

それでもね、ある日、たくさんの軍人さんがやってきて、十六になったばかりの娘と旦那、それにこの村に住んでいた、たくさんの水の民を捕らえて連れて行ってしまったわ」

「・・・その人たちは、どこに連れて行かれたんですか?」

「彼らはね、この周辺を納める領主の命令で連れて行かれたの。エリオール、窓の外を見ると丘の向こうが明るく見えるでしょう?そこが領主の住むここら辺で一番大きなオアシスのある町よ。領主は、毎日連れ去った娘達を侍らせて、飲めや歌えやの大騒ぎをしているらしいわ」


窓の外を見ると、月明かりとは別物の、火の揺らめくような明かりが丘の向こうから見えていた。

それは、エリオールが捕らえられていた町のある方角だった。


「もちろん、私達も黙っていたわけではないわ。取り残された者たちは必死に講義したわ。それでも、領主からは一向に返事が無かった。

そして、残された村の男達は領主の館へ向かったの。でも、誰も帰ってこなかった。残された女達だけでは、この村を守っていくことは出来なかったわ。みんなが絶望し、ある者は身内を頼って、ある者は昔の仲間と共に、ある者は当てもなく、みんな村から出て行ってしまったわ。

でもね、私は諦めないわ。いつか必ず娘達は帰って来るもの。その時に、家で『お帰り』って言ってくれる人がいなかったら、とても寂しいでしょ。だから私は旦那や娘が帰って来るまでずっと待ち続けるわ。必・ず・・・ね」


出会ってからずっとマシンガンのようにしゃべり続けていたメイアだったが、話し終わる頃には、ついに電池が切れた。

いつの間にか大人しくなっていたナギも、テーブルに伏せて寝息を立てていた。

エリオールは、隣の部屋まで毛布を取りに行き、そっとメイアに掛けてあげると、ナギを抱き上げて、ベッドに寝かせた。

口を開けば、老婆のようなしゃがれ声で偉そうにしゃべるナギも、寝ている姿はまるで天使のようだった。

規則正しく寝息を立てるナギが目を覚まさないように、そっと肩まで毛布をかけると、エリオールは耳元で『ゴメン』とつぶやく。

エリオールは、椅子にかけていた小汚いローブをすっぽりと被ると、壁に立てかけてあった刀を握って、誰にも気付かれないよう、明かりを消して静かにメイアの家からでていった。

真っ暗な闇の中、部屋を出て行くエリオールの背中を彼女は静かに見送っていた。


夜の砂漠は雲ひとつ無く、月明かりがエリオールの行く手を照らしていた。

月明りでぼんやりと足元が見える暗闇の中、昼にナギと苦労して町を抜け出してきた道のりをエリオールは一人引き返していた。

雲で遮られること無く満面の星空が広がる砂漠の夜は、放射冷却によって肌寒く感じられるほどに冷え込んでいた。

汗をよく吸う綿のシャツに麻のズボン、その上に使い込まれたローブを着ただけでは寒さが身に凍みたが、それよりも牛か何かの革でできた靴の中に砂が入り込んでくるのが鬱陶しかった。

何度も足をとられ転びそうになったが、荷物が無いだけ早く歩くことが出来た。

道を知らないエリオールは、昼間はナギの案内だけを頼りに歩いていた。初めは町までたどり着くことが出来るかが心配だったが、今は遠くに見える町の明かりを目指すだけでよかった。

