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ざり、ざりり。
しばらく彫刻の音が、俺とハーフヴァンプ少女の肩と肩のミリ間隙を流れる。
触れそうで触れない。気兼ねされる必要もなく、気兼ねする必要もない。いかにも一晩の三十分の一の時間をともに過ごした名前も知らない赤の他人って感じで、こういう現実的な距離感は仮想現実内では捨てがたく、そしてとても心地よい。
数十分後、俺がイエティを削りだし終えて、その眼を入れようとしたその時だった。
「あのさ」
「しっ」
ふと、口を開いたハーフヴァンプ少女に対して、人差し指を口にあてて『静かに』のジェスチャーを行う。一瞬、彼女はムッとした表情になったが、それも束の間、何かに気づいて目を見開くと、耳をすますように両手を耳にあてた。
――――――――。
「…………歌?」
「ああ。そうだ。歌だよ」
――――、――――。
冷たくなってきた夜の空気に透き通る、綺麗なソプラノが響き渡る。
「いったい、誰が?」
疑問を口にするハーフヴァンプ少女に、俺は空洞から顔を出して大樹の上方を指差す。
彼女も同じように身を乗り出して、俺が指し示した方向を見やると、感嘆のため息を吐いた。
俺と彼女の視線の先に、星明りに照らされて姿を現した【ドリアード・インベルグ】。
一見すると、儚げな雰囲気を醸した長髪の美女が、露出の激しい植物のドレスを着て大樹に背を預けている姿なわけであるが、よく見ると、彼女の髪や背中の一部が大樹の幹と融合していることがわかる。
そう、『彼女』はダンジョンの名を冠するダンジョンボスモンスターだった。
――、―――――――――――。
『彼女』はゆったりとしたメロディにのせて、子守歌のような幻想的な唄を独唱している。それは日本語でも英語でもない。本当に存在する言語かどうかもわからない。
けれども、どういう歌詞なのかはわかる。
自分が生きていることを喜ぶ歌だ。そして、明日も生きていることを願う歌である。耳から入ってきた歌が直接、脳髄にそう訴えかけてきている。とても心揺さぶられる歌だ。
「ちょっと待って。確か、ドリアードの歌はプレイヤーを【魅了】状態にするんじゃなかった?」
ハーフヴァンプ少女が声を潜めて耳打ちしてくる。
「まあな」
「だめじゃん」
そう言うと、慌ててハーフヴァンプ少女は俺の耳を両手でふさいでくる。




