◆6
病室に入ると、そこは綺麗に整頓された少し広めの部屋だった。ゴルゴルという静かな音をたてて動いている空調以外は普通の部屋と遜色ない。ただ、ソファにはクマのぬいぐるみが座っていたかと思えば、本棚には小難しい文庫本が並んでいたり。さらに壁際の戸棚にはテレビと一緒に日本酒のビンがずらりと並んでいたり、その下には黒いボックス型のワインセラーがあったり。少々、奇妙な点が散在していたりはするが、これといった特別なものは見当たらない。
そんな病室の奥の白いベッドの上に、『彼』が眠っていた。
その姿を見て、あたしが呆然と立っていると、朱里さんが背中を押していく。
朱里さんに促されるままベッドまで歩いていって、脇にあった丸椅子に座た。
「眠って、……いる?」
「ああ。そうだよ」
あたしの口から零れた呟きに、朱里さんが肯定する。
「二年前から目覚めていない。だから、血管に直接栄養をぶち込んで、筋肉を絶えず電気刺激で動かしている。それでようやくそのザマだ」
あたしはシーツから出ている『彼』の、まるで骨と皮だけになるほど瘦せ細った手に触れた。おそろしく冷たい。
「事故でね。打ち所が悪かった。もう少し早くここに運ばれていればまだ何とかなったんだがね。色々不運が重なった挙句、手遅れになってこのバカは死んじまったというわけだ」
「どういう……」
「死んでるんだよ。そいつは。確かに身体はまだ辛うじて生きてはいるが、脳がダメだ。延髄以外はほとんどの機能が停止している状態―――いわゆる脳死というやつだ」
「で、でもっ、トーノはASAにいますっ!」
「ああ。そうだね。どういうわけか、このバカの脳のニューロマイクロマシン活性が微弱ながらも途切れていない。本来ならばあり得ないはずの異常さ。法的にも医学的にも死んでいるはずである遠野幸路というバカをASAはログインさせ続けている」
「でも、トーノは、あっちで普通に、生きているじゃないですか。普通に笑ったり、普通に泣いたりしてるもん……」
「ASAは北極にあるサーバーに全プレイヤーのASAでの記憶を集積セーブして統合管理している。眠ると実際のそれまで脳に蓄積された記憶を、我々の脳に寄生したニューロマイクロマシンがデータ化してASAのサーバーに送信する。そして、ASAで経験したことは全てサーバーに保存されたその記憶データに上書きセーブされ、再び現実世界で目覚める直前になってニューロマイクロマシンへセーブデータをフィードバック送信し、実際の脳に上書き保存することによって運営されている。言うなれば、我々の脳は毎朝目覚めるたびにいじられているわけだ。反吐が出るが、それは仕方がない。三十倍の寿命を手に入れた我々人類の対価だね。さて、もちろんASAで死ねば、サーバーに保存されていたセーブデータが消されてリセットされることは知っているだろう。それと同時にニューロマイクロマシンにも信号を送り、ASAで経験した記憶を対象から全て消して再起動する仕組みになっている。それは現実で死んだ場合も同じで、ニューロマイクロマシンの信号が途絶えた時点でその者のセーブされていた記憶は全て消され、再ログインは不可となる。だが、このバカのニューロマイクロマシンは不具合か何かでASAに現実の本体が死んだことを知らせちゃいない。つまり、ASAにいるトーノという人物は、ASAのサーバーに保存された遠野幸路の記憶のセーブデータが勝手に独り歩きしているにすぎない――――というのが一つの仮説だな。珍しい事例だよ。世界でまだ五例目だ。アメリカで二例、中国で一例、EUで一例、そしてこのバカだな。すべて脳死患者でおこっている。まあ、とは言っても、アメリカの二例はASAのアップデートで消滅。中国とEUの二例はASA内で普通にリビングデッドアバターが死んでニューロマイクロマシンが再起動したときに対象の死を認識して消滅。それ以降のログインは確認されていない。すなわち、今のところ行ける屍はこのバカ一人になってしまってるってことだな。おかげでこのバカを囲ってる私は論文を書きたい放題さ」
「そんな言い方……」
「ありえないか? だがな、文句なら私がこの二年間、あの手この手で色々試してやったくせ、うんともすんとも起きないこのバカに言ってくれ。この設備の稼働だけでいったいいくらかかってると思ってるんだ。言っておくが、一日でその辺の凡人の一人や二人の平均年収は軽く超える金額を使ってやってるんだぞ。しかも、それ全部、私と望結ちゃんのポケットマネーからだ。こんな美女二人を捕まえて、たまげたヒモ男だとは思わんか」
「……どうして?」
「そこまでするのかって? 救われたからだ。私は超天才救命医でね。これまで延命不可能とたらい回しにされて運ばれてくる患者を片端からさばいていって、その救命成功率は九十九パーセントを誇ってる。でもな、残りの一パーセントは死ぬんだ。少ないと思うか? 確かに百人やったら死ぬのは一人だ。だが、千人やったら十人、一万人やったら百人だ。そこらの英雄より私はたくさんの人々を殺してきたと自負している。それで、な。そして、ある日、いつもみたくほとんど死んだ状態で運ばれてきた患者をさばき、運悪く死んだのを見て私は、何も感じなくなっている自分に気づいた。『ああ、死んだか』と、まるで投薬試験のモルモットが死んだかのようにカルテに『死亡』と書き込んでいる私に、私は気づいてしまった。危うかったね。危うく、心が折れかけた。私が私でなくなりかけていた。言うなれば、闇堕ち三秒前って感じだ。その時だな。私がついさっき『死亡』と診断したこのバカがな。たまたまベッドの空きがなかったから特別病棟のASAニューロデバイス付きのベッドに寝かせていたこのバカが、ASAにログインしていることに私は気づいた。私が誤診したのはこのバカが初めてだ。死んだと思ったのに、まだ生きていてくれた。不意打ちだった。泣いたよ。歳柄にもなく、大泣きだ。そして、まだ私は泣けるのだということに気づいた。そんなわけで、私は人間に戻ってこれた――――ああ、忘れてくれ。恥ずかしい過去話さ」