砂漠の夜は冷え込むとは言っても、足をとられる砂地は体力を奪い、エリオールの額には薄っすらと汗が滲んでいた。

腰にくくり付けていた水筒は、いつの間にか空になっていた。

半刻ほど歩くと、なんとか一本木までたどり着いた。

行きはひどく長く感じた道のりも、身軽な状態では大した時間はかからなかった。

水筒を揺すって中身が無いことを確認すると、エリオールは乾いた喉を潤すため、井戸へ向かった。

昼間は行商人達や旅人で少ないながらも賑わっていた井戸の周囲も、今は人影一つ確認することは出来なかった。

エリオールは砂が入らないように被せられている蓋を外すと、釣瓶を井戸の中に放り込んだ。

釣瓶はカラカラと滑車を回しながら落ちていき、バシャンと水面を叩く音がした。メイアの村の井戸とは違い、まだこの井戸は豊富な水量を保っていた。

井戸から水をくみ上げるためにエリオールは釣瓶を引き上げる。

たっぷりと水が入った釣瓶は重く、ずっしりと腕にこたえた。ちゃぷちゃぷと水が揺れる音が近づいてくると、エリオールはいっそう力を入れてロープを引く。

ガチャン

嫌な音と共にエリオールの引くロープが止まった。

急に引っ張っていたロープから抵抗を受けたエリオールはつんのめり、尻餅をついた。


「なんだよ、もう」


毒づいたエリオールは砂を払いながら立ち上がると、井戸を覗き込んだ。

暗がりであまりよく見えないが、釣瓶が何かに引っかかった様子はなかった。

どうやら、力を入れすぎたせいで滑車からロープがはずれてしまったようだ。

滑車はエリオールが手を伸ばしてぎりぎり届く位置にあった。

足元が不安定だが気にすることなく背伸びをして滑車に手を伸ばした。

ロープはエリオールが力を入れすぎたせいで、滑車から外れ硬く食い込んでいた。

手元が暗く見難い上に、足元が不安定で力が入らず苦戦するエリオールだったが、苦労のかいあって次第にロープがほぐれてきた。


「あと少し。ここをこうして・・・」

「クンカクンカ。おお、だいぶ近づいてきましたぜ。クンカクンカ」

「もう少し。これで・・・」

「クンカクンカ。近い、近いですぜ」

「よし」「あった」

『ドン』

「えっ?」「あれ?」


バシャーン


ロープを解いた次の瞬間、エリオールは何かに井戸に突き落とされた。


「何か音がしましたが、どうかしまして?」

「いや、どうやら何か井戸に落としちまったようで」


金髪縦ロールの美少女が尋ねると、夜の暗闇でも真っ黒なサングラスを外さないチビデブが、砂を払って立ち上がる。


「使った後片付けないなんて、気が付かずに人が落ちたらどうするつもりですかね、まったく」


悪態をつきながら、イトラは釣瓶を引き上げ井戸に蓋をした。


「それで、見つかりましたの?」

「ああ、ありましたぜ。これですね、お嬢」


イトラが右手を出すと、手のひらには肩紐の切れたガマ口が乗っていた。


「ああ、そうです、会いたかったですわ。私のカエルさん」


イトラからガマ口を受け取ったユニは、よく見るとつぶらな瞳が描かれたカエルを象ったガマ口に頬ずりした。


「お~嬢~。これで今日は野宿しなくてすみそ~ですね~」

「ほんとですわ。これで熱いシャワーが浴びられましてよ。それにしても、あの野蛮人に関わったせいでろくな目にあいませんわ」

「でも~、イトラの追跡まほ~が役に立ってよかったね~」

「あっしオリジナル魔法「幼女追跡者」にかかればこんなもんっすよ」

「・・・イトラあなた、そのうち捕まりますわよ」


ユニが蔑んだ目つきでイトラを見ると、「そんなに褒めてもなんもでんっすよ」イトラは体をよじって照れていた。

イトラを気持ち悪そうに横目に見ながら、ユニはガマ口を開いた。


「あんの野蛮人がーーーー」


満面の星空の下、静寂を切り裂くようにユニの絶叫が響き渡った。


「うわああぁぁぁーーー」


バシャーン

何者かに井戸に突き落とされたエリオールは井戸の底まで真っ逆さまだった。

真っ暗な水の中では上下左右何も分らなかったが、水の民にとってそんなことは問題では無かった。

エリオールはパニックになることなく、力を抜いて自然に浮上するのを待った。

幸い十分な水量があったため大事には至らなかったが、下手をすると死んでもおかしくはない出来事だった。

水面まで浮上すると、綺麗に組み上げられた湾曲した石組みが目の前に広がり、見上げると、わずかな月明かりが差し込む丸い井戸の入り口が見えた。


「なんなんだ、一体」


わけの分らないままエリオールは濡れた手で顔を拭うと、周りを見渡した。


「なんだ、これ」


井戸の底は入り口よりも広くなっており、流れ込んだ水がより溜まるような形になっていた。

それは、つまりこの井戸は水が湧き上がっているのではなく、水路によって水が引き込まれたため池になっているということだ。

エリオールの目の前には井戸に水を引き込む水路があり、その水路を挟むようにして大人が立っても余裕がある高さの通路があった。

真っ暗で先の見えない通路は、どこまで続いているのか検討がつかなかった。

通路のことは気になったが、今はどこにつながるのかも分らない道を行くわけにはいかなかった。

上を見上げると、昼間は気がつかなかったが、エリオールのような落下した人間のためというわけではないだろう、保守用の梯子がかかっていた。

梯子まで近づくと、エリオールは愕然とした。

長年使われていないのだろう、錆びて腐食した鉄の梯子は所々穴が開きボロボロになっていた。

他に上れるところが無いか調べるが、壁面は水垢でぬるぬるとすべり、取っ掛かりとなるような物は無かった。


「やっぱり、これしかないか」


泳いで梯子まで戻ると、怪しい梯子に手をかけて体重を乗せる。

ミシミシミシ

嫌な音はするものの、何とかエリオールの体重くらいは支えられそうだった。

意を決して梯子を上り始めると、手元を照らしていた月明かりが雲に覆われたように陰っていくのに気がついた。

井戸の入り口を見上げると、何者かが蓋をしようとしているのが見えた。


「ちょっ、待っ・・・」


バキッ

焦って手を伸ばしたせいか、踏みしめた足掛かりが砕け、それを期に梯子は、おもちゃの塔のようにもろく崩れた。

伸ばした右手は空を切り、エリオールは再び井戸の底に落下した。

水面に浮上した時には、すでに蓋が閉められ、そこには自分の手すらも見ることができない深い闇が覆っていた。


「ちくしょう。誰か知らねえが、絶対許るさねえ」


エリオールの叫びが狭い通路を木霊して響いた。


暗闇の中に放り出されたエリオールは、一先ず手探りで通路によじ登った。

井戸を上ることが出来なくなった今、この通路を進む道しかエリオールには残されていなかった。

何の明かりも無い暗闇で自分の手すら見ることができないが、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。

エリオールは壁を伝いながら水路の上流を目指して歩きだした。

井戸から繋がる洞窟の中には、流れる水の音とエリオールの足音だけが響いた。


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