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 松ヶ峰学院大学は総合大学だが、マンモス校と言うほどではない。各学部学科の定員は少人数教育という理念の元に少なめに押さえられていて、卒業するまで同じ学部の学生であれば知らない顔はなくなる。キャンパスは都心から離れた郊外にあり、広々とした敷地にゆとりのあるキャンパス設計がされていた。

 校舎は全部で三棟で、川の字状に並んで建てられている。この他に温水プール付きの体育館とグラウンド、それと学生用の会館があって、食堂はそこの一階にオープンテラス付きで備えられていた。こんな冬の日でも、数人の学生がマフラーとダウンジャケットで、モコモコになりながらテラス席でおしゃべりに興じている。琴美の知らない顔なので他の学部の下級生なのだろう。前田が「寒いのに元気ねえ」と、にこにこと手を振って通り過ぎた。

「何か飲む?」

 紙カップドリンクの自動販売機の前で、前田は琴美と白崎を振り返った。

「それくらい自分で出しますから、前田さんは自分の好きな物を買ってください」

 白崎がそう言うので、琴美も財布を取り出して同意を示した。

「遠慮しないでいいのに。それじゃあ何にしようかしら。こういう自販機ってどれも緑茶とか無いのよね。カタカナって想像がつかないものも多いし。鎮森さん、何かお薦めのものある?」

「最近はいつもココア一択なんですけど、甘いのは好きですか?」

 前田はずらりと並ぶボタンの前で眉間に皺を寄せている。

「嫌いじゃないけど今は違う物がいいわねぇ。これはコーヒーってことでいいのかしら」

「ティーラテは紅茶の方です、前田さん。コーヒーはこのラインで、紅茶はこっち。それ以外のジュース類はここですね。ホットがこっち側のボタンで、アイスがこっち側です。甘いのが良ければそのまま押していいですけど、甘くないのが良ければこの砂糖無しボタンを先に押してください。アイスの場合は氷が要らないなら、このボタンを先に」

 自販機業者のセールスのごとく説明すると、前田は納得した顔で琴美に小銭を渡した。

「それじゃ、甘くない暖かい紅茶を買ってもらえるかしら?」

「了解しました」

 琴美が希望通りのボタンを押してやっている後ろでは、白崎が笑いをかみ殺していた。

 出てきた紅茶を大事そうに受け取って、前田は先に空いているテーブルに向かった。白崎が先を譲ってくれたので、琴美はホットココアを買って前田の前に座った。最後に白崎が、コーヒーをテーブルに置きながら、前田に話しかける。

「あっちのあの建物、なんです? 最近できたんですか?」

 白崎が指したのはテラス席の奥だった。倉庫のようなこぢんまりした建物がある。

「ああ、あれは喫煙所よ。できたのは、確か三年前だったかしら」

「あたしが入学した年の夏休みにできたから、そのくらいですね」

 前田に視線で問われて、琴美も記憶を巻き戻した。

「喫煙所? そうすると、学内禁煙ですか?」

「全部じゃないけれどね。校舎内は禁煙って事になったわ。それ以外は分煙と言うことで、あれができたの。市の条例ができて、分煙のための改装費用を一部補助してくれるというから、ついでに食堂の改装も兼ねて、ね」

「言われてみれば、綺麗になりましたね、ここ」

 感心したような白崎の言葉に、前田は嬉しそうな顔になる。

「いいでしょ? 学生にアンケートを採ったら、おしゃれなカフェみたいにしてほしいって意見ばっかりで、がんばったのよ」

 前田の言葉どおり、他大学の食堂と比べてかなり見栄えが良くなっている。エコ設計により自然光をふんだんに取り入れるようになっているため、昼間は照明なしでも充分に明るい。壁の部分は下から茶色、モスグリーン、ベージュと塗り分けられていて、天井にはシーリングファンがゆっくりと回っている。室内のテーブルは、どっしりとした木目調の長テーブルが並び、椅子は同じ木目調ではあるが、こちらは対照的に華奢なつくりだ。

