◆2
枕元に置いてある眼鏡を探し出して装備する。高校に入ってから実家を飛び出して一人暮らしを始めた学生マンションの手狭な部屋は相変わらずの殺風景だ。立ち上がると剝き出しになったフローリングの冷たさに鳥肌がたてながら、壁に立てかけた大きな姿見を確認した。
そこには寝ぐせでぼさぼさのショートカットヘアに眠そうに半分瞼を閉じている、愛想の欠片もない頑なな無表情の、挙句の果てにはパンツ一丁でぼうっと突っ立っている眼鏡の変態女がそこにいた。
認めたくはないが、私である。
まるで風呂上がりの『あの人』みたいだ。
遠野くんには見せられないな。
そこまで考えてムッと口をつぐむ鏡にうつった女は、どういうわけか頬が少し赤くなっていた。何を考えているんだ。彼にはもう、彼にとってお似合いとは言い難いが一応付き合っている彼女がいるではないか。親友ポジションに収まっている私は、それを手放しに喜んで応援するべきなのだ。けれどもどうしてだろうか。やっぱり彼と後輩が一緒になっている景色が頭に浮かんでは消えていくと、どうにもむかつく心がふつふつと湧いてくる。
じりりりり。じりりりりり。
ここで、三度目の目覚まし音が鳴る。朝食を食べる時間。
じりりりり。
「……うるさい」
私はその日、目覚まし時計が嫌いになった。
*
「セーンパイっ」
歩き読書しながら登校中。
背中が気軽に叩かれる。
私が感じたのは億劫の二文字に尽きる。
声からして誰であるのかはわかったからだ。
しかしながら、応対しないわけにはいかない。彼女は否応なしに周囲の注目をひく存在だ。それに彼女の腹黒さは完璧に情報遮断され、世間一般には今世紀最大の清純派アイドルとして通っている。そんな彼女に声をかけられて無視をしたなんて噂が広まれば、学校での私の静かな立ち位置が危うい。いや、現時点でも相当危ういものになってきているのであるが。このふざけた後輩のせいで。
活字の海から目を離して、私は声をかけてきた主を眼鏡のレンズ越しに見やる。
「おはよーございまーす」
女である私から見ても本当にうざっけのない可愛らしい仕草で敬礼しながら挨拶をかましてくる黒髪巨乳リアル充実の後輩娘が、土足で私の視界に殴りこんでくる。
彼女を見れば女なら総じて神さまの不公平さにため息するだろう。ギリシャ神話に出てくる女神を彷彿とさせるそのずば抜けたプロポーションとカリスマに世の男どもは平伏するに違いない。
しかしながら、彼女が掛けている赤ぶち眼鏡は伊達。伊達眼鏡をかける人間は並々信用ならないとは、度の強い本物の眼鏡をかけている私の教訓だ。実際、私はこの後輩が何を考えて私に近づいてきているのか考えあぐねていた。
パタンと読みかけの文庫本を閉じて私は後輩にお辞儀する。
「……おはよ」
「もー、何ですかぁー? センパイってば朝から元気ないっすねぇ? 今日はこぉーんなに良い天気なのにぃ」
「やめてよ。その猫なで声。気持ち悪い」
「あははっ、センパイ今日は特に不機嫌だなぁー」
後輩は背伸びして私の耳元に口を近づけて囁く。
「もしかしてぇ、ASAであたしとトーノがデートしたこと怒ってますかぁ?」
にやにやと意地の悪い笑みを一瞬浮かべる後輩。
私は彼女に鼻を鳴らして一笑してあげた。
「私がいらついたのは貴女がギルドチャットにやらなくてもいいのデート実況を書き込んでいたからよ。まさかとは思うけれど、私と芽衣子ちゃんと貴女で専用チャットルーム作ろうって貴女が言いだしたのは、そんな馬鹿げたことをするためだったの?」
「あったりぃー。もうメイメイの慌てようったら。あ、だめ。また思い出してきちゃった、あははっ」
後輩は花開く笑顔でお腹をかかえて笑う。
まったく、この女は。私は世界で一番『あの人』が嫌いだと思っていたが、訂正しなければならないかもしれない。大変だったのだ。あの後、チャットに垂れ流される後輩の三文アダルト小説並みのデート実況に発狂して個人チャットで泣きついてきた芽衣子ちゃんを慰める身にもなってほしい。
「それでぇ? センパイはどう思いましたぁ?」
ひとしきり笑って涙を拭いた後輩は、上目遣いで私の顔をのぞき込んでくる。
「どう思ったって?」
「だーかーらぁー、」
彼女は再び私の耳元で囁いた。
「あたしとトーノのイチャラブっぷりを見てって話ですよぉ」
「……ふっ」
きょとんと眺める後輩に私は続ける。
「手も繋げなかったのによく言えるわね」
「んなっ!? な、なななっ、ななっ」
私の台詞に挙動不審になった後輩は口をぱくぱくわなわな。
陸に上がった魚みたい。そんな彼女に私はネタバレしてあげる。
「遠野くんから私に恋愛相談があったの。彼、五回目のデートでまた手も繋げなかったって己の意気地なさを嘆いてたわよ」
「にゃっ!?」
途端に後輩は真っ赤になったかと思うと、もじもじと髪を指で弄りながら視線を地面に落とす。
「にゃによぅ。トーノのばか。あ、あたしだって、……できるなら、手ぇ繋ぎたいけど、」
「っていうか、彼が手を繋ごうとしたら貴女、何回も払いのけていたそうじゃない」
「……だって、……はずかしいし」
唇を尖らせてそっぽを向く後輩の仕草はすでに演技ではない素のものであるとわかる。私は半眼で彼女を眺めながら一言。
「ばか」
ムッとした表情で後輩は見上げてくる。けれど、それも束の間、しゅんと落ち込んだ表情で後輩は呟いた。
「……ぜんぶトーノが悪い」
「ふうん」
「トーノが、……トーノがあたしをドキドキさせまくるのが悪いんだもん」
「へえ」
「手ぇなんか繋いだら、たぶん。……死んじゃう。うれしすぎて」
後輩の顔は至極、本気である。
「でも繋ぎたいんでしょ?」
後輩は私の質問にうつむく。
「それで、あわよくば。したいんでしょ?」
何を、とは言わない。まあ、いろいろだ。
しばらくして、後輩はこくんと小さく頷いた。
表情は見えないが、真っ赤になった耳を見るに、本気だ。
本気と書いてマジというやつだった。
ため息を吐く。
ダメだこりゃ。
私は首を振って思った。
今晩の周期には一度、雑貨屋『みちしるべ』に帰ったほうがいいかもしれない――――と。




