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琴美は用紙を片手に握りしめて、とぼとぼと敷地内を歩き出した。誰かに見つかって問い詰められた時の脳内シミュレーションも済ませておいたので、これで大丈夫だと自分に言い聞かせる。
(誰もいないとは思うけど)
どう考えても休業日の様子の工場に人がいるとは思えない。絶対にいるはずがないんだと不安を押し隠して、琴美は進む方向を決めた。この中で一番人がいる可能性の高い事務所に目標を定める。万が一にも誰かいるなら、ここでさっさと出会ってしまえと、やけっぱちな心境でもあった。
事務所らしき建物はプレハブの平屋建てで、近くで見てわかったことだが、かなり年季が入っている。中で過ごせば、夏は暑く冬は寒いの典型的な気候が体験できそうだ。周囲を一周してみたが、入り口は看板横の一カ所だけで中に人の気配はない。インターホンは見当たらなかったので、ドアを叩いてみた。
どきどきして待つこと三分。
何の応答もない。
(これはハズレなのかアタリなのか)
複雑な思いを抱えたまま、琴美は工場の方に足を向けた。敷地内は静かなので、遠くの犬の吠え声が響いてくる。琴美のブーツが小石を蹴飛ばすと、コンクリートの上を転がる音が妙に耳に付いた。
(こんな静かな住宅街だと、騒音で苦情とかくるんじゃないかなあ)
この規模の工場なら、何をやっても無音と言うことはあり得ない。きっと、文句を言われたことも一度や二度じゃないだろうと想像に難くない。
(ここが縫製工場で、中は機械じゃなくて大勢の職人さんが手縫いしてたら音は出ないかもしれないけど……)
くだらないことを考えているうちに、1と書かれたシャッターの前に着いた。幅は三メートルくらいで、ぴったりと閉まっている。右隣にある2のシャッターも、その向こうの3のシャッターも、やはり閉まっている。
(ここなら裏口とか、ありそうかな)
念のため表側を全部見てから回ろうと考えて、右に向かって歩き出した。
「――ウチに何か用か?」
いきなり背中から声をかけられて、琴美は飛び上がりそうになった。喉元まで出かかった悲鳴を飲み込んで、振り返る。
「すっ、すみません、あの、こちらにですねっ」
全然気づかなかったのだが、1のシャッターの脇に小さな通用口があった。一人の男性が、そこから顔を出して、不審そうに琴美を見つめている。まだ若い。白崎と同じくらいか。四十にはなっていないだろう。
「この、機械というか、えーとストーブの、電気のストーブですね、ここ、ここに書いてあるんですけど、これですこれっ、こちらにありませんでしょうか」
脳内シミュレーションは綺麗さっぱり消え失せていた。飛び跳ねる心臓をなだめながら、琴美はひきつった笑顔でチラシを差し出した。
「電気ストーブ?」
顔だけ出していた男は、琴美を警戒しつつ通用口から出てきた。今まで寝ていたのか、髪がぼさぼさだ。グレーのつなぎの作業服を着ていて、胸元には『豊原テック』という縫い取りが見えた。
「こちらの従業員の方ですか?」
深呼吸してから尋ねると、いつも通りの声が戻っていた。男はめんどくさそうに、視線だけで琴美を見る。
「そうだけど、あんたは?」
「私は、バイトです。これの回収の」
精一杯の営業スマイルは果たして通じているのか。
「ふうん?」
男は胡散臭そうに琴美からチラシを受け取った。写真の載っている用紙に目が行ったとき、眉がぴくりと動いたのを琴美は見逃さなかった。
「もしかして、心当たりがあったりしますか?」
「うーん、どうかな。似てるような……ちょっと待っててくれ、見てくる」
「あ、はい、いえ、あの!」
引き留める間もなく、男は中に戻って行ってしまった。扉が閉じられて、琴美は伸ばした手をぱたりと落とす。
(こういう場合はどうしたら……)
誰かいたら、白崎に知らせる。
知らせる前に見つかったら、立原技研のアルバイトだという。
(……バイトですって言った後にどうするのか決めてなかったのが敗因か!)
