78
「あによぅ」
「く、はっはっ、いや。ごめんごめん」
恨めしそうにこっちを睨んでくるシャノの頭に俺は手を置く。
「いや、ほんと。まいったぜ。どうやら俺はあんたに――――」
惚れてしまってるらしい。
危うく出かかった続きの台詞は胸の高鳴りとともに呑み込む。俺はシャノに惚れていた。俺みたいな男を好きになってくれた彼女が俺の命を助けに戻ってくれたとき、その背中に完全に惚れてしまったようだ。んで、それを今、自覚した。目玉焼き、て。なんだよそれ。反則だろうが。
俺は、シャノが好きだ。
今すぐ叫んでもいいくらい、俺はシャノが大好きだ。
それは確定事項だった。でも、伝えるわけにはいかない。
どんなに俺がシャノみたいな高嶺の花に釣り合わない男なのかを知ってもらってからでなければならない。告白するのはそれからでないと、反則だ。それに、怖さもある。ここで、俺がシャノに告白して彼女がオーケーしてくれても、彼女が俺の現実を知ったとき、どう思うか。きっぱり振ってくれればいいが、シャノは優しさから俺を背負ってしまう可能性がある。そんなことで好きな女の子に人生を棒に振ってほしくない。シャノには世界中の誰よりも幸せになってほしい。そのために俺は、邪魔な存在かもしれない。
…………。
そこまで考えて我に返る。まいったなー。本格的に、俺はシャノにまいっちゃってるなー。やばいなー。駄目だってわかってんのになー。愛って、すごいなー。こんなに盲目になれちゃうんだなー。こんなに苦しいのならば、出会わなければよかったのになー。たいがいにして、神さまは鬼畜だよなー。
「ねえ、なによ。黙らないでよ、もう」
俺の手の下で、シャノは身じろぎする。肩をすくめて黙ったまま彼女から手を引いた俺をどう思ったのか、シャノはムスッとして喋らなくなった。
それからしばらく、時を過ごして登攀を再開するためにスケブをインベントリにしまう。
「そろそろ、行くか」
俺の言葉に、シャノは頷いて腰を動かしたところで止まった。股を擦り合わせてむずむずしている。なんぞ?
「え、……と。その、ちょっと聞くけど、……これって、おトイレはどうすんの?」
「まあ、現実世界じゃ、モラル的にお持ち帰りが基本だけど。ここは現実じゃねえし。期間限定のイベントマップで、もう誰かがここを登るってこともねえだろ。つまりするとしたら、ぶら下がったまま」
俺が下のほうを指差すと、途端にシャノは真っ青になる。
「いやあああああああああああああああああああああああああああっ!」
彼女の声が円柱形の空間に反響した。
「ん、もしかしてシャノさんや。催したのか? だったら、ささっとここでやってくれ」
「あ、ああああ、あんたねえっ! いつもいつも、どんだけあたしがおしっこしてるとこ見たいのよぉっ!」
「失礼だな。まだ二回目だろ。これで」
「やだやだやだやだやだやだやだっ! やあああだあああああああっ!」
「そうは言ってもな。俺はどうにもできねえし。生理現象だから栓をするわけにもいかない」
「……うっ、ふぐぅっ、うぇぇ、うぇ。ばかばかぁ。なんで最初に言っといてくれないのよぉ。あんたねぇ、好きな、ひとの前でぇ、お、おしっこなんてぇ、それも二度までもぉ。耐えられない耐えられない耐えられない……ぅ、うぅ、んんぅ。やだぁ、やだやだ、あぅ」
そうは言っても、俺だって好きな女の子が排尿してるところなんてできれば見たくねえ。
「ほら、女の子の方は我慢すると良くないって聞いたぜ?」
「余計なお世話よっ! うっ、……くぅ、ぅ、やぁ、……うぁぅぅ」
目をギュッと閉じて股に手を挟んで前後に上体を揺らしながら尿意を忍耐しているシャノを見ていると、なかなか痛々しいものを感じるね。彼女の背中をさすってあげたのだが、それは逆効果だったようだ。
「…………あっち、むいてて」
ぽたぽたと太ももに涙を落としていたシャノは、俺に呟いた。
合点承知の助で、俺は彼女から目を背けて見ないようにする。
「なにか、うたって」
「え? なんで」
「いいから」
「でも俺、音痴だし」
「うたえ」
「はい」
俺は何を歌っていいのかわからなかったので、童謡を歌う。ある日、森のくまさんに女の子が襲われる歌。
「もっと大きな声で」
「いや、でも恥ずかしいし」
「うたえッ!」
「はい」
大きな声で歌う。するとようやく俺の背後で、もぞもぞとシャノが動くのを感じ取る。
「んっ……」
そして、シャノの長いため息とともに響く流水音。
…………。うーん。耳が良いって、時にはつらいよな。
歌えと言われた意図がわかったので、もう少し歌のボリュームを上げてあげた。
その時だった。
ズガァン。
遥か下の方で、爆発音。
空間全体を揺らす振動に危うく滑落しかける。
何事だ。
シャノの方を振り返ると、彼女は呆然としたまましゃがみ込んでいる。俺の視線に気づくと、首を激しく横に振った。
「あ、あた、あたし、……な、なにもして、してな……」
「ああ、知ってる。小便しただけであんな音が鳴らせる人類なんか、さすがにいねえよ」
ここで、聞き覚えのありまくる咆哮。
下をのぞき込むまでもない。
クラウソラスだ。
クラウソラスが、おそらく通路を拡張しながら俺たちを追ってきたのだ。
シャノもそれに気づいて、俺と一緒に血の気の引いた顔になっている。
「な、なななっ、なぁっ」
「落ち着け、シャノ。出すもんは出したか」
「そ、そそっ、そんなの引っ込んじゃったわよぅっ! い、いったい何なのよあいつっ! しつこいにもほどがあるわよぉっ!」
「泣きごと言ってる暇はなさそうだぜ」
俺たちをちゃっかり視界に認めたのだろう。地の底にいる豆粒みたいなサイズのクラウソラスが咆哮し、壁に張り付いて登ってきはじめたのを確認した。四肢と四翼を上手に使ってやがる。物凄いスピードだ。あっという間に俺たちの五時間のハンデは埋まってしまいそう。
こんな足場のない場所で戦闘になったらと思うだけでゾッとする。
「行くぞ、シャノ。鬼ごっこの再開だ。あいつに追いつかれる前に地上に出るぞ」
俺の言葉にシャノは深く頷く。それから捲り上げていたミニワンピのスカートを慌てて下ろすと、バッシーンと思いっきり俺の頬にビンタしたのだった。




