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普段、ネタは主人公から考えるのですが、この作品に限っては主人公じゃ無い人たちの会話から始まりました。楽しんでいただけたら幸いです。
新しい年も迎えたというのに、一ミリグラムもめでたくない。
一歩踏み入れただけで、暗く重い空気が全身にしみこんでくるかのようだった。
『就職相談室』
私立松ヶ峰学院大学の就職最前線であるその一室には、人の姿は多くない。多くは入れないのだ。小さな窓のある壁面以外は全て掲示板と本棚とパンフレット立てに占領され、部屋の中央には会議用のテーブルを組み合わせて、六台のパソコンが置かれている。間仕切りの向こう側は少人数用の相談スペースになっていて、相談員やOBとの面接に使われる。この部屋の定員は多く見積もっても十人くらいだと、情報工学科四年の鎮森琴美は冷静に分析していた。
(こんなものかな)
閲覧していた就職サイトに目新しい情報が皆無であるのを確認してから、琴美は席を立った。この部屋に通い詰める一人であるので、当然、琴美の就職先も未定である。昨日、二次面接まで通った最後の一社から不採用通知が届いたので、また最初からやり直しだ。一般職の応募だったので大した期待はしていなかったが、不採用と言われれば、それなりに落ち込む。
(幅広く当たれと言われてもねえ……)
巷にコンピュータが溢れかえる世の中だから、自分の専攻ならどこかに入り込めるだろうと言う目論見は甘かったと再認識する。入学前のオープンキャンパスでも入学式でも、昨今の求人の厳しい現状について繰り返されたことを今更ながらに思い出して、ため息をついた。
「あら、鎮森さん、もう帰るの?」
これ以上この暗い空気にさらされていると、体にも心にも肌にも絶対に良くない。気分転換に駅ビルの中でも冷やかしてから、またエントリシートを作る作業に戻ろうと就職相談室を出たところで、琴美は年配の女性に声をかけられた。
「あ、前田さん。こんにちは」
琴美に微笑みかける小柄な女性は、就職相談室の職員の前田だ。ライトブラウンに染めた髪を綺麗に短く整えて、モスグリーンのスーツを着ている。そのスーツは琴美が見たこと無いものだったから、新年おろしたてらしい。琴美を始めとする就職相談室の常連は、前田のスーツが全部で六枚で着回されていることまで嫌でも知ってしまうのだ。
「じゃない、明けましておめでとうございます」
訂正すると、前田は丁寧に頭を下げて「おめでとうございます」と返してくれた。そういえば今日は就職相談室で姿を見かけなかったと思ったら、来客中だったようだ。
前田の隣には若い男性が立っていた。年齢は三十代前半くらい。ダークグレーのスーツを着て、コートと鞄を片手に提げ、フレーム無しの細い眼鏡をかけた姿は、どこからどう見ても立派なサラリーマンだ。
「早速だけど、状況はどんな感じかしら?」
尋ねられて、琴美は前田に視線を戻した。
「状況ですか。一進一退と言えるだけマシ、でしょうか」
ある程度まで進めるが、内定には至らない。そう正直に告げると、前田は顔を曇らせた。
「それじゃ、こないだの会社は……」
琴美は肩をすくめて不採用だったことを告げた。
「前田さんのイチオシだったんですけど、やっぱりあたしの実力が足りなかったみたいで。でも、大丈夫ですっ。まだ説明会も途切れてませんからね!」
「つまり具体的な採用の話まで行ってる会社は、今はどこもないということね?」
前田の声は優しいが、言葉は鋭い。
「……具体的に言うと、そうです」
握った拳の行き先に困りながら、琴美はこっくりと頷いた。
「ねえ、鎮森さん、少し時間ある?」
「今のところ有り余ってますが」
「じゃあ一緒に来てくれる? そうね、食堂に行きましょう。白崎くんも一緒に」
言って、前田は隣に立つ男性を見上げた。小柄な前田より頭一つ分は大きい男性は、びっくりした表情で聞き返した。
「俺もですか?」
「そう。ちょうどいい巡り合わせだと思うのよ。宮本先生にも頼まれているんだから、嫌とは言わせないわ。はい、いきましょう」
白崎と呼んだ男の背中を叩いて、前田は意味ありげに微笑んだ。