状況分析には成功したが、状況の改善には至っていない。琴美はそっと通用口の前で耳を澄ましてみるが、特に何も聞こえなかった。見てくると言っていたから、この建物のどこかに行っているのだろう。
(今のうちに白崎さんを呼んでくるというのはどうだろう)
なかなかの名案だと思ったのだが、振り返ってみれば、門の前は無人だった。考えてみれば、ここから門が見えるのなら、白崎からこちらも見えるはずである。この時点で何かしらのアクションがあってもいい。
強めの寒風が吹き寄せて、琴美は思わず首をすくめた。
(寒いから車の中に戻ったんじゃ……)
まさかと思いつつ、コートとマフラーだけの姿を思い出すと否定しきれない。電話で呼びつけようにも、琴美は白崎の携帯番号を知らなかった。貰った名刺を取り出してみたが、会社の代表番号しか書かれていなかった。ダッシュで走って戻ろうかと悩んでいるうちに、再びドアが開いた。
「悪いな。こっちじゃなくて、事務所の方だった。あっちのプレハブなんだ」
先ほどより少し態度が和らいで、男は琴美を手招きした。琴美は逆戻りだが、今覗いてきましたとは口が裂けても言えない。
「今日は、こちらはお休み、なんですよね?」
「そんなところだな」
早足の男の横に並ぶと、その身長差に驚く。男はかなり背が高い。百八十センチは軽く超えている。
「お休みとは知らずに、いきなりお邪魔してすみませんでした」
「かまわないよ。休んでたら仕事終わらないしな」
「休日出勤ですか。やっぱり、社会人は大変なんですね」
半分本音で言うと、男は少しだけ琴美に興味を持ったようだ。
「バイトって言ってたよな。今、大学生? シューカツ中ってやつ?」
「そのとおりです」
「ふぅん――バイト先は、そのまま雇ってくれたりしないのか?」
「えーと、まだ確約じゃないんですけど、そんなお話もあるような無いような……」
「そこはちゃんと聞いとけよ。経験有りなんだって食いついとけ」
「はあ」
口調は素っ気なかったが、どうやら励ましてくれたようだ。途端に男がいい人に見えるのだから、我ながら現金だと思う。
「がんばります」
事務所の前で、男はポケットから鍵を取り出した。立て付けが悪いのか、何度も鍵穴に差し込んで、ようやくノブが回った。
「寒いから、中に入っててかまわないよ」
「ありがとうございます」
言葉に甘えて琴美は事務所の中に入った。ひんやりした空気が顔に当たる。人気がないことを差し引いても、外見通り、冬は寒い構造のようだ。
「確か、この辺に――」
中に入ってすぐの入り口脇に、大型のコピー機が置かれていた。その横には応接セットが備えられている。応接セットの向かいはパーティションで区切られていて、覗いてみると電気コンロと小さな流しがあった。横に置かれている洗い桶の中には伏せられたままのカップも見える。
(給湯室、かな)
視線を戻して反対側を見やると、事務机の島が三つあった。どの机の上にもファイルや本が乱雑に積まれている。机の島と島の間にはコピー機にも見える大型のプリンタが陣取っていた。共有で使っているようだか、パソコンは端の机に一台しか見あたらなかった。
「あった。これじゃないか?」
事務所の一番奥で、男が手をあげた。
寄ってみると他と違って、そこは少し大きめの机が一つきりで置かれていた。椅子も両肘のついたものだったので、役員用の席なのだろうと想像する。その机の横に、ちょこんと小型の電気ストーブが置かれていた。男は見やすいようにと、ストーブを机の上に上げてくれる。
琴美はしばらくストーブとにらめっこしてから白旗を揚げた。
「すみません、その紙を見せて貰ってもいいですか? 一枚しかもらって無くて、ちゃんと覚えていないんです」
「ああ。ほら、ここ。製造番号があるだろ。この番号が同じじゃないか?」
男は写真の下に添えられている型番を見つけて教えてくれた。
「M、F、2……ほんとだ。これですね」
本体裏に貼られているシールに書かれている製品番号を指でなぞって、写真の型番と見比べる。色も形も、完全に一致した。
「事故になる前に見つかって良かったです」
ほっとする琴美と対照的に、男は眉根を寄せていた。
「そうだな。で、それ、今持ってくのか?」
「えっと……今は持ち帰れないので、こちらにあることだけ報告しておきます。後で回収の係の人が来ると思います」」
電気ストーブは小型で琴美でも抱えて持って行けるサイズだった。しかし琴美が頼まれたのはストーブの回収ではない。そもそも、回収の話はただの口実で、人がいるかどうか見てこいと言われただけだ。
「そうか。ちなみに、この場合って、代わりのをくれたり――いや、ダメか。同じ型番のが全部回収だったよな」
「すみません、代わりがあるかどうかも聞いて無くて……」
「気にしないでくれ。どうせ違うのじゃ意味がないから」
恐縮する琴美に、男は不機嫌そうにそっぽを向く。
琴美は迷いつつも、思い切って尋ねてみた。
「あの、これって何かワケ有りのストーブなんでしょうか」
