周囲の不穏な動き
主人公:大津武
山畑さんは僕のことをからかっているのだろうか? それとも何らかの好意を持っているのだろうか? 月見コンパが終わった後、僕は山畑さんに誘われて、再びサークル棟の屋上に二人で戻った。彼女は人にタバコを勧めるのが本当に好きなようである。僕はそれを受け取って、二人で一緒にタバコを吸った。酒を飲んだ後の甘ったるい変な感じがタバコの苦味で中和されていくのが心地よかった。僕らは月に向かって煙をかけた。月が一瞬、おぼろになった。
そして、いろんな話をした。さっきまでやっていた外見を重視するのか、それとも中身を重視するのかという話もした。大学やサークルの話もした。それぞれの中学や高校の話もした。それはあの夜に突然始まったことではなかった。合宿では同じ班だったから、お互いの携帯番号やメルアドも知っている。合宿で酔いつぶれたときに介抱してもらった時だってそうだった。二人で話すことは今まで何度かあった。でも、それは偶然であって、この日のようにどちらかが意図的に行うものではなかった。夜明けまで話し続けた僕らは朝日を浴びながら、二人で帰った。僕にとっては夢のような出来事だった。
一〇月に入ってからも夢のような日々が続いた。僕は山畑さんと一緒にいる機会が何かと多かった。電話やメールのやり取りも自然と増えていった。最初は方研に関するやり取りばかりだったのに、気がつけば全く関係ないことばかりやり取りするようになった。僕は方研の活動が楽しくてたまらなかった。
一〇月の方研のテーマは「近畿・中部地方の方言の分類」であった。三回ともこの分類に関する調査と話し合いが行われた。その結果、西関西(兵庫・大阪・和歌山)、東関西(京都・滋賀・奈良)、東海(三重・愛知・岐阜・静岡)、北陸(福井・石川・富山)、甲信越(山梨・長野・新潟)に分類されることになった。西関西と東関西は関西と言う一つのグループにまとめることができたが、中部地方はそれぞれの独自性が強いため、一つのグループにまとめることができないという結論になった。しかし、そんなことはどうでもよかった。
一〇月後半になると、僕の身の回りでいろんなことが起こるようになったため、方研の活動どころではなかった。山畑さんが僕の見知らぬ男と一緒に歩いていたのである。ショックだった。僕はまだ女性と付き合ったことがないから、山畑さんのきまぐれから勝手に妄想を膨らませていたところがあったのかもしれない。
また、同居人の亀池が恋人とうまくいかないということで毎日のように相談を受けていた。亀池は島崎さんと付き合っていた。彼女は高校時代の同級生であり、同じく弓道部にいた。島崎さんには二人が付き合う前からよく相談を受けていた。僕は島崎さんに密かに思いを寄せていたが、彼女が亀池のことを好きなのを知っていたので初めから諦めていた。また、亀池が島崎さんを好きなのも知っていた。だから、僕は二人から相談を受ける立場に満足するしかなかった。
二人が現役で大学に入ってからは、僕が浪人生活をしていたこともあって相談を受けることは一度もなかった。だから、二人はずっとうまくいっているものと思っていた。しかし、実は二人が二年生になった頃からずっとうまくいっていなかったらしい。なんとか二人で解決しようとしていたらしいが、どうにもならなくなって僕のところに問題が持ち込まれることになった。それは亀池からのときもあったし、島崎さんから持ち込まれることもあった。ときには両者の間に入って三人で話し合うこともあった。しかし、二人の仲はもう元に戻りそうにもなかった。やがて、二人は別れた。三年半も続いた二人の関係は僕の目の前で終わりを告げた。
すると、亀池は現実から目をそらすようにますます弓道にのめりこんでいった。弓道で始まった関係が弓道によって壊されるとはなんとも皮肉な話である。島崎さんは新関東教育大学に入学した後、弓道は僕と同じようにやらない道を選んだ。理由は僕とは全く異なっていて、教師になるためにしっかり勉強するためであった。最近は少子化の影響で教員採用枠が減っているので、相当頑張らないと先生にはなれないそうである。両者がお互いに異なる道を歩みだしたときから、二人はだんだんお互いがわからなくなった。初めはささいなすれ違いで、そのときならどうにかなっただろう。しかし、お互いに新しい生活に慣れるのに必死でそれどころではなかった。二人が大学生活に慣れた頃には二人のずれはとてつもなく大きくなっていった。こうなるとどうにもならない。
一一月に入ると亀池は初めてレギュラーに選ばれた。三年生が引退してから最初の試合であり、彼は大喜びで遠征に行った。僕は弓道に全てをぶつけている彼をほほえましく思い、また、哀れに感じた。
「試合頑張って来いよ」
「もちろんよ。じゃあ、行ってくるから…」
そう言って彼は旅立っていった。出で行く直前に見た彼の背中はとても小さく見えた。初めての試合に緊張しているのか、それとも、まだ失恋の苦しみを引きずっているのか、僕にはわからない。ただ、一瞬開いたドアから冷たい空気が入ってきて、それが冬の訪れを告げていることだけは理解できた。恋をしたことのない僕にわかるのはそれだけだった。
『一緒に映画を見に行かない? 今まで相談に乗ってもらったお礼がしたいの。』
島崎さんからのメールを見て、僕は驚きを隠せなかった。二人が別れるまでに僕は数え切れないほど彼女から相談を受けたが、今まで一度としてお礼をしてもらったことはなかった。どういう風の吹き回しだろうか?