 テラス席のテーブルセットは小さな丸テーブルとシンプルな椅子で、ベージュ色で揃えられている。雨天時に片付けやすいようにと、あっさりしたデザインのものが選ばれたのだが、これはこれで『可愛い』と女子学生達に好評だった。

「写真なんか撮ったらポストカードにでもなりそうですね。でも、昔よく食べた食堂のラーメン、食べられなくなったのは残念だな」

 少し寂しそうな白崎の前で、前田と琴美はそろって首を横に振った。

「何言ってるの。食べられるわよ」

「メニューはほとんど変わってませんから」

「……は?」

 おしゃれな雰囲気のテラス席にラーメン丼が並ぶ絵は想像し難いだろうと、琴美は「あそこです」と指さした。三つほど離れた席で、男子学生のグループがプラスチックトレイで運んできたラーメンを、音を立ててすすっていた。

「結局、質より量なのよね、男の子は特に」

 がっかりした様子で前田が言うと、

「……少しほっとしましたよ」

 白崎は複雑な表情でコーヒーをすすった。

「ここまで話を聞いておいてアレなんですが、卒業生なんですか?」

「え? 俺?」

 白崎が驚いて琴美を見つめる。他に誰がいるのだと突っ込みたいのをぐっと堪えて、琴美は黙って頷いた。

「あら、ごめんなさい、まだ紹介もしてなかったわね」

 持ち上げていた紙カップをテーブルに戻して、前田はまず琴美を白崎に紹介した。

「白崎くん、こちらは鎮森さん。情報工学科の四年生よ。鎮森さん、こちらは白崎くんといって、うちの経済学科の卒業生で、なんと今は会社の社長さんよ」

 自分の息子を自慢するかのような口調に、白崎が狼狽える。

「前田さん、俺は社長と言っても、数人しか社員のいない零細企業の……」

「それでも起業できるだけすごいです」

「いや、起業したわけでも……」

 琴美の賞賛の言葉に、白崎はなぜか肩を縮こまらせた。居心地悪そうに視線を逸らしてコーヒーを口に運ぶ。

「それより前田さん、何か話があったんじゃないんですか? あんまり長居してられないんで、早めにお願いします」

「忙しそうね。良いことだわ。それじゃ簡単に言うけど、白崎くん、あなたのところで鎮森さんを採用してみない?」

 ストレートな要求に、白崎は紙コップを落としそうになった。

「うちに? 何でまた急にそんな話に――」

「だってあなたが急に来るから。宮本先生も、もう少し早めに言ってくれれば他にもいろいろ紹介したんだけど」

「急も何も、俺は別に先生に会いに来ただけで――って、宮本先生が?」

「そうよ。教え子のあなたが挨拶に来るから、ついでにあぶれてる学生の二、三人面倒見させるかって」

「みさせるか、って、そんな簡単な話じゃないですよ! だいたいそんな話、俺は聞いてないですよ!」

「変ね、宮本先生はちゃんとあなたに話したっておっしゃってたわよ?」

「ほんとにそんな話は――」

 不意に、白崎は黙り込んだ。視線が宙を彷徨って、最後に地面に落ちる。

「……いや、もしかしてあの時言ったのがそうだったのか……?」

 焦った様子で独り言を漏らすと、前田が勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「ほーら、やっぱり話があったんじゃないの。それじゃ決まりね」

「決まり、って、いや前田さん――」

 白崎のうめきを無視して、前田はにこにこと琴美に顔を向けた。

「鎮森さん、履歴書持ってたら渡してあげてくれる? 白崎くんのところまだエントリシートなんて無いはずだから、それと卒業見込証明書だけでいいと思うわ」

「さすがに今は持っていないので後で送らせていただきますが、住所はどちらでしょうか……?」

「それならここに……って、ごめんなさい、白崎くん、さっき貰った名刺置いてきちゃったみたい」

「……はい、どうぞ……」

 すでに反抗する気力も失せたのか、白崎は内ポケットからカードケースを取り出して、名刺を一枚、テーブルの上に滑らせた。失礼しますと、琴美が取り上げる。縦書きの名刺の中央には『代表取締役 白崎暁しろざきさとる』と役職と氏名が、その右側には社名と所在地が印刷されていた。