「セール品みたいだな、そう言うと」
そういうんじゃない――男はストーブをじっと睨み付けたまま、ぼそりと呟く。
「これさ、実はウチの社長の、私物なんだよ」
「はあ。あ、勝手に持って行ったら社長さんに怒られてしまうわけですね」
「それは無いな。だいたいこれ、使ってると爆発するんだろ?」
「……爆発、とは書いてありませんけど……」
チラシの注意書きを二度読み返してみたが、発火の恐れとあるだけだ。
「発火するなら爆発だろ」
男は断言した。
「そうなんですか……?」
両者にはかなりの隔たりがあるような感じたが、男に押し切られる感じで、琴美は頷いた。
「確かに、火が出ないものから火が出たら、危ないことには間違いないですね」
「だろ。そんな危ないものなら、社長が怒ることはないと思うんだ。むしろ早く持っていってもらえって言うと思う」
それなら何も問題ないだろうと言いかけて、琴美は口を閉ざした。
男は冷たいままのストーブを撫でる。
「怒らないけど……残念だろうなあ」
「……まさかこのストーブがどなたかの形見とか?」
男は眉間に皺を寄せたまま、琴美を見下ろした。
「すごいこと考えるな、あんた」
琴美は返す言葉もなく、ひたすら恐縮した。
「すごく思い入れがあるように見えたので」
そう言うと、男はひるんだような顔になった。次いで、ますます不機嫌そうに顔になった。
「これは社長のだって言ってるだろ。ウチの新人が、初任給で社長にプレゼントしたものなんだよ。だから俺とは何にも関係ない」
琴美は首を傾げた。
「初任給で、ストーブを、社長さんに、プレゼント、ですか?」
何かがいろいろと噛み合わない。初任給と言えば、社会人になって初めて貰う給料のことだ。使い道は人それぞれだが、大多数は家族にプレゼントを買うと聞いたことがある。訪問したOBでも数人が、少し照れながらそんな話をしてくれた。
(ということは、新人さんは社長さんのお子さんとか?)
しかしストーブとはどういうことか。新入社員と言えば入学式と同じ桜の季節だ。春には遠い北の地方ならまだしも、早ければ三月下旬には桜の咲く関東地方だ。寒の戻りでもない限り、ストーブをプレゼントに選んだりはしないと思う。
「……社長さんは冷え性だったとか……」
「あんた、声に出てるぞ」
はっと振り返れば、男の冷たい視線がばっちり注がれていた。
「すみません、気になって考えてたら、つい」
笑ってごまかすと、男は呆れたように言った。
「ま、そんなに気になるんなら話してやってもいいけど」
「ご迷惑じゃなければ、是非お願いします」
間髪入れずに琴美は同意した。寒空の下でぽつんと待つ白崎の姿が脳裏をよぎる。が、次の瞬間には、車中で手をこすりながらヒーターで暖まっている姿に差し替わる。迷いは消えた。
「どうせ今日はもう仕事にならないしな」
言い訳するように言って、男は琴美に役員席の椅子を勧め、自分は机に腰掛けた。
「新人っても、あいつも、もう二年目か。針田って言うんだけど、そいつ。やっぱりその頃も就職難でさ。結構いい大学出たのに就職先が決まらなくて、バイトしながら仕事探してたんだと。でも卒業したら『新卒』じゃないだろ? かといってバイトじゃ経験者扱いもしてくれないし、路頭に迷いかけてたんだよ」
「身にしみる話ですね」
「そういやあんたも就職まだだったな」
「あたしのことは今はいいですから、新人さんとストーブと社長さんの話をどうぞ」
琴美の迫力にひるみながら、男は話を続けた。
「そんな力入れるような話でもないけどな。ま、そんなわけで針田の奴も、半分自棄になってるときにウチの社長に会ったらしいんだよ。その辺の事情は俺もよく知らないが、とにかくここで働くことになったんだ」
「すごく曖昧な話ですが、とにかくよかったですね」
「針田にとってはな。その後で、ウチに新人雇えるほど余裕なんか無いって、経理のベテランさんに社長がさんざん怒られてなあ」
「社長が怒られるんですか……?」
意外そうな琴美の言葉に、男はあきれたように琴美を見下ろす。
「当たり前だろ。世の中悪いことしてつかまる会社は、たいてい一番偉い人を下の人が怒れない会社に決まってる」
男の理論で行けば、いつか白崎を自分が怒る日が来るということだろうか。しかしそうなるには、やはりベテランになってからじゃないと格好が付かない。そんな日が来るのは遠いようだ。
「新人を雇いたいなら誰かを辞めさせろ、なんなら自分が辞めるとかベテランさんが言い出したんで、社長がとうとう自分の給料半分でもいいって言い出したんだ」
「それはすごいですね。そんなにすごい新人さんだったんですか」
男は首を横に振った。
「そうだったら就職浪人なんかしてないだろ。ウチの社長はアレだよ、目の前に箱に入った捨て猫がいたら、つい拾って来ちゃう人なんだよ」
わかりやすい例なだけに、次に起こることも予想がつく。
「そしてお母さんに怒られるんですね」
「この場合、経理のベテランさんだったけどな」
そこで初めて男は笑った。