『そんなお礼されるほどのことはしてないよ。仲のいい女の子同士で見てくるといいよ。』
とりあえず、一回は丁寧に断ることにした。僕は好意をすぐに受けるほど厚かましくなかった。
『恋愛モノを女同士で見に行かせるつもりなの? お願いだから一緒に行こうよ。』
『わかった。ありがとう。楽しみにしておくね♪』
再び断ると相手に対して失礼なことを僕は心得ていた。このとき、僕は彼女を元気つけるにはどうしたらいいかと言うことしか考えていなかった。
亀池が遠征中でいない中、島崎さんとの約束の日が来た。この日の彼女はいつもよりかわいくてきれいに感じられた。僕らは早速、映画を見に行った。かつてであれば、亀池に内緒で島崎さんに会うことは裏切り行為そのものであった。しかし、今は違う。もし彼女と付き合うことになったとしても問題はなかった。
映画を見ながら、こんな妄想をしている自分が恥ずかしかった。彼女は映画を見て泣いていた。映画は最後の山場を迎えている。同じものを見ているはずなのに、どうして僕は何も感じないのだろうか? あらすじは恋人が不治の病にかかり、その子のために彼氏がいろいろと手を尽くして最後の思い出を作ってあげるという物語だった。
そのとき、何かが僕の手に触れたので、びっくりした。よく見ると島崎さんの手が僕の手の上にあった。僕は完全に映画に集中できなくなり、迷った末に僕は彼女の手を優しく握り締めた。そのため、どういう結末を迎えたのかよくわからなかった。
映画が終わると僕はあわてて握っていた手を離した。島崎さんが少し顔を赤らめていた。僕は体が熱くなっていくのを感じた。なんかくすぐったい気持ちを抱えたまま、僕らはピエトロに行って、お昼を一緒に食べた。外からの日差しがとても心地よかった。僕はナポリタンを頼み、彼女はカルボナーラを頼んだ。二人で一緒に食べるご飯は格別の味だった。
その後、僕らは近くの駅ビルに入っていった。そして、いろんな店を回った。服を一緒に見て回ったり、かわいいぬいぐるみを見つけたり、一緒にプリクラを取ったり…。高校の頃から島崎さんを知っているはずなのに、今日の彼女はとても新鮮だった。
「大津君、こんな所で何をやっているの?」
それは無印良品の売り場を見ているときのことだった。なんと、目の前に山畑さんがいるではないか…。
「映画を見た帰りに駅ビルに寄っただけですよ。山畑さんこそ、何をされているんですか?」
「無印の商品を買いに来たのよ」
「無印の商品はいいですよね。僕も好きなんですよ」
あいさつ程度のやり取りをした後、山畑さんは他のコーナーへと行ってしまった。
「あの人、誰なの? サークルの先輩?」
「そうだよ。方言研究会の先輩の山畑さんと言う方なんだ」
「あっ、そうなんだ…。あっ、大津君、これ見てよ。この下敷きかわいくない?」
そう言って、島崎さんは意味ありげにあわてて話題を変えた。その後、彼女は下敷きを持ってレジに向かった。もう外はすっかり暗くなっていた。その後、僕らは駅のホームに向かった。外の風が昼と違ってかなり冷え込んでいた。
「大津君、今日はありがとう。もし、高校のときに大津君と付き合っていたら、どうなっていたんだろうね…」
駅のホームは電車の音やら人々のざわめきがすごかったが、それでも彼女が言った残酷な言葉ははっきりと聞き取れた。
「今さら、そんなこと言ってもどうにもならないよ」
そう僕が言うと彼女は電車に乗り込んで、電車と共に闇の中に消えていった。それからすぐに僕が乗る電車が島崎さんを乗せた電車が消えていった方向からやってきた。僕はそれに乗り、彼女と逆の方向に帰る。本当はこんな日が来る事をずっと心待ちにしていたはずなのに…。高校二年のとき、島崎さんにふられてから、僕はずっとこの機会をうかがっていたはずだった。
でも、無印で山畑さんに会ったとき、僕はとても気まずかった。山畑さんにだけは見られたくなかった。島崎さんと一緒にいるところを見られたくなかった。そのとき、やっとわかった。僕は山畑さんのことが好きだと言うことが…。なんでこんな簡単なことに気付かなかったのだろう…。
電車が目的地に着いた。僕は電車から降りて、家までの帰り道を歩く。ふと、数日前に山畑さんが見知らぬ男と歩いていたことを思い出した。あの人は誰だろう。もしかして、山畑さんの新しい恋人だろうか…。山畑さんに言い寄る男はいくらでもいるだろう。
やっと、自分の本当の気持ちに気づいたのに…。本当の気持ちなんかに気付かなければよかった。この夜はいろんな気持ちがお互いに譲らなくて、とても興奮していた。結局、朝まで眠れず、次の日の講義を全てすっぽかしてしまった。