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「そんなわけで、針田はウチで働くようになったんだって話だ」
「ストーブはいつ出てくるんですか?」
これでおしまいと言わんばかりの口調に、琴美は慌てて尋ねた。
「ああ、そうだった」
男は琴美の様子に笑いを堪えながら、天井に視線を投げる。
「針田が働き始めたのが十二月だったんだ」
琴美は次の言葉をじっと待ったが、男はそっぽを向いまま口を開かない。ちらっと琴美を見たと思うと、口元がひくひくと震えている。明らかに面白がられていると知って、琴美は憮然とした。
「もしかして、その先は謎解き形式ですか?」
「簡単だろ?」
挑むように言われて、琴美は胸を反らして頷く。
「謎にもなってませんからね。冬なら、初任給でストーブを買ってもおかしくないですし、そんなにお世話になった社長さんなら贈っても当然って気もします」
「正解。ま、給料貰った日の針田を見たら全員そうするだろうってわかったしな。わからなかったのは社長だけだ」
懐かしそうに、男は目を細める。
「給料日が週末だったんだ。晩に針田から電話がかかってきて、社長に何をあげたらいいか相談に乗ってくれないかってさ。この事務所、寒いだろ? 社長が膝痛めてて、冷えが厳しいと辛そうだから暖めるものがいいんじゃないかって……」
不意に、何かを思い出したように男は口をつぐんだ。怪訝そうな琴美を見て、また視線を逸らす。
「あ。何か聞いちゃいけないことがあったのなら、忘れます。今すぐ。大丈夫です」
男の言葉を思い返しても特にまずい単語はなかったと思うが、一応、そう声をかけてみた。
当然のように、男は呆れたような表情を返してきた。
「そんなに都合良く記憶を消せるのかあんたは。まあ、そういうことじゃない。むしろ、覚えてて欲しい」
琴美は首を傾げた。
「週末に電話がかかってきたことですか?」
「そんなこと覚えてどうするんだよ。その電話がきたときに、そのうち一緒にメシ食いに行こうって話をしたのを思い出したんだ」
「そういうのは手帳にでも書いておいた方がいいんじゃないでしょうか……?」
話がすでに二年も前のことだ。まず間違いなく、社交辞令だったろうから、わざわざ他人に頼んでまで覚えておいてもらう話でもない。机の上にメモ用紙があったので勧めてみたが、男は首を横に振った。
「実は俺、ここを辞めるんだ。たぶんもう、針田と会う機会はないからさ」
「それって、あたしから針田さんに言っておいてくれって頼んでるように聞こえるんですけど」
「察しが良くて助かるな。その通りだ」
「その通りだ、じゃないですよ。今初めて針田さんの名前を聞いたばかりのあたしの方が、もっと会う機会なんか無いですよ」
「そうでもないだろ」
琴美の勢いを軽く流すように、男はストーブを指した。
「あんた、それを取りにまたくるかもしれないだろ。その時会えたらでいいから、針田の奴に、いけなくて悪かったって言っといてくれないか」
「電話した方が早いと思います。口で言うのが難しいならメールとか手紙とか」
なんならこれでもと、先ほどのメモ用紙を勧めるが、男は首を横に振るばかりだ。琴美は頭を抱えたい気分だった。白崎といいこの男といい、今日は人の話を聞かない人間ばかりに遭遇する。何かの呪いなのか。黒猫とは遭遇しなかったはずだ。
「いろいろあるんだよ、大人には」
「あたしも成人式は迎えました」
すかさず言い返すと、男はにやりと笑う。
「いろいろあるんだよ、社会人には」
「くっ!」
社会人を強調されて、琴美は思わず男を睨み付けてしまった。琴美からそれ以上の反論がないと知ると、男は立ち上がった。
「それじゃ頼んだな。社長にはストーブのことは話しておいてやるから。他に用事がなければ出てくれ。俺も残りの仕事を片付けないといけないんだ」
「辞めるんじゃなかったんですか?」
「辞める前にやることはたくさんあるんだよ。でなきゃ休みにわざわざ出てこないだろ。ほら、行った行った」
追い立てられるようにして、琴美は事務所から出た。途端に冷たい風が頬を撫でていく。
「あ、そうだ、お名前聞いてませんでした。針田さんに伝言するなら名前を」
「西山だ」
「西山さんですね」
「ああ――頼んだからな」
「……本当にあまり期待はしないでくださいね」
最後にお邪魔しましたと頭を下げて、琴美は事務所を後にした。扉が閉まって、それきり西山の姿は見えなくなった。視線を前に戻すと、門のところに白崎が立っているのが見えた。