ソファにどかっと腰を下ろしていた朱里さんは頬をかいて照れる。
「ついでに、このバカがこうなったわけを教えてやろう。笑えるぞ。トラックに轢かれそうになってる女の子を助けて自分が轢かれた、だと。どっかのコメディー漫画みたいだろ。それも後でわかったんだが、その事故。ASA廃滅主義者が開発元の社長令嬢を狙ってトラックで突っ込むという暴挙に出た馬鹿げたテロだったらしい。迫るトラックに大勢が逃げ惑うなか、たった一人だけ、腰が抜けて座り込んでたその令嬢に向かっていったらしいぞ。目撃者は我が愛しの妹だ。ちょうど、このバカと同じ中学の図書委員の先輩後輩関係で文化祭の買い出しを二人でやっていたときだったらしい。妹はASAでこのバカに自分の素性は言ってないようだがね」
「そうだったんですか。何よ。馬鹿トーノ。ぜんぜんあっちとやってること変わんないじゃない」
「あっはっは。こいつのそれは、もはや病気だな。前に一度、どういうわけでそうなのか聞いたことがある。そしたら何と答えたと思う? 小さいころ、道端で子猫が何匹か入ってる段ボールを見かけたんだとよ。けれど家では飼えないし、人通りの多いところだったから、誰かが拾ってくれるだろうと素通りしたようだ。すると、その夜は大寒波で、翌朝に同じ場所を通りがかると、市役所の人間が全滅してカチコチになった子猫をゴミのように捨てていた。そのトラウマを繰り返さないために、誰かが助けを求めてたら全力で助けると決めたそうだ。我が愛しの妹に訊くと、わりと界隈では有名だったらしいね。ヒーロー気取りのガキがいるって。実際、いじめられてる人間がいたら割って入っていき、川でおぼれかけの子供がいたらまっさきに飛び込んで、階段登れずに困ってる年寄りをおんぶしていたらしい。ふざけた話だが、目についた片端からこのバカは助けていたようだ。そしてそれを続けた結果、運も尽きてこのザマだ。このバカは誰かを助けるのに自分の命を考慮していない。普通の人間は、自分の命を優先するが、このバカはしなかった。まあ、こっちで死んでから少しは賢くなって、ASAで多少は自重しているようだと思ってはいたんだが。お前の話を聞くと、そうでもないらしい。染み付いた癖は簡単には治らんとはこのことだな。私らがいくらこのバカの命をサルベージしようとしても、誰かを助けようとして勝手に死なれては意味がない。かと言って、ASAでこのバカを縛り付けるわけにもいくまい。フラフラと簡単に抜け出してバカをやるバカだからな。まったく、医学は進歩したのにどうしてバカにつける薬は開発されないんだ。困ったもんだね」
「命を、……サルベージ? トーノは、助かるんですか?」
「さあね。言ったろう。色々と試している、と。だが、今のところどれも効果はないがね」
朱里さんはため息を吐く。
「だが諦めてはいないよ。このバカが死ぬまではギルドメンバー全会一致で諦めないと決めているからね。今のところ医学面では私が。その中にはこの国じゃ承認されてないことも色々やるから、そのための法律面での根回しは望結ちゃんがしている。サルベージ用の特注ニューロマイクマシンの設計なんかは瑠衣子に一任しているね。そもそもニューロマイクロマシンの初期理論を築いたのはあの子だから期待大だ。そして、その瑠衣子のサポートを凡人の芽衣子がやっている。あと、あいつは健気だぞ。命を助けられたことに負い目があるのかは知らんが、ほぼ毎日ここに通い妻みたいなことしてこのバカの身の回りの世話をこの二年間ずっとやってるからな。あとは、我が愛しの妹だが、主にASAでこのバカの精神面でのサポートを担当している。一時期不安定になった時期があったからね。私のせいだ。できるわけないだろうと高をくくって、希望を持たせるため、このバカにASAの全ダンジョンクリアしたら現実に戻ってこれるかもしれないと不用意に言ってしまったら本当にやり遂げてしまった。そして、やり遂げたのに、奇跡は起きないことを知ったときのこのバカの顔は今でも頭に刻み付いて忘れられない。私の人生最大の失敗であり、今でもトラウマだよ。このバカに自殺されるかとも思った。そしたら我が愛しの妹がやってくれたんだ。今までのアバターを捨てて、つまりこっそりASAで死んで転生して、このバカに近づいて。上手いことこのバカの親友ポジションに収まると、たちまちこのバカの支えになって立ち直らせたんだ。新しい出会いは人間を好転させるとはよく言ったものだ。あいつにも大切な記憶が、あったろうに――――。まあ、つまり、だ。私のギルドはASAでは自由に色々とバカやってはいるが、リアルでは共通の目的のためにそれぞれがそれぞれの役割を全うしているわけだ。その目的とはもちろん、このバカを生き返らせること。神への反逆だ。さて、ここからが本題だぞ。お前は、いったいこのバカのために何ができる? 何もできないだろう。私がお前をここに連れてきたのは、それをわからせるためだ。傷の浅いうちに身を引きなさい。このバカはお前みたいな凡人女が背負うには重い。まあ、お前に寄ってくる男なんて、他にいくらでもいるだろう? なにもわざわざこんなバカを選ばなくてもいいじゃないか。なあ?」
朱里さんはあたしに視線を投げた。
「……あたしは、」
あたしは――――。




