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「なにその、宝箱。へんなの」
やっと追いついてきたシャノが恐る恐る立ち上がる。この祭壇部分の床には高級そうな敷布があるので立ち上がっても大丈夫だ。
「さあ、なんだろうな。手を入れろって書いてある」
「じゃあ、早く入れたらいいじゃない」
「食いちぎられるかもしれないぞ」
冗談だったんだけど、びくっとシャノが飛び上がって恐怖すると俺の腕に抱き着いてくる。や、やめろー。柔らかいものが腕に当たってムラムラしてくるじゃないか。
「冗談だって。調べてみたけど罠は、なさそうだぜ」
「……な、なによ。驚かせないでよね」
安心したような表情になったシャノは頬を膨らませてそっぽを向いた。けれども俺の腕には抱き着いたままで離れてくれない。彼女はギュッと俺の腕を抱えて、なんつーか、服の上からなのに俺の腕が彼女の胸に挟まれて埋没してやがる凄惨な光景を目にする。
「えっと、シャノさん。そろそろ離れてほしいんだけどな。ほら、ご立派なものがべらぼうに当たってるんだ。いくら俺だって童貞だけど男だ。言いたいことは、おわかりか」
丁重な進言に対して、シャノは俯くと微かな声でつぶやいた。
「………………あ、当ててんのよ」
かくいう彼女の表情は見えないが、耳まで赤くなってることだけはわかる。
……………。
やめ、やめろー。理性をフル動員して俺の身体を制御することで事なきを得る。
あ、あっぶねー。あやうくシャノを押し倒すところだったわ。顔に手を当てて荒ぶる心臓を落ち着かせる。
こ、このクソアマ。
もしかして先に既成事実かなんかでも作ろうとしてやがるのか?
戦々恐々と俺がしていると、シャノがチラッと俺を見上げて唇を尖らせる。
「……意気地なし。せ、せっかくあたしが、誘惑してあげてるのに」
「あのね。こういうことは他の男にやらないほうがいいぜ。どんなやつでも理性がいっぺんに瓦解して、たぶんあんたは二秒後には滅茶苦茶にされてるから。いやほんとマジでだぞ。俺もしそうになったんだからな」
「だったら滅茶苦茶に、してよ」
ぎょっとしてシャノを見る。彼女は涙目で頬を染めながらも、真剣な眼差しでじっと俺の目を見返してきた。絶句である。絶句して、それと同時に、とてつもなく悲しい気持ちが込み上げてくる。長いこと忘れてたけれど、もう今さらどうしようもないという自分の現状を思い知らされる。
「なっ、なんで、泣いてんのよ」
「え? あ、やべ。ごめん」
シャノの指摘で、ようやく自分が目から液体を垂れ流していることに気づく。玉ねぎ切ってるわけでもねえのに、恥ずかしー。泣いたのは、いつ以来だろうか。この仮想世界のダンジョンを全クリしても、本当の奇跡は起きないとわかったとき以来だから、もうずいぶんと昔なような気がするよな。
「ありがとう」
ハンカチを取り出して俺の目元を拭ってくれるシャノを手で制してお礼した。彼女は心配そうな顔で俺をのぞき込んでくる。
「あんた、大丈夫? ひどい顔してるわよ?」
「うわひでえ。俺の地顔を全否定するなよ」
やっぱり女の子に泣いたとこを見られたのは恥ずかしいのでうそぶく。それから一つだけため息を吐いてシャノに一言。
「なあ、シャノ。俺をこれ以上、困らせないでくれよ」
「…………どういう、意味よ」
どっかで聞いたような台詞を吐いた俺にシャノはその真意を探るような目で見つめてくるが、それに対して肩をすくめることで応対してこの話は終わらせる。おそらく彼女が現実世界の俺を見た時に、俺の言いたいことは全部わかってくれるだろうしね。
そんなことよりも、今は目の前の宝箱に集中しなければなるまい。
もう一度確認したところ、やっぱり罠はなさそうである。けれども中に何が入ってるのか本当に謎だ。物音はしないから生きてるものが入ってるわけではないと思うんだけど。
これは一種の度胸試し的なイベントなのだろうか。
それとも――――。
こういう場合は、何事も試してみるほかない。
「ね、ねえ。ホントに入れるの? い、痛くなったりしない?」
「どうだろう。その時はその時だ」
シャノが不安そうに眺める前で、俺はもしもの時のために利き手じゃない左腕を宝箱の穴に差し入れた。さてと、鬼が出るか蛇が出るか。
「んー、なんだこれ」
シャノがゴクリと生唾を呑み込む音を聴きながら、俺は宝箱に入れた左手の指先に引っかかる何かしらのアイテムを探し当てる。紐状の何かだ。手触りからすれば麻を編んだボロ紐みたいな感じであるが、果たして。
俺は慎重にそれを掴むと、宝箱から出そうと左腕を少し引いた。
がちゃん。
へ?
突如として、鍵か何かが掛かる音。
その後、何かしらギミックが動いたようで俺の左腕が宝箱から抜けなくなってしまった。
「……罠なんてないって言ってたのは、誰だったっけ?」
ジト目ジト声でシャノが俺の頬をつつく。
「言うなよ。本当に俺が調べたら罠なんて、なかったんだから。でも、罠はあった。しかも致死ではなく足止め系の罠だ。ご丁寧に開錠するための残り時間のゲージまで出てきてる。こういうタイプだと、何かのイベントが起こる臭い。そうなってくると、とても嫌な予感がするぜ」
その嫌な予感は的中する。
俺の知覚が、この神殿の真上に何らかの魔法スキルの展開を感知した。転移魔法だろうか。しばらくして、魔法の気配はなくなり、代わりにひゅるると何かが落ちてくる風切り音をとらえる。そして、ズガーン。ドシーン。バラバラー。
俺たちが入ってきた神殿の入り口付近。
その真上の天井画を突き破って堕ちてきた巨体。
ついさっき、ご無沙汰したはずのクラウソラスが地面に激突した身体をヌッと起こして咆哮したのだった。HPバーは半分まで削れたままであるが、未だに【無敵】状態を示すアイコンとインフィニティマークはご健在。泣けるぜ。