立原技研たちはらぎけん……? すみません、何をする会社でしょうか?」

「もっともな質問だけど、普通は履歴書の話をする前に訊くことだよな……」

 気の抜けたような白崎に、琴美はすみませんと繰り返すしかなかった。

「いや、責めてる訳じゃないから気にしなくていいよ。君のせいじゃないから」

 君の、というところで白崎は前田をちらりと見やったが、当の本人は涼しい顔で紅茶を飲んでいた。

「白崎くんのところは、いわゆるベンチャー企業だったわよね」

「ええ、主にIT関連ですが、不況の風は吹き荒れています」

「でも仕事はあるんでしょ?」

「一応……進行中のプロジェクトはいくつかありますが」

「じゃあ、人手は欲しいわよね」

「そりゃ、あって困ることはないですが――」

 白崎の胸元で、携帯の着信音が響いた。白崎は胸ポケットから携帯を取りだし、失礼しますと席を立った。

「前田さん」

 離れたところで会話をする白崎を見やりつつ、琴美は前田を呼んだ。

「どうしたの?」

「このお話、あたしにはほんとにありがたいですけど、大丈夫なんでしょうか?」

「白崎くんの会社の経営が大丈夫かってこと?」

「そこも気になりますが、とりあえずはこのお話自体が先輩にご迷惑なんじゃないかと」

 琴美の言葉に、前田は目を丸くして言った。

「鎮森さん、就職相談なんかやってる身としてはあんまり言いたくないけど、あのね、世の中、新人を雇うことくらい迷惑なことはないのよ? 仕事を一から教えなきゃいけないのに給料は持って行かれるんだからね」

「え」

 思いがけない切り返しだった。絶句する琴美に、前田は満面の笑みを見せる。

「そして、いずれはあなたも迷惑をかけられる側になるのよ。一人前の仕事もできないくせに一人前の給料持って行きやがって! て思うのよ。だからそんな心配はするだけ無駄よ」

「はあ……そう、なれますか?」

 就職できなければ一生迷惑かける側なのではと琴美は訝しんだが、前田はそれも笑い飛ばした。

「就職に限らないでしょ。あなたが何か始めたらそのときあなたは『新人』で、それを続けていたらあなたの後に始めた人が次の『新人』になるだけよ」

「奥が深いですね」

「そう言ってくれるのは鎮森さんだけよ。他の子に言ったら『そんなの詭弁です』ってキレられたわ」

 がっくりと頬杖をついて、前田はやや離れた位置でやりとりを続けている白崎を見やる。

「現実的な話をすれば、そうねえ、元々採用予定がなかったようだから、大変かもしれないわねえ、白崎くんのとこは。でも、宮本先生の口添えがあるんだから、採用しないわけにはいかないでしょうね」

「その宮本先生って、経済学部の宮本教授のことですか?」

「さすがに知ってるのね。そうよ、白崎くんはその宮本教授の教え子なのよ。あの先生は経営論も専門だから、前から相談に来てたみたいなの」

「それはやっぱり会社設立のため、でしょうか」

「設立ではなかったみたいね。親類の会社を継いだとかなんとか聞いたわ。どっちにしても宮本教授は今の白崎くんの会社の先生でもあるから、その恩師がよろしくって言ったら断れないものなのよ」

「社会の後ろ暗い人間関係を見たような気がしますが」

 琴美が真顔で言うと、前田は横目で琴美を見て笑った。

「コネと人脈は使うためにあるものよ?」

「……よく覚えておきます」

 人生の大先輩の教訓を、琴美はココアと共に飲み干した。

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